第45話 王宮の香に、底があります
二日のあいだ、わたくしたちは紙を揃えておりました。
ハンスの帳面。マルタ様の見つけた古い検収の控え。谷の杭の焼印の写しと、薬瓶の刻印の写し。それからわたくしの十年ぶんの走り書きです。
検分の場に選ばれたのは謁見の広間ではなく、石造りの小さな部屋でした。香を焚いたことのない部屋を、と願い出たのはわたくしです。壁に匂いの染みた部屋では検分になりません。
部屋に入って最初にしたのは、窓を開けてもらうことでした。石の部屋は匂いをためます。人が五人も入れば、半刻で部屋の匂いは人の匂いになります。樽を開けるまでに部屋の底を空にしておかなければ、樽の底まで届きません。わたくしは窓際に立って、外の風が一度部屋を通り抜けるのを、鼻で待ちました。
廊下で順番を待つあいだ、マルタ様が小声で仰いました。
「緊張してるかい」
「しています」
「いいね。あんたのそれは顔に出ないから値打ちがあるよ」
ハンスは帳面を胸に抱えて、さっきから同じ場所に立っておられます。
「手前は……字が汚いのだけが、心残りで」
「綺麗な帳面より、毎日つけた帳面です。胸を張ってください」
窓の下の中庭には荷車が一台置かれています。その上にノクスが伏せておりました。中へは入れません。ただ、窓にいちばん近い場所をあの仔は自分で選びました。
王は供の方を三人だけ連れて入ってこられました。年かさの侍従の方と書記の方と、それから香の樽を担いだ騎士の方です。
「始めよ」
最初に進み出たのはハンスでした。二十年厩舎に勤めた手が、帳面を捧げて震えています。
「恐れながら。手前の帳面にございます。字は汚のうございますが」
「読める。よい字だ」
王は頁を繰る手を途中で止められました。
「香の等級が上がった月と、獣たちが荒れ始めた月が」
「重なっております。手前が数えましたところ、この三年で七度」
「最初はいつだ」
「三年前の春でございます。香が変わったと手前が最初に書きましたのは」
次はマルタ様でした。八年前の検収の話です。量目の合った樽と、匂いの合わない香料と、余白に残した署名。それから差し戻しを三度数えた検収係が、どこへ回されたか。
「その香料の納め元は」
「アーレンス香料商会にございます。いまも王宮の香料はあの商会の樽で入っております。樽が三つ入る月も、この三年で七度。獣たちが荒れた月と同じでございます」
王は書記の方に何かを書き取らせて、それから写しを二枚並べさせられました。薬瓶の底と谷の杭です。
「同じ紋である、と申すのだな」
「線の癖まで同じにございます」
「王家の紋がなぜ谷の柵にある」
「それを確かめていただきたく、本日の検分を願い出ました」
レオンハルト様が一歩前へ出られました。
「――俺が見た」
マルタ様が袖の陰で指を三本、静かに折られました。王は長い釈明をお聞きになったときと同じだけ、深く頷かれました。
香の樽が部屋の真ん中に据えられました。いま王宮で焚かれている香と、年ごとに封をして納めてある控えの香が小箱で五つです。
「預かり屋。検めよ」
わたくしはいちばん新しい樽から蓋を外しました。
蓋を外す前に、樽の外側を一周しました。木口の色、箍の錆、封蝋の割れ方。封は検収の判のまま、割られておりません。つまり、中身は納められた日のままです。わたくしが嗅ぐのは、今日の香ではなく、納められた日の香なのでした。
いちばん上に花があります。白い花を乾かした明るい匂いです。その下に樹脂。焚けば甘く立つ上等の涙型です。その下に樹皮と乾いた土。ここまでは香りの職人の仕事です。積み方に迷いがありません。
その下に、もう一層ありました。
甘い。焦がした蜜のような。底に金気。
「……ございます。いちばん底に」
「控えを。古いものからだ」
五年前の小箱は底まで香のままでした。四年前も同じです。三年前の小箱の底に同じ層がありました。二年前にも、去年にもです。
小箱は、古いものから順に開けました。新しいものから開けると、鼻にあの行が残ったまま古い香を嗅ぐことになり、無いはずの層を嗅いでしまうからです。箱を替えるたびに、窓へ顔を向けて、外の風で鼻を洗いました。辺境で帳面を書くときも、王都で灰を嗅いだときも、やり方は同じです。順番だけは、崩しません。
「三年前からです。王宮の香は三年前の春から、底に薬を敷かれております」
部屋の中で動く方はありませんでした。王がゆっくりと樽に歩み寄られて、ご自身で顔を近づけられました。
「……花の匂いしか分からんな」
「それがこの薬のいちばんの効き目です。人には花までしか嗅げません。獣は底まで嗅ぎます。王宮の獣たちは三年、花の匂いの底から敵の匂いを嗅がされ続けてまいりました」
「敵とは」
「この薬は、獣の鼻に敵を教え込むための薬です。焚かれるたびにすこしずつ。わたくしどもが王都へ参りました頃、立ったまま眠る仔が十四頭のうち九頭おりました。獣は敵の匂いのする場所では横になりません」
王の手が樽の縁で止まりました。
「そなたは十年、あの厩舎におった」
「はい」
「なぜ誰も気づかなんだ。……そなたも、か」
わたくしはこの二日、その問いにだけ答えを用意してまいりました。それでも口に出すのに、息がひとつ要りました。
「わたくしが毎朝、捨てていたからです」
「……なんと」
「香炉の灰は朝いちばんに捨てておりました。藁は湿る前に替えておりました。窓は夜のうちに開けておりました。この薬は焚いているあいだは花の下に隠れて、灰と湿った藁の中に溜まります。わたくしがいちばん先に捨てていたものの中に、です」
香が変わったことは覚えております。仕入れが変わったのだと、あの頃のわたくしは思っておりました。
「わたくしは十年、同じことを毎朝しておりました。匂いを整えているつもりでした。香が変わってからの毎朝は、それが薬を捨てることになっていたのです。知らずにおりました」
言葉にしたのは初めてでした。王は何も仰いません。わたくしは息を継いで、最後まで申し上げました。
「わたくしが去ったから厩舎が崩れたのではありません。わたくしがいたあいだも、王宮の獣たちはずっと壊され続けておりました。壊すそばから捨てる者がいなくなった。それだけのことだったのです。……わたくしが整えていたのは、崩れないように、ではありませんでした。壊されないように、だったのです」
王は長いあいだ樽の中を見ておられました。
顔を上げられたとき、その目は怒っている方の目でした。声だけが静かでした。
「香を止めよ」
侍従の方が息を呑まれました。
「……儀礼の香も、でございますか」
「すべてだ。広間も回廊も厩もだ。王宮から香をひとつ残らず下げよ。検めが済むまで、一本たりとも焚くことならん」
「は……はっ」
「それから」
王は樽の蓋をご自身の手で閉じられました。
「この香は納められる前に、どこの検めを通っておる」
「調香室の検めを通ってございます」
「調香室は誰の管掌か」
侍従の方はすぐにはお答えになりませんでした。書記の筆が止まり、樽を担いでこられた騎士の方が目だけを泳がせました。
「……大公家に、ございます」
窓の外でノクスが立ち上がる気配がしました。
燭台の火が、風もないのに一度だけ揺れました。
お読みいただきありがとうございます。
香を止めた王宮は、今夜からしばらく、匂いの抜けた妙な静けさになるはずです。獣たちにはそれがいちばんのご馳走です。何も足さない夜を、あの仔たちは三年待っておりました。
ブックマークは、厩の名札掛けに札を一枚増やしていただくようなものです。名札が増えると、厩は少しあたたかくなります。よろしければ。
次回、調香室を預かるお方がいらっしゃいます。人の名前を、けっしてお間違えにならない方だそうです。




