第44話 谷の柵に、焼印がありました
その夜のうちに、わたくしたちは北へ出ました。
レオンハルト様とマルタ様と、わたくしの三人です。荷を持たず、灯りも持たず、月あかりだけで街道を外れました。ノクスは頼んでもいないのに付いてまいります。足音は三人ぶんしか聞こえません。
牧に着いたのは夜半を回った頃でした。ブルーノ様が灯りを低くして待っていてくださいました。
「来なさったか」
「夜分に申し訳ありません」
「声はね、今夜も出てたよ。月のない晩ほどよく聞こえる。今夜は月があるから静かなもんだ」
「あの谷は、どなたの牧なのですか」
「分からんのだよ、それが。半年前に人足が来て、ひと月で柵を打った。買ったのか借りたのか、村の誰も知らん」
ブルーノ様は杖の先で北を指されました。
「ただね、夜だけ荷車が入る。月のない晩に、行きは重い音で、帰りは軽い音だ。わしは耳だけは若いんでね」
「荷車、ですか」
「月に一度か二度。……犬はあっちへ行かなくなった。犬が行かない場所には、わしも行かないことにしてる。あんたたちが行くなら、尾根までは案内するよ」
尾根への道は灌木と岩ばかりでした。マルタ様が先を歩き、レオンハルト様がしんがりに立たれます。ノクスは道を歩きません。ずっと斜面の上の、岩の影を伝っておりました。
夜の山道では、鼻が目より先に働きます。灌木の葉の青い匂いが切れたら、そこは岩場です。岩の匂いに土が混じり始めたら、足もとが崩れやすい。
わたくしは前を歩くマルタ様の靴音と、自分の鼻と、その二つだけで足を置いていきました。辺境で谷へ下りた夜と、やっていることは同じです。違うのは、今夜は誰かを助けに行くのではなく、確かめに行くのだということでした。
尾根に伏せたのは、未明にはまだ間のある頃です。
谷が見えました。
「……小屋が二つ。松明が四つ。夜番は三人ってとこだね」
「柵は」
「谷の幅ぶんある。数えきれないよ」
杭を並べた柵が谷の底を横切って延びています。そして柵の内側に、影がいくつも立っておりました。
「いるね。……痩せてる」
「はい」
「餌をやってないのかい」
「飼い葉の匂いも水の匂いもしています。……この痩せ方と、合いません」
どの仔も立ったまま、頭を低くして動きません。横になっている仔は一頭もおりませんでした。骨の形が月あかりでも分かるほどでした。
痩せ方にも種類があります。餌が足りない仔は、腹から痩せます。病の仔は、首から痩せます。この仔たちは、背と腰の肉が落ちておりました。走らされ続けた痩せ方です。休むことを許されない仔が、最後にこうなります。辺境の谷で二十二頭を見たときより、なお悪い。あの仔たちは、少なくとも横になることはできたのです。
風が谷から尾根へ吹き上げてきます。わたくしは目を閉じて、上から順に剥がしました。
いちばん上は松明の油です。その下に人。夜番の汗と革の匂いです。その下に濡れた杭と藁。その下に獣たち。そしていちばん底に――青い、草を潰したような匂い。魔除けの香です。その香のさらに下に、あれが敷いてありました。
甘い。焦がした蜜のような。底に金気。
「どうしました」
「……香です。魔除けの香が、谷いちめんに焚かれています。その下に、あの薬が」
わたくしは帳面を出して、月あかりでその行を書きました。指がいつもより一拍遅れました。
同じ行を書くのは、これで幾度目でしょう。辺境で、関所で、王都の厩舎の灰の中で。わたくしは同じ匂いにしか同じ書き方をしません。ですから、この行が増えるということは、あの薬の届く場所が増えたということです。帳面の頁が、急に重くなったような気がしました。
「マルタ様。柵の杭に何か見えますか」
「杭? ……ああ、焼き付けてあるね。番号か、印か。ここからじゃ読めないよ」
「近づきます」
「おい」
「風下の角までです。獣たちに、わたくしたちの匂いは届きません」
レオンハルト様が先に立たれました。止めるためではなく、先へ行くためにです。斜面を下りて、柵の南の角まで岩伝いに寄りました。松明の灯りが杭の面をちらちらと舐めています。
焼印がありました。
杭の面に、掌ほどの大きさで深く焼き付けてあります。わたくしはこの形の写しを持っておりました。辺境で薬瓶が押収された晩、瓶の底の刻印を帳面に写しておいたのです。要確認と、それだけ書き添えて。
帳面を開いて、杭と並べました。
線の癖まで同じです。
「……王家の紋だ」
マルタ様の囁きが途中で掠れました。
「冗談だろ。王家の焼印が、なんで盗人の柵に押してあるんだよ」
「盗まれた印か、盗まれていない印か、そのどちらかです」
「どっちも嫌だね」
レオンハルト様が杭から目を離さずに仰いました。
「……確かか」
「わたくしの写しが正しければ。写しは間違えておりません」
そのときです。柵の内側の影がいっせいに同じほうを向きました。
風が変わったのです。谷の風が渦を巻いて、わたくしたちの匂いを柵の内へ運びました。痩せた獣たちが頭を上げて、こちらの闇を見ています。吠えも鳴きもしません。ただ、全部の顔が同じ角度でこちらを向いておりました。
「動くな」
小屋の戸が開いて、灯りがひとつ増えました。夜番の声がします。獣どもが騒ぐ、どうした、風だろう、いや違う――灯りは二つになって、柵に沿ってこちらへ回り始めました。
「引くよ。閣下、先に」
「……行け」
岩伝いに来た道を戻ります。灯りは柵の角で止まって、それより先へは追ってきませんでした。谷を出るまで誰も口を利きませんでした。
尾根を越えるところで、わたくしは気づきました。
ノクスがおりません。
振り返ると、さっきの岩の上にまだおりました。谷を見下ろしたまま、彫像のように固まっています。風が黒い毛を撫でても、耳の先ひとつ動きません。
「ノクス」
低く呼びました。一拍遅れて、首がこちらを向きました。
降りてきてからのノクスはいつもどおりでした。ただ、牧へ戻る道のあいだ、一度もわたくしの前を歩きませんでした。ずっと谷側の斜面におりました。
わたくしは理由を訊きませんでした。訊いても、この仔は答えません。答えられないことを訊くのは、わたくしの仕事ではないのです。
牧の灯りが見えたとき、東の空はまだ暗いままでした。ブルーノ様が湯を沸かして待っていてくださいました。
「見なさったか」
「見ました」
「……で、どうしなさる」
誰もすぐには答えませんでした。レオンハルト様が湯呑みを置いて仰いました。
「……王へ、出す」
「相手が相手だよ、閣下。紙を揃えるだけで二日はかかるね」
「二日で揃える」
ブルーノ様が火に薪を一本足されました。
「王家の、と言いなさったか。さっき」
「聞かなかったことに、なさってください」
「わしは犬と同じでね、近寄らんだけだよ。……ただ、見張りくらいはできる。夜の荷車が入ったら、数を覚えとく。それくらいは、牧の仕事のうちだ」
「助かります」
わたくしは帳面の紋をもう一度だけ確かめました。写し間違いであってくれればと、初めて自分の写しを疑いました。
線は、どこも間違っておりませんでした。
写しというものは、取ったときには重さがありません。要確認、と書き添えた三文字が、まさか谷の杭とつながるとは、書いた本人がいちばん思っておりませんでした。帳面は書いた者より長く覚えているのです。
ノクスは帰り道、ずっと谷側におりました。あの仔があの岩の上で何を見ていたのか、わたくしはまだ訊けずにおります。
次回、紙を揃えて王の御前へ参ります。王宮の香を、底まで検めていただきます。




