第42話 匿名の依頼主は、香水がきつい
朝いちばんに届いたのは、伯爵家の家令の方からの短い文でした。祭りの夜、フィデスは上着の上で朝まで眠った、とだけ書いてあります。吠えなかった、ではなく、眠った、と。よい書き方でした。
二番目に届いたのが、白い鳥籠です。
運んできた小僧さんは、頼まれただけですと言って、名も告げずに走って帰ってしまいました。籠には紙が一枚結んであります。使い魔を一羽預けます。名はアウラ。依頼主の名は問わないでいただきたい――それだけです。
紙を開く前から、分かっておりました。いつかの、香りの濃い封筒と同じ匂いです。
「出たね、例の匿名さんだ」
マルタ様が籠を覗き込まれました。
「小さいねえ。掌に乗るよ、これ」
「飛行種の使い魔です。文を運ぶ仔ですね」
白に近い羽の、小さな仔でした。止まり木に乗っては降り、敷き藁に胸を擦りつけて、また止まり木に戻ります。先ほどから、ずっとその繰り返しです。
「姉さん、怪我ですか」
ティムが桶を提げたまま籠を覗きました。
「羽は揃っています。脚も目も綺麗です」
「じゃあ、なんで回ってるんですか。さっきから同じところをぐるぐる」
「探しものです。……自分の匂いを探しています」
わたくしは籠の戸を細く開けて、風を通しました。
いちばん上に、香水があります。花を幾つも煮詰めたような、重たい匂いです。その下に人の手。その下に籠と留め金。そのまた下、いちばん底に、この仔自身の匂いが爪の先ほどしか残っておりませんでした。
「アウラ。あなた、自分がどこにいるのか、分からないのですね」
「匂いって、なくなるものなんですか」
「上塗りされるのです。獣は、自分の匂いで居場所を確かめます。羽づくろいで匂いを羽に移して、寝床に擦りつけて、そこを自分の場所にするのです」
ティムが籠の中とわたくしを見比べました。
「この仔は毎日、拭かれて、抱かれて、そのたびに人の香りを上塗りされています。可愛がられているのだと思います。ただ、可愛がられるたびに自分が薄くなっていくのです」
「つまり飼い主の可愛がりすぎが正体かい」
「悪気の匂いはしません」
「そりゃ質が悪いね。悪気なら叱れるけど、善意は叱れないよ」
処置は、簡単です。匂いのない藁に替えて、砂浴びの箱を入れて、水を替えて、それきり構いません。
昼過ぎに、レオンハルト様が砂の箱を運んでこられました。川砂を日に干したもので、桶に二杯ぶんです。
「……これでいいか」
「はい。乾いた砂がいちばんです」
籠は風の通る軒下に吊るしました。屋根の上のノクスが、小さな羽音のするほうへ耳だけを向けています。降りてはきません。
「見張らなくていいんですか」
「見ないことが見張りです。誰も見ていないときにしか、獣は自分の手入れをしませんので」
「名前は、呼んでいいんですよね」
「はい。名前は、匂いの次に効きます」
三日目の朝、アウラは砂を浴びて、止まり木で長い羽づくろいを始めました。羽の先に、あの仔自身の匂いが戻っています。
紙には、三日ののちに取りに伺うとありました。約束どおり、昼前に門の外へ辻馬車が停まりました。
降りてこられたのは、地味な外套の女の方です。けれど、風がこちらへ吹いた時点で分かっておりました。籠のいちばん上にあったのと同じ香りです。
「……ごきげんよう」
リゼット・アーレンス様でした。
「名を問わないでほしいと、書きましたのに」
「問うておりません。風が教えただけです」
リゼット様は外套の襟を直して、それから、籠へまっすぐ歩いていかれました。アウラが止まり木の上で、その声のするほうへ首を伸ばします。
「……治りましたのね」
「治ったのではありません。もともと、どこも悪くありませんでした」
「悪くないのに、あの子は三月も夜中に籠の桟を齧っておりましたのよ」
「あなた様の香水が、この仔には少し強すぎたのです」
リゼット様の手が、籠の手前で止まりました。
「……わたくしの香りが、この仔を苦しめたと仰りたいの」
「苦しめたとは申しません。この仔はあなた様の匂いを嫌ってはおりません。自分の匂いを見失っていただけです」
柵の内側で、レオンハルト様が薪を割る手を止めておられました。何も仰いません。リゼット様は、そちらへ一度だけ目礼をなさいました。目礼が返るまで、少しだけ間がありました。
「扱いだけ申し上げます」
わたくしは、籠の吊り紐を外しながら続けました。
「触れるのは、香水をおつけになる前に。朝いちばんの、何もつけていない手がいちばん素直に残ります。籠は衣裳部屋に置かないでください。拭くのは白湯で絞った布で、藁は匂いのないものを」
「……教わりに参ったのではありませんわ」
「はい。ですが、この仔はあなた様のところへ帰ります。ですから、あなた様に申し上げるしかないのです」
リゼット様は黙って籠を受け取られました。それから、小さな革の袋をひとつ、台の上に置かれました。
「アウラの餌代ですわ」
「匿名のご依頼でしたので、お代の宛名が書けずにおりました。それでしたら、いただいておきます」
「……あなた、昔からそういう物言いでしたわね」
わたくしは、何ともお答えしませんでした。籠の中でアウラが一度だけ羽を鳴らして、リゼット様の指が、籠の桟へ伸びました。香水をつけた指です。触れる手前で、その手はゆっくり引っ込められました。
覚えていてくださったのだと思います。朝いちばんの手、と。
馬車へ戻る途中で、リゼット様は一度だけ足を止められました。こちらは振り向かれません。
「……父の香料庫に、まだ樽があります」
それだけ仰って、扉が閉まりました。車輪の音が街並みに消えるまで、誰も口を開きませんでした。
「聞いたかい、今の」
「聞きました」
「樽って言ったよ。香料庫に、まだ、だ」
マルタ様が、台の上の革袋を指で弾かれました。
「樽ってのはさ、空になってから捨てられるまでのあいだが、いちばん口が軽いんだよ。明日、王宮の詰所へ行くよ。納めの帳面がどこに積んであるか、あたしは知ってる」
「お詳しいのですね」
「詳しいんだよ、それが」
マルタ様は、それ以上仰いませんでした。
「姉さん。いまの方、どなたですか」
「依頼主です。名は問わない約束ですので」
ティムは籠のなくなった軒下を見上げて、それから小さく頷きました。この子はこういうとき、それ以上訊きません。
レオンハルト様が薪を一本、割り残したまま、街道のほうを見ておられました。
「……洗うぞ」
「はい」
門の外の香水の名残は、夕方には風に消えました。消えない樽の話だけが、机の上に残っております。
香水は、つけているご本人がいちばん早く慣れてしまうのだそうです。慣れた香りは自分では量れません。獣たちはそれを、鼻で正直に量ってしまうだけなのです。
あの方は詫びをひとつも仰いませんでしたし、わたくしも求めませんでした。ただ、朝いちばんの手のことだけ覚えて帰ってくださったなら、それで十分です。
次回、マルタ様が王宮で昔の話をなさいます。あの方が騎士をやめた理由の話です。




