第41話 十四頭ぶんの、寝藁から
香の次は、寝藁でした。
厩舎の裁量をお預かりした以上、迷信と呼ばれない仕事をしなければなりません。迷信と呼ばれないための道具は、昔からひとつきりです。手順、それだけです。
「裁量ってのはね、もらった日がいちばん重いんだよ」
「はい。ですので、今日から手順にします」
「あんたは本当に、浮かれるということをしないね」
十四頭ぶんの再点検を、東の端から順に始めることにいたしました。
東の端からというのはわたくしの決まりではありません。この厩舎の決まりです。餌も水も見回りも二十年、東から西へ流れてきました。仔たちはその順番を体で覚えております。順番を変えて得をするのは人のほうだけで、損をするのはいつも獣のほうなのです。
「手順を申し上げます。一つ、藁を全部出す。二つ、床の石を昼のあいだに乾かす。三つ、桶の高さを肩に合わせる。四つ、風の通り道をふさがない。五つ、匂いを確かめてから、新しい藁を入れる」
「ご、五つも覚えられないよ」
「覚えなくてよいのです。壁に貼りますので」
マルタ様が、炭で大きく書いてくださいました。とても達筆で、四つ目だけ字が倍ほどもあります。
「なんで四つ目だけ大きいんです」
「あたしが四つ目をいちばん気に入ってるからだよ、坊や」
「四つ目って、そんなに大事なの」とティム。
「風が止まると、匂いが溜まります。獣は自分の匂いの溜まった場所では、深く眠れませんので」
「人と逆だね。人間は自分の匂いで安心するのにさ」
「人は鼻より、目で暮らしておりますから」
藁の運び出しは、レオンハルト様が半分お運びになりました。おやめくださいと申し上げたのですけれど、荷を取り上げるほうが早い、というお顔をなさるので、諦めました。
「辺境伯が藁束を担ぐ姿、王都のお歴々に高い席から見せてやりたいね」
「……俺が早い」
「二語。今日は渋いねえ」
東の端の二頭は、気の短い仔たちです。桶の位置を直すあいだ、ハンスが正面に立って、低い声をかけ続けてくれました。
「この二頭は、わしが声を切らすと蹴りますでな」
「二十年、切らさなかったのですね」
「へえ。声だけは、安うて切れませんで」
仔たちは耳だけでそれを聞いて、脚は一度も動かしませんでした。
「西の端まで、あと幾日だい」
「三日です。急ぎません。急ぐと、確かめが抜けますので」
ノクスは戸口の外の軒下から、それを眺めております。敷居は、あの日から跨ぎません。跨いだのは一度きりで、それでよいのだと思います。
三日かけて、十四の房を全部やり直しました。
四日目の明け方に、雨が降りました。
「姉さん」朝いちばんに、ティムが走ってまいりました。「西の端の仔、また立って寝てる」
「餌は」
「食べてる。水も飲んでる」
「では、下です」
西の端の房の仔は、若い仔です。香を止めてからは横になって眠っていたのに、雨の明けた今朝は、立ったまま目を閉じておりました。
房に入って、藁に手を入れました。上は乾いております。いちばん下、床石に触れる層だけが、ひやりと湿っておりました。
藁は上から順に嗅ぎます。いちばん上は乾いた草とこの仔の体の匂い。真ん中は少し蒸れて温かい。いちばん下に手を差し入れると、石と水のひんやりとした匂いが指に残りました。かびの匂いはまだしません。まだ、です。あと二日雨が続けば出ていたと思います。
「西の壁の外は、日が当たりません。雨のあと、石だけがいつまでも乾かないのです。上の藁が乾いていても、この仔は下の冷えを知っています。だから横になりません」
「怠けてるわけでも、怖がってるわけでもないんだ」
「はい。この仔が正しいのです。濡れた床で寝ないのは、賢い仔のすることですので」
直し方も手順です。藁を全部出す。床石に古板を敷いて、地面の冷えを切る。その上に、藁をほかの房の倍。
板を入れるには、仔に房の奥へ寄ってもらわなければなりません。
「ティム。あなたがやりなさい」
「え……おれ?」
「手順は知っているはずです。正面から。低い声で。一度にひとつだけ」
ティムは息をひとつ吸って、仔の正面に立ちました。手のひらを見せて、それから低い声で申しました。
「下がって」
仔の耳が、ティムを向きました。
「……そう。もう半歩」
蹄がひとつ、藁を踏み替えました。もうひとつ。仔は房の奥へ寄って、そこで止まりました。ティムの言ったとおりの場所でした。
誰も何も申しません。ハンスが箒を持ったまま、瞬きを忘れております。
「板、入れます」
ティムの声は、最後だけ少し震えておりました。房を出てからも、その手がまだ震えているのに、わたくしは気づいておりました。武者震いというものだと思います。
「今の、姉さんの真似?」
「いいえ。あなたの声でした」
「……もう一回、言ってもらっていい?」
「あなたの声でした。二度は申しません」
ティムは袖で鼻の下をこすって、板の余りを片づけに行きました。
夕方、その仔は新しい藁の上で、脚を畳みました。
夜は、帳面の突き合わせです。
ハンスの帳面とわたくしの帳面を事務方の卓に並べました。ハンスの帳面には餌と水と夜の見回りの記録が二十年ぶん。ところどころに小さな印がついております。
「これは」
「香の匂いが変わった、と思うた日でございます。わしは鼻が利きませんでな、気のせいだと思うて、印だけつけておりました」
「気のせいは、二十年つけ続けません」
「……買いかぶりですよ、エルナ様」
「帳面は、買いかぶりません」
「あんたの帳面と、爺さんの帳面か」マルタ様が卓に身を乗り出しました。「片方は匂いで、片方は印だ。よく揃ったもんだね」
「揃うのです。同じものを、別の窓から見ておりましたので」
荒れの記録と、印のある頁を、月ごとに並べてまいります。夜鳴きが増えた月。柵を蹴る仔が出た月。立って眠る仔が、一頭、二頭と増えていった月。
突き合わせにはこつがあります。先に答えを決めないことです。重なってほしいと思いながら読むと、重なっていない月まで重なって見えてしまいます。ですからわたくしは自分の帳面を先に伏せて、ハンスの印の月だけを紙に写してから自分の帳面を開きました。辺境で関所の控えと十年分の日付を突き合わせたときと同じやり方です。
印のある月と、重なっておりました。
「……重なるね」マルタ様が灯りを寄せました。「きれいに重なるよ、預かり屋さん」
「ハンス。この印の、いちばん古いものはどこですか」
ハンスは頁をゆっくりと遡りました。指が乾いた紙の上で、何度も止まっては、また戻ります。
いちばん古い印は、三年前の頁にありました。
「……三年前」
マルタ様がそれだけ仰って、指を三本立てました。それきり、どなたも何も仰いません。灯りの芯が、ひとつ鳴りました。
わたくしは頁を、そこでいったん閉じました。
閉じても、日付は消えません。
手順というのは、覚えるものではなく、貼っておくものです。貼っておけば、わたくしがいない朝にも、誰かが四つ目を読んでくれます。字の大きい、四つ目を。
ティムが今日、初めて自分の声で獣を動かしました。声は、借り物のうちは届きません。自分のものになった日から、届くようになります。
次回、香りの濃い封筒の依頼主から、小さな使い魔が持ち込まれます。




