第40話 ノクスが、敷居を跨いだ日
三日目の朝です。約束の朝、と言ってもよいのだと思います。
三日目は私が見る、と陛下は仰いました。ただ朝いちばんに厩舎へ届いたのはその先触れではなく、総監様の書付の噂でした。効なくば厩舎の香を元に戻し、預かり屋の出入りを改めるべし。ハンスが聞き覚えてきた文言は、そういう形をしておりました。
「効なくば、ときたね」マルタ様が桶を置きました。「効いてたらどうするかは、書いてないのかい」
「書いてなかったそうで」
「へえ。片側しかない書付なんて、あるんだねえ」
「総監様は、今朝は事務方の部屋においでです」とハンス。
「厩は見に来ないのかい」
「香の帳簿を繰っておいでだとか」
「帳簿ねえ。眠ってる仔は、帳簿の中にはいないんだけどね」
わたくしは答えずに、朝の見回りを続けました。することはいつもと同じです。水、藁、風、匂い。十四の房を東の端から順に。
香を止めて三日目の厩舎は――静かでした。
立って眠る仔が一頭もおりません。どの房でも脚を畳んで横になっております。藁の擦れる音と、深い寝息と、ときどき尾の払う音。それだけです。
「……姉さん、これ、すごいことだよね」
「静かなだけです」
「その静かなのが、すごいんだよ」
「ゆうべは夜番も置きました」とハンスが申します。「置いた甲斐が、ございませんでした」
「何も起きなかったのかい」
「何も。二十年で、いちばん暇な夜番でございました」
昼前に、先触れが参りました。半刻ののちに陛下がお渡りになる、と刻限を告げるだけの短い先触れです。
ハンスが顔色を変えて箒を取りに走り、わたくしはそれを止めました。
「掃かないでください」
「し、しかし、陛下の御前を」
「いつもどおりの厩を見ていただくのです。いつもどおりが、いちばんの支度ですので」
「姉さん、緊張しないの」
「します。ですので、手を動かします」
陛下はお供を四人だけ連れていらっしゃいました。総監コンラート様は書付を手に、その半歩後ろに従っておられます。レオンハルト様も召し出されて、入口の脇に立っておいででした。
「レオンハルト・ガルド」
「は」
「そなたが連れてきた預かり屋だったな」
「……俺が、連れてきました」
「そうか」
厩舎の入口で、陛下は足をお止めになりました。
コンラート様が進み出て、口を開きかけます。
「陛下、香の等級は先王陛下の御代より――」
陛下は、手のひらをひとつお上げになりました。
「静かに」
それから、誰にともなくもうひとことだけ。
「……起こすな」
陛下は靴音を殺して通路をお歩きになりました。東の端から順にです。房のひとつずつの前で足を止めて、中を覗いて、次へ進まれます。
どの房でも仔たちは横になっておりました。筆頭のレクスも脚を畳んで深く眠っております。陛下はその房の前でほかより長く立っていらっしゃいました。
「ハンス」
「は、はい」
「いつからだ」
「一昨日の晩に、まず一頭でございます。昨夜からは……ご覧のとおり、残らず全部で」
「おまえが厩に入って、二十年になるか」
「なります」
「このような朝を、見たことは」
ハンスは、しばらく答えられませんでした。
「……一度も、ございません」
陛下は通路の真ん中で、長いこと立っていらっしゃいました。誰も何も申しません。藁の音と、寝息だけがしております。
「預かり屋」
「はい」
「そなたは、何をした」
「何も足しておりません。香を止めて、風を通して、藁を厚くしました。引いただけでございます」
「引いただけ、か」
「はい。香は人には良い香りでした。眠る場所には濃すぎただけで、誰かが悪かったわけではございません」
「そなたは、そう言うのだな」
陛下は、コンラート様をお呼びになりました。声は最後まで静かなままでした。
「等級表は、持ち帰れ。厩の香の裁量は、預かり屋とハンスに預ける」
「……陛下。恐れながら、香の等級は王家の格式に――」
「格式は、眠っている者を起こさぬためにある」
コンラート様は書付を胸に当てて、深く頭を下げられました。
「……御意に」
それきり、何も仰いませんでした。通路を戻っていかれる靴音が、この朝の厩舎でいちばん大きな音でした。誰もその背中を笑いません。笑う必要のない静けさでした。
陛下がお帰りになったのは、昼過ぎです。
「……勝ち鬨もなしかい」とマルタ様。
「誰も勝っておりませんので」
「そういうとこだよ、あんたは」
午後の見回りの途中で、わたくしは戸口に黒い影が立っているのに気づきました。
ノクスです。
この仔は、王都に来てから一度も厩舎の敷居を跨ぎませんでした。毎日わたくしを送り迎えして風上に伏せて、それでも中へは入らなかったのです。
その前脚が、敷居の上にありました。
「姉さん、ノクスが」
「静かに。あの仔が決めることです」
前脚が敷居を越えました。後ろ脚が続きます。ノクスは通路へ入って、鼻先を低くして、ゆっくりと歩きはじめました。房の仔たちが首を上げて、匂いを確かめて、また横になります。誰も騒ぎません。
西の奥から三つ目の空いた房の前で、ノクスは止まりました。
七年前、西の方から献上された仔が入れられていた房です。三歩の外に餌を置いて、離れて待った、あの房でした。
ノクスは中へは入りませんでした。敷居のときと同じように、長いことそこに立っております。尾も耳も動きません。
「……戻ったな」
レオンハルト様がいつの間にか戸口にいらっしゃいました。それだけ仰って、それ以上は仰いませんでした。
わたくしは房の柱の記録板に手を伸ばしました。房ごとに出入りと世話の記録を綴じてある板です。
「姉さん、これ、頁がない」
「破られていますね」
残っているのは針目と、糸の切れ端だけです。古い頁がごっそりとありません。
「板の帳は、わしが綴じ直したものですが」ハンスが眉を寄せました。「頁を抜いた覚えは、ございません」
「ハンス。この房の仔の記録は、台帳のほうにありますか」
「大帳ですな。事務方の棚に――お待ちを」
ハンスが持ってきてくれた台帳のその房の欄には、一行だけ書いてありました。
『黒狼種。名なし。――処分済』
マルタ様が台帳を覗き込んで、しばらく黙りました。
「……処分済って、書いてあるよ」
「はい」
「その黒狼種なら、そこにいるけどね」
「はい。ですので、分からないことがひとつ増えました」
ノクスは房の前から、動きません。
わたくしは台帳を閉じて、破られた綴りの糸だけが残った針目をもう一度見ました。
匂いのない字だと、思いました。
お読みいただきありがとうございます。
敷居というものは、跨げと言って跨がせるものではないのだと思います。跨いでもよい、と中身が変わるまで待つものです。三日で変わったのは香ではなく、厩の中身のほうでした。
ブックマークは、厩の敷居の内側に、寝藁をひと房ぶん敷いておくようなものです。いつ跨いでいらしても、乾いた場所をご用意しておきます。
次回、十四頭ぶんの寝藁を、全部替えます。




