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「獣臭い令嬢」と婚約破棄されましたが、王国の魔獣はぜんぶ私に懐いています 〜辺境で預かり屋を始めたら、討伐一筋の辺境伯まで懐いてしまいました〜  作者: 鈴宮ひなた


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第39話 牧の朝に、栗毛が一頭

 二日目は、休むと決めておりました。


 休むと決めないと休まない、とマルタ様に言われたからです。言われてみれば、王都に着いてから鼻を使わない日が一日もありませんでした。


 「牧へ行きましょう」と申し上げたのは、わたくしです。休むついでではありません。会いたい仔がいるのです。


 王都の北の門を出て、荷馬車で午前いっぱい。手綱はレオンハルト様がお取りになりました。荷台にはティムとマルタ様と、梯子と釘の箱。ノクスは荷馬車と並んで走ったり、先へ行って待っていたりします。


 「釘なんて、何に使うんです」


 「牧の柵ってのはね、坊や、必ずどこか壊れてるもんなんだよ。で、うちの閣下は壊れてるものを見ると直さないと帰れない性分なの」


 「……悪いか」


 「本日三語だね」


 「姉さんは、牧って行ったことあるの」


 「王家の厩の仔を、夏に何度か預けに参りました。牧は、獣がいちばん獣に戻る場所です」


 牧は丘をひとつ越えた先にありました。柵がゆるく波を打って、その向こうに馬たちの背が浮かんでおります。


 荷馬車を降りて、わたくしはまず風上に立ちました。いちばん上は、陽に焙られた草の匂い。その下に、踏まれて湿った土。さらに下に、馬の汗と糞の、暖かくて健やかな匂いがあります。王都の厩舎で嗅ぎ慣れた、あの甘ったるい香は、ひとかけらもありません。獣の匂いが獣の匂いのままでいられる場所だと、鼻のほうが先に分かりました。


 牧の主はブルーノ様という大柄な方でした。


 「預かり屋ってのは、あんたか」


 「エルナと申します。本日は――」


 「聞いてるよ。……ほら、噂をすれば」


 柵の内側で一頭が首を上げておりました。栗毛です。


 こちらへ歩き出して、途中から駆け足になりました。柵の手前で止まると首を伸ばして、鼻先をわたくしへ向けて静かに息を吸ったのです。


 「シグル」


 王都の広間の、窓の外で最後にそうしたのと同じ仕草でした。


 「覚えてるんだ」ティムが柵に手をかけました。「姉さんのこと」


 「獣は忘れません」


 わたくしは癖で右の前脚を見ました。体重が四本に同じだけ乗っております。庇っていた脚のことなど、もう忘れてしまったような良い立ち方でした。


 厩舎にいた頃は、この仔の右前だけ、毎朝最後に拭いておりました。拭く順番を変えると嫌がるからです。蹄の裏を見るときは、肩に手を置いて、重心が反対側へ移るのを待ってから持ち上げます。待たずに持ち上げた日は、必ず蹴られました。——そういう手順を、王都の誰にも引き継げないまま、わたくしは辺境へ行ったのです。


 「蹄に石を挟んだ仔だそうでね」ブルーノ様が仰いました。「来た頃は、雨の日に右の前だけ拭かせなかった。今は四本とも拭かせる」


 「……ありがとうございます」


 「礼を言われることじゃない。うちにあるのは草と水と、平らな地面だけだ」


 それがいちばん難しいのです、とは申し上げませんでした。


 「ねえ、触ってもいい?」


 ティムが柵越しに手を出しかけて途中で止めました。ブルーノ様が顎で栗毛を指します。


 「そいつに訊きな」


 ティムは手のひらを上に向けて、シグルの鼻先より低いところで待ちました。順番どおりです。シグルは匂いを確かめてから、額をティムの手に寄せました。


 「……触れた」


 「ええ。順番を守りましたので」


 「手が覚えてた」


 「手は、忘れませんので」


 ノクスは柵から十歩ほどの草の上に座っておりました。


 シグルがそちらへ首を向けます。耳が一度、前に立ちました。逃げも、いななきもいたしません。


 ノクスが立ち上がって、ゆっくりと歩み寄りました。柵を挟んで、鼻先と鼻先。互いの息を順番に確かめ合っております。長いこと、そうしておりました。


 「喧嘩には、ならないのかい」マルタ様が小声で仰います。


 「同じ厩舎にいた時期があるのです。房は端と端でしたけれど、厩舎の空気は一つですので」


 「匂いで思い出すんですか」


 「思い出すというより、確かめるのだと思います。おまえはあの厩の仔か、と」


 「返事は、あるの」


 「逃げなければ、それが返事です」


 確かめ終わると、シグルは草を食みに戻りました。ノクスは柵の外の、風上に伏せました。それだけです。それだけのことに、ずいぶん長く時間をかけておりました。


 昼はブルーノ様が納屋の陰に台を出してくださいました。パンと堅い乾酪と、井戸の水です。レオンハルト様は半分だけ召し上がって、あとは本当に柵を直しはじめられました。


 「閣下も、少しは休んだらどうです」


 「……休んでいる」


 「槌を持ってですか」


 「閣下にやらせることじゃ、ないんだがな」


 「お止めしても無駄ですよ。ああいう性分なんです」マルタ様が乾酪を切り分けます。「打たせておやり。あれは機嫌がいいときの音だから」


 槌の音はゆっくりと三つずつ聞こえました。


 「三つずつ打つのは、なんでだろ」


 「知らないよ。閣下の中に、音頭取りでもいるんだろ」


 ティムが数えて、途中で笑いました。


 「あの栗毛はね」ブルーノ様が、シグルのほうへ顎をやりました。「来て最初の十日は、柵沿いばかり歩いてた。真ん中の、いちばんいい草のところへ行かない」


 「……はい」


 「王都の仔にはよくあることだ。広いところの使い方を知らんのだ。今は、見てのとおりさ」


 シグルは草の上に脚を畳んで横になっておりました。腹を陽に向けて、尾で虫を払っております。


 「横になって眠れるのは、良い牧の証拠です」


 「だろうな。あんたの商売も、つまりはそれだろう」


 「はい。それだけをしております」


 「妙な商売だ」ブルーノ様は笑って、水を注ぎ足してくださいました。「だが今日は、うちの馬が一頭も柵に寄らん。客の見立てってのは、そういうところで分かるもんだ」


 「柵に寄るのは、良くないことなの」とティム。


 「逃げ道を探してるってことだからな、坊主」


 「じゃあ、真ん中で寝るのは」


 「ここでいい、ってことさ」


 ティムはしばらく、草の上の栗毛を見ておりました。


 帰り支度のころ、ブルーノ様がふと北の丘のほうを見ました。


 「そういえば、預かり屋さん。近ごろ、夜に北の谷筋から獣の声がする」


 「声、ですか」


 「若い声じゃない。年寄りの、長い声だ。ひと晩に二度か三度。うちの馬どもは慣れちまったが……あんたなら、聞き分けるかと思ってな」


 「狼の声でしょうか」


 「いや、違うな。もっと低くて、長い。……古い声だ」


 「いつ頃からです」


 「ひと月……いや、ふた月前からか。数えちゃいないが」


 ノクスが立ち上がって北を向きました。耳が動きません。動かないまま、長いこと立っております。


 槌の音が、止まっておりました。


 「……北の、谷筋か」


 「ええ、閣下。谷といっても、王都から半日の谷ですがね」


 レオンハルト様はそれきり何も仰らず、最後の釘を二度で打ち沈めました。


 帰りの荷馬車で、ノクスは三度北を振り返りました。匂いの届く距離ではありません。それでも振り返るのです。


 わたくしは荷台の梯子を押さえながら、その耳の向きをずっと見ておりました。

牧の真ん中で眠れるようになるまで、あの仔は十日かかったそうです。広いところの使い方は、広いところでしか覚えられません。狭いところで覚えたことを、忘れる時間も要るのです。


北の谷筋の声のことは、まだ何も分かりません。ただ、ノクスの耳があれほど長く一方を向くのを、わたくしは久しぶりに見ました。


次回、香を止めて三日目の厩を、陛下がご覧になります。

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