↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「獣臭い令嬢」と婚約破棄されましたが、王国の魔獣はぜんぶ私に懐いています 〜辺境で預かり屋を始めたら、討伐一筋の辺境伯まで懐いてしまいました〜  作者: 鈴宮ひなた


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/40

第38話 甥御さまは、香りが濃い

 香を止めて、一日目の朝です。


 王家の厩舎はまだ静かとは申せませんでした。二十年ぶん、壁にも梁にも香が染みておりますので、火を落としただけでは抜けきりません。


 「姉さん、香って、どのくらいで抜けるものなの」


 「壁が古いほどかかります。ここは二十年ぶんですので、十日は見てください」


 「十日かあ」


 「それでも、夜の水桶の減りは今朝から違いました。獣のほうが先に気づくのです」


 ハンスが首をひねりました。


 「水の減りが、なんで眠りの話になるんですかい」


 「夜中に何度も水を飲みに立つのは、眠りが浅い証拠ですので」


 ハンスは帳面に今朝の水位を書き足しました。ティムはその横で、藁の乾きを手の甲で確かめております。教えたとおりの確かめ方でした。


 柵の外にはノクスが伏せております。この仔は厩舎の敷居を跨ぎません。毎朝わたくしについて来て、風上の同じ場所に陣取って、夕方に一緒に帰るのです。


 昼前に、わたくしたちは東の通りへ出ました。王宮の香の納入元を、マルタ様が一晩で辿ってくださったのです。


 「アーレンス香料商会。侯爵領に本店のある、香だけの大店だよ。で、王都の店の当主ってのが――侯爵の甥御さまだ」


 「甥御さま、ですか」


 「行けば分かるよ。あたしの元同僚いわく、忘れられない御仁だそうだから」


 レオンハルト様もご一緒でした。


 「閣下、本日はまだ二語ですよ。行くぞ、の」


 「……数えるな」


 「五語になりました」


 商会の店は遠くからでも分かりました。通りの角を曲がる前から、匂いの壁が立っているのです。ノクスはその角で足を止めて、それきり動きませんでした。嫌がるのでもなく、ただ座ったのです。


 「ここで待つそうです」


 「賢いね。あたしも待ちたいよ」


 店の中は、花と蜜と樹脂の匂いが層になっておりました。棚の小瓶がひとつずつ、少しずつ主張いたします。奥から出ていらしたのは、思ったより若い方でした。


 「これはこれは、辺境伯閣下。それに――噂の預かり屋さんだ」


 当主のクルト・アーレンス様。仕立てのよい上着に、隙のない笑み。胸に手を当てて、綺麗に一礼なさいました。


 「叔父の件では、預かり屋さんにずいぶんお世話になったと伺っております」


 そう仰って、笑われました。目も口もたしかに笑っていらっしゃるのに、どこも動いていない笑い方でした。


 「世話ねえ」マルタ様が棚に肘を載せました。「あたしたちの言葉だと、ああいうのは後始末って言うんだよ」


 「これは手厳しい。ですが手前どもは、言葉の商いはしておりません。香りの商いです」


 「叔父さんの看板は、下ろさないのかい」


 「商会に叔父の名はございません。アーレンスの名は、手前の名でもありますので」


 「便利な名前だね」


 「ええ、まったく」


 「では、その商いのことで伺います」


 わたくしは一歩前へ出ました。


 「王宮へ納めていらっしゃる香の、樽の数を教えていただけますか。三年ぶんで結構です」


 「異なことを仰る」


 クルト様の笑みは崩れませんでした。


 「帳簿は、取引先様との信用でございます。お客でもない方にお見せしては、商会の名が立ちません」


 「数だけで構いません」


 「数こそが帳簿ですよ、預かり屋さん」


 「では、配合は」


 「先方様のご指定どおりに。手前どもは、言われたものを言われたとおりに納めるだけの、しがない器でございます」


 レオンハルト様が棚の前で足を止められました。


 「……出さないか」


 「出せないのです、閣下。王命の書付でもあれば別でございますが」


 あくまで丁寧に、あくまで柔らかく。この方は一度も声の高さをお変えになりませんでした。変える必要がないのだと思います。


 わたくしはそのあいだ、ずっと匂いを剥がしておりました。


 いちばん上に柑橘。その下に花の油。蜜蝋、乾いた樹脂、洗い立ての麻。剥がしても剥がしても、次の香りが出てまいります。店の匂いではありません。この方ご自身が、層になるほど重ねていらっしゃるのです。


 「良い香りをお使いですね」


 「恐れ入ります。商売道具ですので」


 「重ねていらっしゃいます。……いちばん下まで、香りでした」


 「ええ。それが香料屋というものです」


 「ときに、預かり屋さん」クルト様が首を傾げました。「王都の門を黒狼が潜ったと聞きました。よく躾けておいでだ」


 「躾けておりません」


 「ほう」


 「あの仔が自分で決めているだけです。今日は店の角までで、こちらへは参りませんでした」


 「それは残念。獣の鼻に嫌われるのは、香料屋の恥です」


 「嫌ってはおりません。読めないだけだと思います」


 「読めない、とは」


 「重ねた香りの下が、です」


 クルト様は二つ、瞬きをなさいました。それから、また綺麗に笑われました。


 「面白い方だ。叔父が手を焼いたわけです」


 帰り際、クルト様は小瓶をひとつ包ませようとなさいました。


 「お近づきの印に。よく眠れる香りです」


 「お気持ちだけ頂戴します。わたくし、香りは身につけませんので」


 「存じております。香りの薄いご令嬢――でしたか」


 「はい。よく言われます」


 クルト様は戸口まで送ってくださって、最後に深々と頭を下げられました。とても綺麗な礼でした。綺麗すぎて、量ったような角度でした。


 「厩の香を止めさせたのは、あなただそうで」


 「三日だけです」


 「香りのない場所には、香りのない噂が湧きます。……どうぞ、お気をつけて」


 通りの角では、ノクスが同じ姿勢のまま待っておりました。立ち上がって、わたくしの半歩後ろを歩きます。


 「どう見た、あの甥御さま」


 「良い商人だと思います」


 「あんたのその良いは、褒めてないときの言い方だね」


 「褒めております。売り物の見せ方も、隠し方も、お上手でしたので」


 角を二つ曲がったところで、マルタ様が足を緩めました。


 「……預かり屋さん。裏だ」


 商会の裏手の小路に、幌のない荷車が一台。樽の積み下ろしではありません。人が二人、立ち話をしていらっしゃいます。


 一人はクルト様でした。表でわたくしたちを見送ったばかりの方が、もう裏においでなのです。


 もう一人の背中には見覚えがありました。香の等級をお定めになる、王宮厩舎総監――コンラート様です。


 「……覚えた」


 レオンハルト様が静かに仰いました。マルタ様が指を一本、黙って立てました。


 わたくしたちは気づかれる前に小路を離れました。樽の数は分からずじまいです。ただ、数の代わりに、組み合わせがひとつ見えました。


 見なかったことには、いたしません。

香りをたくさん重ねる方にお会いすると、わたくしはいつも、いちばん下に何があるのかを考えてしまいます。今日お会いした方は、いちばん下まで香りでした。ああいう重ね方は、雨具に似ています。濡れたくないものがある方の、着方です。


樽の数は教えていただけませんでしたが、数えられないものを数えるのが、帳面というものの取り柄です。急がずに参ります。


次回、王都の外の牧へ。懐かしい栗毛に、会いに参ります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。