第38話 甥御さまは、香りが濃い
香を止めて、一日目の朝です。
王家の厩舎はまだ静かとは申せませんでした。二十年ぶん、壁にも梁にも香が染みておりますので、火を落としただけでは抜けきりません。
「姉さん、香って、どのくらいで抜けるものなの」
「壁が古いほどかかります。ここは二十年ぶんですので、十日は見てください」
「十日かあ」
「それでも、夜の水桶の減りは今朝から違いました。獣のほうが先に気づくのです」
ハンスが首をひねりました。
「水の減りが、なんで眠りの話になるんですかい」
「夜中に何度も水を飲みに立つのは、眠りが浅い証拠ですので」
ハンスは帳面に今朝の水位を書き足しました。ティムはその横で、藁の乾きを手の甲で確かめております。教えたとおりの確かめ方でした。
柵の外にはノクスが伏せております。この仔は厩舎の敷居を跨ぎません。毎朝わたくしについて来て、風上の同じ場所に陣取って、夕方に一緒に帰るのです。
昼前に、わたくしたちは東の通りへ出ました。王宮の香の納入元を、マルタ様が一晩で辿ってくださったのです。
「アーレンス香料商会。侯爵領に本店のある、香だけの大店だよ。で、王都の店の当主ってのが――侯爵の甥御さまだ」
「甥御さま、ですか」
「行けば分かるよ。あたしの元同僚いわく、忘れられない御仁だそうだから」
レオンハルト様もご一緒でした。
「閣下、本日はまだ二語ですよ。行くぞ、の」
「……数えるな」
「五語になりました」
商会の店は遠くからでも分かりました。通りの角を曲がる前から、匂いの壁が立っているのです。ノクスはその角で足を止めて、それきり動きませんでした。嫌がるのでもなく、ただ座ったのです。
「ここで待つそうです」
「賢いね。あたしも待ちたいよ」
店の中は、花と蜜と樹脂の匂いが層になっておりました。棚の小瓶がひとつずつ、少しずつ主張いたします。奥から出ていらしたのは、思ったより若い方でした。
「これはこれは、辺境伯閣下。それに――噂の預かり屋さんだ」
当主のクルト・アーレンス様。仕立てのよい上着に、隙のない笑み。胸に手を当てて、綺麗に一礼なさいました。
「叔父の件では、預かり屋さんにずいぶんお世話になったと伺っております」
そう仰って、笑われました。目も口もたしかに笑っていらっしゃるのに、どこも動いていない笑い方でした。
「世話ねえ」マルタ様が棚に肘を載せました。「あたしたちの言葉だと、ああいうのは後始末って言うんだよ」
「これは手厳しい。ですが手前どもは、言葉の商いはしておりません。香りの商いです」
「叔父さんの看板は、下ろさないのかい」
「商会に叔父の名はございません。アーレンスの名は、手前の名でもありますので」
「便利な名前だね」
「ええ、まったく」
「では、その商いのことで伺います」
わたくしは一歩前へ出ました。
「王宮へ納めていらっしゃる香の、樽の数を教えていただけますか。三年ぶんで結構です」
「異なことを仰る」
クルト様の笑みは崩れませんでした。
「帳簿は、取引先様との信用でございます。お客でもない方にお見せしては、商会の名が立ちません」
「数だけで構いません」
「数こそが帳簿ですよ、預かり屋さん」
「では、配合は」
「先方様のご指定どおりに。手前どもは、言われたものを言われたとおりに納めるだけの、しがない器でございます」
レオンハルト様が棚の前で足を止められました。
「……出さないか」
「出せないのです、閣下。王命の書付でもあれば別でございますが」
あくまで丁寧に、あくまで柔らかく。この方は一度も声の高さをお変えになりませんでした。変える必要がないのだと思います。
わたくしはそのあいだ、ずっと匂いを剥がしておりました。
いちばん上に柑橘。その下に花の油。蜜蝋、乾いた樹脂、洗い立ての麻。剥がしても剥がしても、次の香りが出てまいります。店の匂いではありません。この方ご自身が、層になるほど重ねていらっしゃるのです。
「良い香りをお使いですね」
「恐れ入ります。商売道具ですので」
「重ねていらっしゃいます。……いちばん下まで、香りでした」
「ええ。それが香料屋というものです」
「ときに、預かり屋さん」クルト様が首を傾げました。「王都の門を黒狼が潜ったと聞きました。よく躾けておいでだ」
「躾けておりません」
「ほう」
「あの仔が自分で決めているだけです。今日は店の角までで、こちらへは参りませんでした」
「それは残念。獣の鼻に嫌われるのは、香料屋の恥です」
「嫌ってはおりません。読めないだけだと思います」
「読めない、とは」
「重ねた香りの下が、です」
クルト様は二つ、瞬きをなさいました。それから、また綺麗に笑われました。
「面白い方だ。叔父が手を焼いたわけです」
帰り際、クルト様は小瓶をひとつ包ませようとなさいました。
「お近づきの印に。よく眠れる香りです」
「お気持ちだけ頂戴します。わたくし、香りは身につけませんので」
「存じております。香りの薄いご令嬢――でしたか」
「はい。よく言われます」
クルト様は戸口まで送ってくださって、最後に深々と頭を下げられました。とても綺麗な礼でした。綺麗すぎて、量ったような角度でした。
「厩の香を止めさせたのは、あなただそうで」
「三日だけです」
「香りのない場所には、香りのない噂が湧きます。……どうぞ、お気をつけて」
通りの角では、ノクスが同じ姿勢のまま待っておりました。立ち上がって、わたくしの半歩後ろを歩きます。
「どう見た、あの甥御さま」
「良い商人だと思います」
「あんたのその良いは、褒めてないときの言い方だね」
「褒めております。売り物の見せ方も、隠し方も、お上手でしたので」
角を二つ曲がったところで、マルタ様が足を緩めました。
「……預かり屋さん。裏だ」
商会の裏手の小路に、幌のない荷車が一台。樽の積み下ろしではありません。人が二人、立ち話をしていらっしゃいます。
一人はクルト様でした。表でわたくしたちを見送ったばかりの方が、もう裏においでなのです。
もう一人の背中には見覚えがありました。香の等級をお定めになる、王宮厩舎総監――コンラート様です。
「……覚えた」
レオンハルト様が静かに仰いました。マルタ様が指を一本、黙って立てました。
わたくしたちは気づかれる前に小路を離れました。樽の数は分からずじまいです。ただ、数の代わりに、組み合わせがひとつ見えました。
見なかったことには、いたしません。
香りをたくさん重ねる方にお会いすると、わたくしはいつも、いちばん下に何があるのかを考えてしまいます。今日お会いした方は、いちばん下まで香りでした。ああいう重ね方は、雨具に似ています。濡れたくないものがある方の、着方です。
樽の数は教えていただけませんでしたが、数えられないものを数えるのが、帳面というものの取り柄です。急がずに参ります。
次回、王都の外の牧へ。懐かしい栗毛に、会いに参ります。




