第37話 等級表に、鼻はありません
数日後の朝、厩舎の門に新しい札が掛かっていました。
『厩舎の香は本日より等級制とする。等級香の扱いを許されぬ者、立ち入りを禁ず』
札の字は新しくて、墨の匂いがまだ立っています。夜のうちに書かれたものです。
札の前に役人がふたり。その後ろに総監コンラート様が立っておられました。腕に厚い綴じ本を抱えています。
「等級表が、仕上がりましてな」
総監様は綴じ本の表紙を撫でられました。
「王宮調香師の監修による、香の等級。最上が一等、以下七等まで。厩舎には常に三等より上を焚く。これが本日よりの規律です。……そして規律には、資格が要る」
「わたくしには、資格がない、と」
「あなたは香を消した方だ。等級より前の話でしょう」
「消した晩に、レクスは眠りましたけれど」
「偶然でしょうな」
「偶然が、朝まで続きました」
門の内側でハンスが桶を提げたまま立ち尽くしています。わたくしの後ろにはティムと、荷車の上のノクス。レオンハルト様はわたくしの半歩後ろにおられました。
「その資格は、どこでいただけるのですか」
「王宮調香師の講習を受け、三年の修練ののち試験に通ることです」
「三年ですか」
「三年です」
「厩の仔は、今夜も眠れませんが」
総監様は聞こえなかったふりをなさいました。わたくしは続けました。
「総監様。その表を、拝見してもよろしいですか」
役人の方が綴じ本を開いて見せてくださいました。
香料の名。産地。調合の格式。焚いたときの香りの立ち方。欄は細かく字は綺麗で、頁の端には金の線まで引いてあります。
わたくしは頁を三枚ほど繰って、それから表紙を閉じずに戻しました。読みながら、厩舎にいた十年で覚えた香の名前を数えてみたのですけれど、表にある名前のうち、わたくしが仔たちの房で実際に嗅いだことのある香は半分もありませんでした。残りの半分は、焚く人の部屋で嗅ぐ香です。獣の鼻の高さまで、降りてきたことのない香なのです。
「立派な表だと思います」
「分かっていただけたなら——」
「ただ、鼻の欄がありません」
総監様の指が表紙の上で一度止まりました。
「香りの高さを決めたのは、どなたですか」
「調香師です。当然でしょう」
「厩舎で焚く香なのに、獣は嗅がないのですね」
「獣に等級が分かりますか」
「等級は分かりません。匂いは、人よりずっと分かります」
そのとき、門の内側からハンスが出てまいりました。桶を置いて懐から綴じた帳面を取り出します。表紙のない、油の染みた帳面です。
「総監様。二十年、厩の隅で書いてきたものでございます」
「厩番の走り書きか」
「へえ、走り書きで。……ですが、日付はございます」
ハンスは節の太い指で頁を繰りました。
「一等の香を焚いた晩、立ったまま眠る仔が九頭。二等の晩で七頭。雨で香の流れた晩は四頭。……エルナ様が香炉を消された房だけは、その晩から一度も立っておりません」
「何が言いたい」
「等級の高い香の晩ほど、厩が荒れるのでございます。表と、あべこべで」
役人のおひとりが帳面を覗き込みました。総監様はご覧になりません。
「厩番の走り書きと王宮調香師の等級表と、どちらを信じるかという話なら、答えは決まっております。そもそも、辺境の獣使いを王家の厩舎へ入れたことが間違いの始まりだ。どこの誰とも知れぬ流れ者を——」
「この人は、俺が連れてきた」
レオンハルト様が半歩、前へ出られました。
「文句は、俺に言え」
役人がふたりとも綴じ本より低く姿勢を下げました。辺境伯という肩書は、王都では剣より効くようです。
「……十一語」と、マルタ様が後ろで小さく数えました。「今年の最長だよ、閣下」
「数えている場合ですか、マルタ様」
「こういうときこそ数えるんだよ」
総監様は綴じ本を抱え直されました。
「よろしい。では陛下の御前で決着をつけましょう。等級か、迷信か」
「決着でしたら、もっと簡単な方法がございます」
わたくしは申し上げました。
「香を、三日、全部お止めください」
「……なんですと」
「一等も七等もぜんぶです。三日のあいだ、厩舎には風と藁の匂いだけ。三日目の厩をどなたかの目で見ていただければ、それで決着です。等級表が正しいのでしたら、厩は荒れるはずですので」
「王家の厩舎から香を絶やすなど、前例がない」
「前例ならございます。獣は、香より先に生まれておりますので」
総監様はそれには答えませんでした。役人を連れて王宮のほうへ歩いて行かれます。決着の場所を陛下の御前へ移すおつもりなのです。
「姉さん、締め出されたら、朝の餌はどうなるの」
「ハンスがいます。紙もあります」
「そうじゃなくて。姉さんが、いられなくなるんだよ」
「ですから、三日で決めていただくのです」
沙汰は夕方に下りました。
王宮から来た侍従の方が短い書き付けを読み上げます。
「『香を三日、止めて試せ。三日目は、私が見る』——以上にございます」
私が見る。
侍従の方は書き付けを畳んでから、少しだけ声を落とされました。
「陛下は、もうひとつ仰せでした。『等級表も三日、休ませてやれ』と」
マルタ様が咳払いで笑いを押し込みました。
ハンスは帳面を胸に抱えたまま、何度も頭を下げました。ティムはわたくしの袖を引いて、「勝ったの」と小声で訊きます。
「まだです。三日後に、厩が答えます」
「答えなかったら」
「答えます。獣は、嘘の下手な生き物ですので」
「香って、そんなに偉いの」
「一等の香は、同じ重さの銀より高いそうです」
「……止めたら、困る人がいるね」
「はい。三日のあいだに、その方の顔が見えてくるはずです」
香炉は、その晩のうちに全部下げられました。厩舎から香が消えるのは二十年で初めてのことだと、ハンスが言いました。
香炉を下げたあとの厩舎は、最初の半刻ほど、かえって落ち着きませんでした。二十年も同じ匂いの中にいた仔たちにとっては、匂いが消えることも変化のうちだからです。わたくしは東の端から順に、房の前に立って、ただ自分の匂いを嗅がせて回りました。人の匂いが変わらなければ、場所の匂いが変わっても獣は耐えられます。
順番は、変えませんでした。
夜更けに、わたくしは自分の帳面を開きました。
香炉を消した晩に書いた、灰の頁です。
——甘い。焦がした蜜のような。底に金気。
辺境で幾度も書いた行と同じ行です。わたくしは、同じ匂いにしか同じ書き方をしません。
「ハンス。この香は、どこから納めているのですか」
「三等より上は、みな同じ商会からで。……王都の店ではございません」
ハンスは少しだけ声を低くしました。
「侯爵領の、商会でございます」
マルタ様が火の前で顔を上げました。
「侯爵領、ねえ」
「香だけを扱う、大きなところだそうで。番頭は月にいちど、樽で納めに来ます」
「樽で、ですか」
「へえ。香が樽というのも、妙な話ですが」
マルタ様と目が合いました。辺境で数えた樽のことは、ふたりとも口に出しませんでした。
「……名前まで、辿るよ」
「お願いします。香が止まっている、三日のあいだに」
荷車の上でノクスが顔を上げて、南の闇へ耳を立てました。
お読みいただきありがとうございます。
等級表そのものは、悪いものではないのです。困るのは、表ができた日から誰も鼻を使わなくなることです。紙は便利ですけれど、匂いは紙に載りません。
三日のあいだ、王家の厩舎には香がありません。十四頭が何で答えるのか、わたくしは楽しみにしております。評価やブックマークをいただけますと、厩の戸口に小さな鈴がひとつ増えるようなものでして、鳴るたびに、見に来てくださった方がいるのだと分かります。
次回、香の納入元を辿ります。商会の当主は、ずいぶん香りの濃い方だそうです。




