第36話 厩の掃除は、朝が早い
王家の厩舎の朝は、鐘より早く始まります。
まだ暗いうちに水を替え、明るくなる前に寝藁を出し、東の空が白む頃に餌の桶が並びます。十四頭ぶんです。わたくしとティムは、夜明け前から通っておりました。
「姉さん、こっちの藁、まだ湿ってる」
「では日向へ。乾くまでは古いほうを薄く敷いてください」
ノクスは中庭の荷車の上で伏せて湯気の立つ厩舎を眺めています。中には入りません。
「姉さん、ノクスは中に入らないの」
「入りません。あの仔が決めた距離ですので」
レオンハルト様は夜明け前から中庭で剣を振っておいででした。終わると黙って藁の束を運ばれます。
「閣下、それは下働きの仕事ですよ」
「……手が空いた」
「閣下、こっちの束もお願いします」
ティムが指さすと、レオンハルト様は黙って三束まとめて担がれました。
「王国広しといえど、辺境伯を顎で使う小僧はあんたくらいだよ」
「え。だめだった?」
「いや。閣下の機嫌がいいから続けな」
マルタ様は柵に腰かけてあくびをしています。
「マルタ様は、お手伝いにならないのですか」
「あたしは夜の番だよ。閣下が朝で、あたしが夜。適材適所ってやつさ」
「夜は、何をなさっているのですか」
「王都の酒場で耳の掃除。……冗談だよ、そんな顔をしなさんな」
餌の桶が並んだところで気づきました。列の後ろに、見慣れない方がひとり増えています。
痩せた方です。お仕着せの袖が手首でずいぶん余っています。桶を両手にひとつずつ提げて、指の関節を白くしていました。桶は片手にふたつ提げるものですけれど、教わる暇がなかったのでしょう。
手袋のない手の指の一本に、指輪の抜けた白い痕がありました。
その方はいちばん西の仔の前に、最初の桶を置きました。
餌は東の端からです。東端の二頭は気が短いので、先に食べさせないと隣の柵を蹴ります。十年そうしてまいりましたし、いまはハンスの紙にも書いてあります。
ハンスが黙って歩いていきました。桶を持ち上げ、東端の仔の前へ置き直します。何も言いません。痩せた方は一度だけ立ち止まって、それから次の桶を東から二番目の仔の前へ運びました。
俯いた横顔に、見覚えがある気がしました。
けれど、朝の厩舎は忙しいのです。十四頭の寝藁はわたくしを待ちますし、湿った藁は乾くのを待ってくれません。わたくしは手を動かしました。
やがて東端の二頭が、桶に鼻を入れる音をさせました。この音が鳴ると、厩舎の朝は本当に始まります。王都も辺境も、そこは同じです。
「姉さん、あの人、新入り?」
「のようですね」
「手つき、ひどいね」
「誰でも、最初は慣れておりません。……ティム、あなたが来たばかりの頃の手つきを、わたくしは覚えておりますよ」
「それ、言わないでよ」
昼前に、辻の看板の下でお客がありました。
下町の炭屋の親方だという方が荷役獣を一頭引いてこられました。灰色の、肩の大きな雄です。歳は十ほどでしょうか。名前を訊くと、つけていないと仰いました。灰色、と呼んでいるそうです。
「看板を見たんだがね。見るだけなら無料ってのは、ほんとうかい」
「ほんとうです」
「王家の厩舎に出入りしてる先生が、炭屋の獣も診るのかい」
「診ます。鼻はひとつしかありませんので、どなたの仔でも同じ鼻です」
「先生は、王都のお人かい」
「昔、少しだけ。いまは辺境の者です」
「辺境から王都まで、商売替えかい」
「いいえ。同じ商売を、場所を変えてしているだけです」
「そうかい。……実はこいつが、サボり癖をつけちまって」
「サボり、といいますと」
「朝の一便が上り坂で止まる。うちは鞭を使わねえ主義だが、引いても押しても岩みてえに動かねえ。歳のせいで性根が緩んだかね」
性根、というところでその仔の耳がこちらへ倒れました。
「歩くところを、見せていただけますか」
「歩くだけでいいのかい」
「はい。歩き方は、口より正直ですので」
土の上では普通に歩きます。石畳に乗ると、歩幅が半分になりました。爪先を上げるたびに首が下がります。
「怠けではありませんね」
「じゃあ、なんです」
「靴が合っていないのです」
「……こいつは裸足だが」
「蹄です。伸びすぎています」
膝をついて前脚を持ち上げました。爪先が反って、伸びたぶんだけ踵が浮いています。
「土なら、伸びたぶんは沈みます。石畳は沈みません。踏むたびに、指の付け根へ体重が落ちます」
「痛いのか」
「はい。坂で止まるのは、坂がいちばん痛いからです。性根は関係ありません」
親方は帽子を握ってその仔の首すじを見ました。その仔は目を細くして、親方の帽子の匂いを嗅いでいます。
「……切れるのかい、それは」
「切れます。道具をお借りできれば、いまここで」
四本ぶん、爪先を落としました。ティムが首を押さえる係です。前はできなかった係です。
「ティム、額ではなく首すじに手を。……そう、それです」
「分かってるよ。……あ、目、閉じた」
「あなたの手を、覚えたのです。そのまま」
「暴れねえのか」
「切るのは伸びたぶんだけです。爪と同じで、そこに血は通っておりませんので」
削り終えて石畳を歩かせると、歩幅が戻りました。親方は自分の掌とその仔の蹄を三度見比べて、それから帽子を取りました。
「……サボってたのは、俺の目のほうか」
「三月にいちど、見てあげてください。冬は伸びが遅く、春は早いので」
「見料は」
「見ただけですので、無料です。切ったぶんは、銅貨三枚いただきます」
「安すぎねえか、先生」
「蹄は、また伸びますので。次もいらしてください」
夕方、厩舎の水を替え終えた頃に門のところでティムが手を振りました。
「姉さん、手紙!」
受け取る前から匂いが届きました。
香水です。それも、ずいぶん濃い。封筒一枚のために香りの層が三つも重なっています。差出人の名は表にも裏にもありません。
「宛名は」
「『預かり屋どの』って、それだけ」
マルタ様が横から覗いて眉を寄せました。
「香りの濃い匿名ってのは、たいてい面倒の匂いだよ」
「面倒でも、獣が挟まってるなら見るんだろ」
「はい。見ます」
「だと思ったよ」
「開けるの、姉さん」
わたくしは封を切らずに、灯りへ近づけました。香水の層を上から順に剥がしていきます。香水。その下に紙と封蝋。……いちばん底に、小さな獣の毛の匂い。
困っている匂いです。それだけは、封を切らなくても分かりました。
蹄は、爪と同じで音もなく伸びます。真面目に働く仔ほど我慢が長いので、「怠けた」と見える頃には、だいぶ痛くなっています。三月にいちど、どうぞ足元を。
厩の朝は早いのです。早い時間の厩には、その人の手つきだけが出ます。名前も、来歴も、あまり関係がありません。
次回、香の等級表が仕上がります。表は立派ですが、鼻がありません。




