第35話 祭りの夜だけ、吠える子
看板を立てて三日目に、最初のお客が来ました。
伯爵家の家令だという方です。上等な外套の裾を持ち上げて、辻の泥をよけながら歩いてこられました。看板を二度読み、荷車の上のノクスを三度見て帽子を取られました。
「……番犬が、吠えて困っております」
「どんなふうにですか」
「祭りの夜だけ、朝まで吠え通すのです」
春祭りはあと十日ほどに迫っています。王都の通りには屋台の骨組みが立ちはじめて、火消し用の水桶があちこちの角に出ていました。屋台のあいだを油売りの荷車が通っていきます。祭りの支度は、匂いの支度でもあるのです。
「祭りの前に餌を替えたこともございます。効きませんでした。夜通し人をつけて宥めても、朝まで吠えます」
「叱ると、どうなりますか」
「その晩は静かになります。翌年の祭りには、また」
「六年、それを」
「……はい。六年です」
伯爵家のお屋敷は、庭の広いお宅でした。
「あの……お連れの、黒い方は」
「入りません。荷車の上が、あの仔の席ですので」
番犬種のお宅へ黒狼を連れて入ると、お互いの仕事が増えるのです。家令の方は二度頷いて、それでも三歩ぶん荷車から離れて歩かれました。
「フィデスと申します。当家に来て六年になります」
中庭の犬舎の前に、その仔はいました。
胸の厚い、砂色の毛の番犬種です。立ち上がればティムの背を越えるでしょう。わたくしたちを見て一度だけ低く鳴き、家令の方の顔を見てやめました。躾のいい仔です。
「昼間は吠えません。よその晩も吠えません。春祭りの夜だけ、朝までです」
「祭りのあいだ、この仔はどちらに」
「犬舎です。人手がみな、門と通りに取られますので」
目を閉じて、息を吸います。
いちばん上は刈った草と磨いた石。その下に人。粉と革と、若い汗。その下にこの仔。乾いた寝藁と健やかな獣の匂い。……いちばん底に、煤。
古い煤です。とても古い。
「姉さん、煤って、暖炉のじゃないの」
「暖炉の煤は毎日新しくなります。これはもっと下の層です。一度だけ濃く浴びた匂いは、こういう沈み方をします」
「この仔が来た年に、火事がありませんでしたか」
家令の方の眉が、ゆっくり上がりました。
「……ございました。厨の火が納屋に移りまして。この仔は、その納屋で生まれた仔です」
「どなたが運び出されたのですか」
「旦那様です。ご自分の上着にくるんで、お一人で」
「その上着は、いまも」
「納戸にございます。焦げ跡だらけですのに、捨てられぬと仰って」
ティムが、わたくしの袖を引きました。
「でも姉さん、火事なら火が怖いんじゃないの。なんで祭りの夜だけ」
「祭りの夜、通りで何を焚きますか」
「……松明」
「松明の油は、納屋を焼いたのと同じ油です。昼の屋台は炭ですけれど、夜の通りは松明です。風向きしだいで、この庭までまいります」
「そんなもの、人の鼻では」
「人の鼻では分かりません。ですから六年、誰にも分からなかったのです」
家令の方が、犬舎と門の位置を見比べました。春祭りの夜、この庭には六年前の納屋と同じ匂いが流れ込むのです。
「怖がって吠えているのではありません。報せているのです。あの夜と同じ匂いが来た、と」
「……叱っておりました。祭りに障る、と」
「火を報せて叱られるのでは、番犬は割に合いませんね」
試させていただくことにしました。
松明はレオンハルト様の係です。火はいちばん危のうございますので、と申し上げる前に、ご本人が「火は、俺が持つ」と仰いました。
「閣下、風上へ。塀に沿って五歩、左です」
「……ここか」
「はい。この庭の風は、塀で一度曲がりますので」
油の匂いが庭へ流れると、フィデスの耳が立ちました。
腰が浮いて、胸の毛が膨らみます。喉の奥で低い音が回りはじめました。吠える半歩手前です。
「旦那様の古い上着を、お借りできますか。洗っていないものを」
家令の方が屋敷から抱えてきた上着を、寝藁の上へ置きました。袖に焦げ跡のある灰色の上着です。
フィデスは松明とわたくしたちを二度見比べて、それから寝藁へ鼻を落としました。上着の襟に鼻先を埋めて、長い息をひとつ。浮いていた腰が藁の上へ下りました。
「……嘘だろう」と、家令の方。
「火事の夜、この仔がいちばん濃く嗅いだのは煙ではありません。くるまれていた上着です。ですから油の匂いが来ても、こちらが勝ちます」
「今夜も油を焚いて、確かめますか」
「いいえ。二度は要りません。覚えのいい仔ですので、試すたびに祭りが増えてしまいます」
「祭りの夜は、これを」
「寝藁に一枚敷いてあげてください。洗うと効きません。旦那様には、新しい上着を」
「旦那様は手放すのを渋られるでしょうな。……いや、この仔のためなら喜ばれるか」
「効かなかったら、また参ります」
「効きます。ですが祭りの明くる朝に、様子だけ知らせてくださいませ」
家令の方は帽子をかぶり直しました。見料のほかに祭りの菓子代だと仰って、銀貨を一枚多く置いていかれました。
帰り道、王宮の外壁に沿って歩いていると、前から騎士が四人来ました。
王宮騎士の白い襟です。先頭の方が看板を積んだ荷車とノクスを見て、足を止めました。
「辺境の獣使い殿は、伯爵家にもお出入りか」
「王都も物騒になったものだ。黒狼が大手を振って歩く」
嫌味というものは、お返事をすると長くなります。わたくしが頭を下げて通り過ぎようとしたとき、マルタ様が半歩前へ出ました。
「その顔、覚えがあるよ。閲兵式で号令を裏返して、隊列を三つ潰した顔だ」
先頭の方の首が、襟と同じ色になりました。
「そっちは西門の当直で鍵をなくして、ひと晩じゅう門を開けっぱなしにした顔。そっちは……ああ、酒精を理由に馬房で寝てた顔だね。獣が物騒かい。あんたたちの当直より、うちの荷車のほうがよほど規律が通ってるよ」
四人は何も言い返しませんでした。言い返す言葉を探す顔のまま、道を空けました。
「……マルタさん」と、ティムが荷車の陰から小声で言いました。「なんで王宮の騎士の失敗、そんなに知ってるの」
「あたしは耳がいいんだ」
「耳だけで、鍵と馬房まで分かる?」
「ティム。世の中にはね、耳のいい女がひとりいると眠れない男が大勢いるんだよ」
マルタ様は笑って、それきりでした。王宮の白い壁を見上げたのは、ほんの一瞬です。
わたくしは、その一瞬のほうを覚えておくことにしました。
フィデスは、叱られても六年、報せることをやめませんでした。番犬というのは、そういう生き物です。今年の春祭りは、旦那様の上着の上で眠れます。
マルタ様の耳の良さには、たぶん来歴があります。わたくしはまだ伺っておりませんので、ここにも書けません。
次回、厩の朝です。掃除は、朝が早いのです。




