第34話 厩舎番ではなく、預かり屋として
謁見の朝は、よく晴れました。
王宮の廊下は十年前と同じ匂いがします。蝋と、石と、磨き粉。その上に覚えの薄い香がひと層かぶさっていました。甘くて、重い香です。
「背中が硬いよ、預かり屋さん」
隣を歩くマルタ様が小声で仰いました。今日のマルタ様は騎士の正装です。いつもより三割ほど大きく見えます。
「謁見は初めてではありませんけれど、藁のない床は久しぶりですので」
「床の良し悪しを藁で計るのは、あんたくらいだよ」
「マルタ様こそ、正装がお似合いです」
「よしとくれ。久しぶりに締めた襟で、首が窒息しそうなんだ」
控えの間で待つあいだにも、マルタ様は三度、襟へ指を入れました。
「言っとくけどね、預かり屋さん。御前で藁の話を始めるんじゃないよ」
「藁の話しか、できませんけれど」
「だからさ。せめて短くしな」
ノクスとティムは外の荷車で留守番です。黒狼を広間に入れる決まりは、たぶんこの国にまだありません。
扉が開いて、名を呼ばれました。
玉座の陛下は、思っていたよりも静かな声で話される方でした。
「エルナ・ウィスタリア」
「はい」
「レクスが眠ったそうだな。横になって、朝までだ。三月、誰にもできなかった」
「わたくしがしたのは、香炉を消して、風を通して、寝藁を替えたことだけでございます」
「その三つを、三月誰もしなかった」
陛下は手元の紙を一枚めくられました。列の端に厩舎総監コンラート様のお顔も見えます。一度もこちらをご覧になりません。
「辺境の件も聞いている。ガルド辺境伯」
「は」
「この者の腕は、そなたの見たとおりか」
「……見たとおりです」
レオンハルト様はそれだけで終わられました。陛下の口元が少しだけ動いたように見えました。
「エルナ・ウィスタリア。厩舎付きとして王宮へ戻れ。待遇は前とは比べさせん」
衣擦れの音が、列のあちこちで重なりました。
十年のあいだ言われたかった言葉に、形だけはよく似ています。けれど、宛先が違うのです。
「恐れながら、陛下」
「申せ」
「厩舎番としては、戻りません」
誰かが息を呑みました。わたくしは続けました。
「預かり屋としてなら、お引き受けいたします」
「……違いを申せ」
「厩舎番は、厩舎の中の仔だけを診ます。預かり屋は、連れて来られた仔をぜんぶ診ます。飼い主の身分は問いません。王都には、厩舎の外にも獣がおりますので」
「代価はどうなる」
「見るだけなら、無料です」
「見た後は」
「診立てと処置のぶんだけ、相場をいただきます」
「王家も客か」
「はい。先に待っている仔がいれば、列にお並びいただきます」
一拍あって、陛下が声を立てて笑われました。
広間の方々が一斉に困った顔をなさいましたので、めったにないことなのだと思います。笑っていないお顔は、列の端にひとつだけありました。
「面白い女だと聞いていたが」
陛下は紙を置かれました。
「聞いていた以上だ。……レクスの世話の手順は、厩の者にも教えるか」
「もう教えてあります。ハンスに、紙で。読める手順しか、わたくしはいたしません」
「看板があると聞いた」
「荷車のいちばん上に。辺境から持ってまいりました」
「掲げよ。王都のどこでも構わん」
「ありがとうございます。厩舎の見える辻に立てさせていただきます」
「掃除女の看板が王都に立つか」と、列のどこかで小さな声がしました。陛下は聞こえなかったふりをなさいました。わたくしも、そういたしました。
外の車寄せで、ティムが荷車から飛び降りました。
「姉さん、どうだった」
「看板を立てる許しが出ました」
「厩舎番の話は」
「お断りしました」
「……断ったの。王様に」
「預かり屋としてお引き受けしました。診る仔は同じです」
「同じじゃないよ。ぜんぜん違うよ」
マルタ様が荷車の縁を叩きました。
「ティム、聞きな。あんたの姉さんは陛下に値札を見せたんだ。王家も列に並べってさ」
「並べって……それ、首が飛ばない?」
「飛ばないね。陛下は笑ったよ。あたしは吹き出すのを堪えて、寿命が三年縮んだ」
「笑うと、いい王様なの」
「笑えるのはいい王様だよ。笑わない偉い人のほうが、ずっと怖いのさ」
ティムは分かったような顔をして、荷車へ上がりました。
帰り道の大通りは、市の日でした。
人と、揚げ菓子の油と、絞りたての乳の匂い。荷車の上の看板を、すれ違う方々が振り返っていきます。黒狼の隣を歩く令嬢は、王都ではまだ珍しいのだと思います。
「見世物じゃないよ」とマルタ様が言うたびに人垣は開いて、すぐにまた閉じました。
市場の匂いは層が厚くて、読むのに骨が折れます。油と、砂糖と、人いきれ。その下に石。獣の匂いは、荷車の周りにしかありません。通りの子どもがひとり、ノクスを指さして固まりました。ノクスは目だけでその子を見て通り過ぎます。
雑踏のいちばん濃いところで、ノクスの歩幅が半歩詰まりました。
それから首が、こちらへ寄りました。
肩に重みがひとつぶん載ります。歩きながらですので、三歩か四歩のあいだだけです。わたくしは手綱を持ち替えずに、そのまま歩きました。
「……珍しいね」と、マルタ様。
「人が多いですから」
「そういうことにしとくよ」
ノクスはもう前を向いて、いつもの半歩後ろを歩いています。肩には重みの跡だけが残りました。
夕方、厩舎の見える辻に杭を打ちました。
打ったのはレオンハルト様です。辺境で打ち直したときと同じで、三度目の槌で杭が真っ直ぐになりました。「魔獣預かり屋」。字はわたくしが塗ったままのものです。
「王都の一号のお客は、どんな仔だろうね」
マルタ様が看板の傾きを目で計っていたとき、厩舎のほうからハンスが小走りに来ました。二十年厩舎にいる方が走るのは、いい知らせではありません。
「エルナ様。総監様が、陛下のお許しに異を唱えられました」
「異、といいますと」
「香でございます。厩舎の香には等級がある。等級を扱う資格のない者を、厩舎へ入れるわけにはいかない、と」
「等級、ですか」
「へえ。いま、等級表を新しく引き直しておいでだそうで」
「仕上がったら、どうなるのですか」
「その日には、その……エルナ様は門の外、ということに」
ハンスの声が桶の底のほうへ沈んでいきました。わたくしは、香炉を消しただけの自分の手のひらを一度だけ見ました。
「明日も、朝から参ります」
「よろしいので」
「はい。朝の餌は、等級とは関係がありませんので」
陛下は、笑ってはいけない場所で声を立てて笑える方でした。ああいう笑い方をなさる方の厩舎は、たぶん立て直せます。
看板の字は辺境の風で少し色が抜けましたけれど、値段のところは読めます。「斬らずに済むかどうか、見るだけなら無料」。王都でも値上げはいたしません。
次回、王都の依頼第一号がまいります。祭りの夜にだけ、吠える仔です。




