第33話 香が強すぎるのです
王家の厩舎は、匂いが変わっていました。
門をくぐる前から分かりました。藁と獣と水の匂いの上に、重たい香が乗っています。花のような、樹脂のような、高い香りです。社交界の広間なら、さぞ立派だったでしょう。
「止まりなさい」
入口で、背の高い方が手を上げました。仕立てのよい上着に、香の匂いが染みています。
「ここは王家の厩舎です。見世物小屋ではない」
「コンラート総監様でいらっしゃいますか。エルナ・ウィスタリアと申します」
「知っています。掃除女でしょう」
その方はわたくしの後ろのレオンハルト様に目礼をして、わたくしには目礼をしませんでした。分かりやすい方です。
「辺境伯殿。王命でお越しとは伺っていますが、厩舎は私の管轄です。素人の迷信に王家の獣を触らせるわけには参りません」
「迷信」
「匂いで獣が分かる、という類の話ですよ。香学の心得もない者の言う匂いなど、犬の言葉と同じです」
「見るだけだ」
レオンハルト様が仰いました。三語です。総監様は何か仰りかけて、王命の書状と入口の外の黒狼を順番に見て、道を空けました。ノクスは外の日陰に伏せたまま動きません。敷居の内側へは、入りませんでした。
厩舎の中は、静かでした。
悪い静けさです。並んだ房に十四頭がいて、物音がほとんどしません。健やかな厩舎は、うるさいものです。藁を掻く音や、桶を鳴らす音や、鼻を鳴らす音がして、それでひとつの厩舎です。それが、ありません。
通路の柱ごとに、銀の香炉が据えられていました。細い煙がまっすぐ立って、天井の梁に溜まっています。
「等級二の香です。王宮の広間と同じものを、獣に焚いてやっている。これ以上の待遇がありますか」
「窓は、いつから閉めておいでですか」
「香が逃げるでしょう」
「換気は」
「朝に一度。それで十分です」
いちばん奥の房の前で、ハンスが待っていました。
「レクスです。筆頭の……陛下の乗騎です」
大きな仔でした。深い鹿毛で、肩の高さはノクスと同じくらいあります。房の奥に立って、壁に鼻先を向けたまま、こちらを見ようともしません。
「三月前から、誰も鞍を載せられません。近づけば壁を蹴ります。飼い葉は三口で残します。それでも立っている。……あたしは、この仔が横になったところを、もうずっと見ておりません」
「入ります」
「おやめなさい。蹴られますよ」
総監様の声を後ろに聞きながら、わたくしは房の戸を開けました。入って、戸から二歩のところに膝をつきます。それ以上は近づきません。
匂いを、上から剥がしていきます。
いちばん上は香です。厚い。壁のようです。その下に人。革と、磨き粉。その下に藁。湿っています。取り替えられていない匂いです。その下に、この仔。汗と、蹄と。
……いちばん底に、疲れの匂いがしました。
眠っていない生き物の匂いです。ダンと同じでした。あの老いた荷役獣も、横になれないまま三月立っていました。
「レクス」
名前を呼ぶと、耳がこちらへ半分だけ回りました。
「あなた、香で目が回っているのですね」
わたくしは立ち上がって、房を出て、総監様に申し上げました。
「香が強すぎるのです」
「は」
「この仔たちは匂いで世界を見ています。等級二の香は、この仔たちには、昼も夜も鳴りやまない鐘と同じです。壁も床も自分の脚の匂いも、全部塗り潰されます。自分がどこにいるのか分からなくなるのです。どこにいるのか分からない場所では、横になれません」
「素人の作り話だ」
「では、伺います。香を焚きはじめてから、眠る仔は増えましたか。減りましたか」
「……それは、獣どもがまだ香に慣れんからで」
「三月で慣れない薬は、効いていない薬です。厩番なら誰でも知っています」
「口が過ぎるぞ、掃除女」
「試しましょう。この房だけで結構です。香炉を消して、窓を開けて、藁を全部取り替えます。今夜ひと晩で分かります」
「断る。香の配置は王宮の香学に基づいて」
「やらせろ」
レオンハルト様が仰いました。今度は四語でした。総監様は書状のほうを見て、それから吐き捨てるように仰いました。
「一房だけです。何かあれば、責はそちらに」
「承知しました。責は、わたくしに」
総監様が去り際に、ハンスへ何か言い置いていかれました。ハンスは聞こえなかった顔をしていました。二十年勤めると、ああいう顔が上手になるのだそうです。
「姉さん、手伝います。何からですか」
「まず香炉です。火の始末をして、房から十歩離してください。灰は捨てないで。それから窓です」
「窓、固いですよ、これ。ずっと開けてない窓の固さです」
「開くまで押してください。窓は、開けるためについています」
処置は、手順のとおりです。
香炉を房から遠ざける。窓を二枚、風の抜ける向きに開ける。湿った藁を全部出して、乾いたものに替える。桶を洗って、水を替える。ハンスとティムと三人で、夕方までかかりました。
「姉さん、これ、辺境でやってたのと同じですね」
「同じです。特別なことは何もしていません」
「じゃあ、なんで誰もやらなかったんですか」
「香炉のせいにできたからだと思います。立派な道具がひとつあると、人は手を動かさなくなるのです」
「藁は全部ですか。もったいなくないですか」
「湿った藁は、湿った匂いの寝床です。あなたは湿った布団で眠れますか」
「眠れません」
「この仔もです」
風が通ると、房の匂いが下から順に戻ってきました。藁と、木と、水の匂いです。レクスの鼻が初めて壁から離れて、風の来る窓のほうへ、ゆっくりと向きました。
日が落ちる頃、レクスは房の真ん中で、前脚を折りました。
ゆっくりと、確かめるように横になって、首を藁に預けました。
「……ああ」
ハンスが、声にならない声を出しました。
「寝た。寝ました、エルナ様」
「はい。眠っています」
「三月ぶりです。三月ぶりだ」
「静かに。三月ぶんですから、長く眠ります」
わたくしたちは房の戸を静かに閉めました。総監様は、いつの間にかいらっしゃいませんでした。
帰り際、わたくしは消した香炉の灰を、少しだけ紙に取りました。
癖のようなものです。帳面に貼っておくためでした。けれど包みながら、指が止まりました。
灰の底のほうに、金気。
……気のせいでしょうか。香に、金気は入らないはずです。
紙を二重に折って、わたくしは帳面に挟みました。
お読みいただきありがとうございます。
香は人のためのものです。獣にとってのよい匂いは、乾いた藁と、風と、自分の脚の匂いです。つまり、掃除です。掃除女の迷信は、だいたい掃除でできています。
ブックマークしてくださると、この厩舎の窓がまた一枚開くような気がしております。風は、通れば通るだけよいのです。
次回、謁見です。陛下は、眠ったレクスの話をお聞きになったようです。




