第32話 王都の門は、黒狼に慣れていません
王都の門は、朝から行列でした。
荷車と行商の方と巡礼の方。列は進んでは止まり、止まっては進みます。わたくしたちの番が来たのは昼近くでした。
「止まれ。……止まれ!」
門番の方が槍を構えて、それから構えたまま二歩下がりました。見ているのはわたくしではありません。荷車の脇を歩いてきた黒い大きな仔のほうです。
「な、なんだそれは」
「ノクスです」
「名前を訊いてるんじゃない! く、黒狼だろう。魔獣だぞ」
「はい。魔獣です」
「はいじゃない!」
門番の方は笛を吹きました。詰所からもう三人出てきます。全員が同じ二歩を下がりました。ノクスは道の真ん中に座って、あくびをしました。牙の列が朝日に見えて、四人がまた一歩下がりました。
「あくびです。威嚇ではありません」
「どこで見分けるんだ、そんなもの!」
「耳です。倒れていませんので」
「耳……?」
「威嚇のときは耳が伏せます。いまは立っています。それから尾です。垂れて、先だけ揺れています。退屈だという意味です」
「魔獣が退屈するか!」
「します。半日歩いてきましたので」
列の後ろがざわつきはじめました。獣臭い、という言葉がどこかで聞こえた気がします。あの言葉は不思議なもので、聞こえても、もうどこにも刺さりません。わたくしはノクスの耳を見ていました。今日もよい耳です。
「通せるか! 危険個体だったらどうする。登録証は。飼育の許可は」
「通す」
レオンハルト様が馬から降りて、書状を差し出しました。
「ガルド辺境伯レオンハルト。王命により参上した。連れだ」
門番の方は書状を開いて、封蝋を見て、姿勢を正しました。それでも槍は下ろしきれないようです。穂先が所在なさそうに揺れています。
「へ、辺境伯様。しかし、その、獣は」
「うちのが通れないなら、あたしたちは帰るよ。王様にはそう伝えといて。呼んだのはそっちだからね」
マルタ様が荷台から仰いました。
「そ、そう言われましても」
「言われましても、じゃないの。あんた、さっきから槍が震えてるよ。獣はね、震えてる槍がいちばん嫌いなんだ。落ち着きな」
門番の方は槍と書状とノクスを順番に見ました。最後に上官らしい方が走ってきて、結局、門は開きました。くぐるとき、ノクスは門の柱の匂いを一度だけ確かめました。
王都の中は、匂いの多い街です。
石畳と焼きたてのパンと川と香油。人の匂いが層になって、通りごとに入れ替わります。ティムは口を開けたまま塔を見上げて、二度、人にぶつかりました。
「姉さん、あれ、全部家ですか」
「家です。上にも人が住んでいます」
「上にも……。落ちないんですか」
「落ちません。階段で上がるのです」
「知ってます。そういう意味じゃなくて」
「分かっています。わたくしも最初は同じことを思いました」
滞在先は、辺境伯家が代々使っている王都屋敷でした。石造りの古くて静かな家です。厩が裏にありましたが、ノクスはそこではなく、屋根の低い物置の上を選びました。どこへ行っても、この仔は高いところから始めます。
荷解きの途中で、門を叩く音がしました。
開けると、帽子を胸に当てた白髪の方が立っていました。
「ハンス」
「エルナ様」
王家の厩舎に二十年勤めた厩番のハンスでした。わたくしが王都を出る日、十四頭の名前と餌の順番を書いた紙を預かってくださった方です。
「お戻りになったと聞いて、居ても立ってもいられず。……ようございました。本当に、ようございました」
「お変わりありませんか」
「わしは変わりません。変わったのは厩舎のほうです」
「伺います」
ハンスは帽子を握りしめました。
「ひどいものです。十四頭のうち、九頭が立ったまま眠っております」
「九頭」
「横になりません。房で脚を折らないのです。飼い葉は残す。蹄は伸びる。毛づやは落ちる。侍従長様は薬師を呼びました。薬師は匙を投げました。それで今は、総監様が」
「総監様」
「コンラート様と仰います。エルナ様が発たれて厩舎が荒れたあと、新しく置かれた御役です。香で獣を整えるのだそうで。等級の高い香を焚けば、獣は鎮まると」
「香で、ですか」
「はい。厩舎に香炉が並びました。それはもう、立派な香炉が」
「それで、眠りましたか」
「……いいえ。ひどくなる一方です。いちばんひどいのは筆頭のレクスで、もう三月、誰も鞍を載せられません」
「レクスが」
あの仔のことは覚えています。若くて、気位が高くて、房の掃除の順番が一日ずれただけで桶を蹴る仔でした。気位の高い仔ほど、崩れるときは深く崩れます。
「近づく者を蹴るのです。薬師は気性の病と言いました。総監様は、等級を上げれば鎮まると」
「上げて、どうなりましたか」
「壁を蹴る音が、夜中まで続くようになりました」
ハンスの言い方には、二十年ぶんの遠慮が詰まっていました。この方は悪口を言いません。言わないぶん、帽子が皺になります。
「エルナ様の紙は、いまも持っております。それどころか」
ハンスは懐から、端の擦り切れた帳面を出しました。
「あの紙の裏に、続きをつけておりました。あれから毎日です。どの仔が何を残したか。いつから眠らなくなったか。……お見せするほどのものでは、ないのですが」
「ハンス。それは、宝物です」
「は」
「あとで、最初の頁から読ませてください。全部です」
ハンスは帽子で顔を隠すようにして、何度も頷きました。
「シグルは、どうしていますか」
「ああ、あの仔は幸せ者です。この春に引退しまして、いまは街の外の牧に。ブルーノという男の牧で、のんびり草を食んでおります」
「それは、よい知らせです」
帳面に書くことがひとつと、いつか行く場所がひとつ増えました。
「明日、厩舎へ伺います」
わたくしが言うと、ハンスは顔を上げて、それから少しだけ声を落としました。
「総監様は、お許しにならないと思います。あの方は、エルナ様のことを……その」
「掃除女、でしょうか」
「……掃除女の迷信、と」
「半分は合っています。掃除は、しておりましたので」
「エルナ様」
「迷信の側は、明日、厩舎で答えます。言葉ではないもので」
夜、物置の屋根の上で、ノクスが街の匂いを嗅いでいました。長い時間、同じ方角を向いたままでした。
王家の厩舎の、ある方角です。
王都の門番の方の名誉のために申し添えますと、黒狼のあくびを間近で見て一歩しか下がらないのは、それだけで十分に勇敢です。
ハンスの帳面は、紙の裏から始まった帳面です。ああいうものが、あとでいちばん強いのです。
次回、十年勤めた厩舎に、預かり屋として入ります。香炉が、並んでいるそうです。




