第31話 看板は、荷車のいちばん上に
出発の朝、わたくしは看板を外すところから始めました。
「姉さん、それも持っていくんですか」
ティムが荷車の縄を締めながら訊きます。
「持っていきます。店でいちばん大事な板ですので」
「王都で新しいのを作ったほうが、綺麗だと思いますけど」
「新しい板には、匂いが染みていません」
「匂いって、そんなに大事ですか。板の匂いですよ」
「大事です。ここへ来た仔たちの匂いが、順番に染みています。ノクスの匂いも、ダンの匂いも、ウォクスの匂いも。知らない土地で店を開くとき、これがあるのと無いのとでは、まるで違います」
この看板は、雨に三度傾いた板です。そのたびに打ち直されました。字はわたくしが塗りました。杭はレオンハルト様が打ちました。
「積め」
レオンハルト様が仰って、看板は荷車のいちばん上に載りました。倒れないように、藁の束で両側を挟みます。
荷車は二台です。一台は桶と藁と薬草の箱。もう一台は帳面と道具と、わたくしたちの荷物です。預かっていた仔たちは、先週までに全部お返ししました。
門の外に、ヨナスさんが立っていました。
「小屋は、隊で見回ります。屋根が飛んだら直しておきますから」
「お願いします。それから、東の柵の杭が一本緩んでいます」
「知ってます。先生が三回言いましたから」
「四回目です。念のためでした」
「ラウも元気です。鞍は、洗ってから載せてます」
「よい騎士です」
ヨナスさんは少し赤くなって、敬礼をなさいました。
「行きと帰りで、荷が同じだといいけどね」
マルタ様が手綱を握りながら仰いました。
「帰りは増えていると思います」
「だろうね。あんたはそういう人だよ」
王都までは、荷車で六日の道のりです。ノクスは荷車には乗らず、ずっと脇を歩きました。夜は宿の屋根の上です。どこへ行っても、この仔は高いところから始めます。
三日目の夜、宿の軒下で、ティムが訊きました。
「姉さんは、王都に住んでたんですよね」
「住んでいました。十八年」
「戻るの、嫌じゃないんですか」
「嫌かどうか、実はまだ分からないのです。着いてから調べます」
「調べるって、そういうものですか」
「そういうものです。匂いと同じで、遠くから決めつけると、たいてい間違えますので」
「あたしは分かるよ」
マルタ様が壁にもたれたまま仰いました。
「あんた、楽しみにしてる顔だね。仕事のある場所へ行く人の顔だ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。十年働いた厩舎が荒れてるって聞いて、じっとしてられる厩舎番はいないさ」
「わたくし、厩舎番ではないのですが」
「はいはい。預かり屋さんね」
六日目の朝、街道の駅に着きました。
駅というのは騎獣を替えるための場所で、厩と井戸と、屋根の低い宿があります。厩の前で、栗毛の大きな仔がこちらへ首を伸ばしました。
「あら。フルグ」
街道の駅の三頭のうちの一頭で、昔、一度だけ診た仔です。鼻先がわたくしの肩の匂いを確かめました。それから荷車の脇のノクスを見て、少しだけ後ろへ下がりました。
「大丈夫です。この仔は、詰めてくれますので」
「先生、ちょうどよかった」
駅の厩番の方が、帽子を取って駆けてきました。先生というのはわたくしのことのようです。いつの間にか、街道ではそう呼ばれるようになっていました。
「新入りが、朝から桶に口をつけないんです」
「熱は」
「ありません。脚も見ました。歯も見ました。何ともないんです」
「いつからですか」
「三日前からです。届いたその日から」
新入りは灰色がかった雌の騎獣で、ステラという名でした。房の隅に立って、飼い葉桶から顔を背けています。
わたくしは桶の前に膝をついて、匂いを上から剥がしていきました。
いちばん上は街道の埃です。その下に人と、革と、井戸の水。その下に飼い葉。……ここで止まりました。
「この草、今年から仕入れを替えましたか」
「え。……ああ、はい。南の谷の草が値上がりして、春から西の平地のものに。よく分かりましたね」
「干し方が違うのです。南の草は岩の上で干します。西の草は土の上です。土の匂いが、下に残っています」
「草は草でしょう」
「わたくしたちには。この仔には、桶ごと知らない土地です」
「姉さん、それだけで食べなくなるんですか」
ティムが柵の外から訊きました。
「あなたも、知らない家でいきなり夕食が出てきたら、少しは箸が遅くなるでしょう」
「なります。というか、なりました。預かり屋に来た最初の日」
「同じことです」
処置は簡単です。前の草が残っていれば少し混ぜて、三日かけて割合を移していきます。厩番の方は倉庫から古い草の残りを見つけてきました。ひとつかみ混ぜた桶を置くと、ステラは鼻先で二度確かめて、それから食べはじめました。
「……食った」
「三日で全部移してください。急がないのが手順です」
「三日も、ですか」
「三日で済む、と数えてください。この仔は、これから何年もこの桶で食べるのですから」
「先生。あんた、王都へ行くのか。行ったきりか」
「戻ります。店がありますので」
「そうか。なら、帰りもこの駅だな」
「はい。そのときは、ステラの桶を見せてください。西の草だけで食べているはずですので」
「食べてなかったら」
「食べています。手順どおりなら」
「……先生は、そういうところが怖いよ」
夕方、駅を出て、最後の丘を上りました。
上りきったところで、王都が見えました。白い壁と、塔と、夕日で銅色になった屋根が、谷いっぱいに広がっています。わたくしがあの門を出たのは、冬の終わりでした。いまは、春です。
ノクスが、荷車の先で立ち止まりました。
尾も、耳も、動きません。ただ立って、街を見下ろしています。
「ノクス」
呼んでも、すぐには動きませんでした。この仔があの街で何を見て、どうやって北の谷までたどり着いたのか、わたくしはまだ知りません。帳面にも書いてありません。訊いたことがないのではなく、訊く手立てがまだ無いのです。
「参りましょう。今度は、こちらから行くのです。呼ばれたからではありません。看板を持って行くのですから、まるで違います」
「三語で言うと、乗り込む、だね」
マルタ様が後ろで仰いました。
「違うだろ」
「あら閣下、じゃあ何です」
「……帰りに寄る場所が増えた。それだけだ」
「六語でした。今日はもうお喋りの日ですね」
明日は、あの門をくぐります。
黒狼を、連れて。
お読みいただきありがとうございます。
預かり屋、看板ごと王都へまいります。呼び戻されたときには断った道を、自分の看板を積んで通るのですから、同じ道でもまるで別の道です。
ノクスが丘で立ち止まった理由は、エルナもまだ知りません。帳面に書いていないことは、この人にとって「まだ無いこと」なのです。いずれ、書く日が来ます。
次回、王都の門です。門番の方は、黒狼の通し方をご存じないようです。




