第30話 懐くということ
小瓶は、侯爵の手から落ちました。
投げ捨てたのではありません。指が開いてしまったのです。中身が斜面の草に染みて、焦がした蜜の匂いが一度だけ強く立ちました。
十三頭目が、その匂いから顔を背けました。
「……なぜだ」
侯爵が言いました。
「なぜ私に向く。私が作った。私が測った。私が――」
「はい」
わたくしは膝をついたまま申し上げました。
「あなたが、いちばん長く触っていらっしゃいましたので」
二十二頭を谷から出すのに、二日かかりました。
薄い個体から順に、隣の落ち着きを匂いで受け取らせながら、少しずつ。ノクスが先頭を歩きました。この仔が歩くと、後ろの列が止まらないのです。理屈は分かりません。分からないので、帳面に書きました。
『黒狼、先導。列が乱れない。理由不明。要観察』
二日目の昼に、列がいちど止まりました。
後ろから四頭目が座り込んでしまったのです。脚ではありません。匂いを取ると、腹でもありませんでした。
ただ、疲れていました。
「休みます」
「まだ半刻も歩いてないよ」
「半刻です。この子たちは、半月ぶりに空の下を歩いております」
わたくしたちは街道の脇で二刻ほど止まりました。騎士の方々は槍を置いて、藁を配って、それから、なぜか一人が笛を吹き始めました。誰も止めませんでした。
その笛のあいだに、座り込んだ仔が立ち上がります。
村に着いたとき、街道に人が出ていました。
誰も槍を持っていませんでした。桶を持っている人と、藁を抱えている人と、それから、何も持たずにただ立っている人がいました。ティムの母親が桶を差し出して、「半分ずつ、何度もでしたね」と言いました。
わたくしは、返事をするのに少しかかりました。
アーレンス侯爵が王都へ戻られたのは、その翌週です。
告発はありませんでした。わたくしは何も申し上げておりませんし、レオンハルト様も報告書に余計なことをお書きになりませんでした。ただ、あの谷には辺境の騎士が四十人おりました。
四十人が見たのは、兵器と呼ばれたものが、作った本人に向き直った場面です。
その話は、誰が広めたわけでもないのに、ひと月で王都まで届いたそうです。国防のためだと言った方の後ろ盾が、順に手を引いていった、とも聞きました。
マルタ様が新聞のようなものを片手に、預かり小屋へ来られました。
「侯爵家、爵位の返上を打診してるってさ」
「そうですか」
「……あんた、ほんとに興味ないんだね」
「ございません」
「そこがいちばん怖いよ、あたしは」
「あとね、王都の話をもうひとつ」
マルタ様が紙をめくります。
「王家の騎獣、まだ立て直ってないってさ。半分は使いものにならないって書いてある」
「……そうですか」
「そのうちの一頭がね、行進中に脚をやったらしい。栗毛の大きいの。名前が出てる」
わたくしは手を止めました。
「シグル、って読むのかい?」
「……ええ」
「知ってる仔?」
「十年、見ておりました」
紙を借りて、その行だけ読みました。右前脚。蹄の内側。処置が遅れて、もう走れないこと。引退させて、王都の外の牧に出すこと。
五分でした。あの日、五分でよかったのです。
「エルナ?」
「……いえ」
わたくしは紙を返しました。
「牧に出していただけるのなら、そのほうがあの仔には合っています。行進はずっと苦手でしたので」
それだけ申し上げました。腹の底が冷えているのは、たぶん怒りではありません。名前を呼ばれなかったものが、名前を呼ばれないまま終わっただけのことです。
マルタ様はしばらく黙って、それから、思い出したように言いました。
「そうそう。押収した薬瓶、うちの倉に積んであるんだけどね。底に刻印があった」
「刻印」
「うん。侯爵家の紋じゃなかった」
その日の夕方、わたくしは倉に行きました。
薬瓶は木箱に三つぶん。底を返すと、たしかに小さな刻印がありました。指の腹で撫でると、輪郭が読めます。
冠と、二本の枝。
十年見てきた紋でした。王家の厩舎の壁にも、飼葉桶の底にも、同じものが焼き付けてあります。
箱の蓋を戻す手が、少し止まりました。
厩の前に戻ると、レオンハルト様が柵にもたれて立っておられました。
「マルタから聞いた」
「はい」
「王都へ行くことになる」
「そうかもしれません」
わたくしは柵の内側を見ました。二十二頭のうち十九頭が、もう自分で立って水を飲んでいます。残りの三頭は寝ていますが、寝る場所を自分で選べるようになりました。ノクスは屋根の上です。いつもの位置取りです。
「エルナ」
「はい」
「……あー」
珍しく、言葉が途中で止まりました。
「三語まで、あと少しですね」
「茶化すな」
「申し訳ありません」
その方は柵から背を離して、こちらへ一歩来ました。それから、右手を持ち上げて――途中で止めて――少し考えて、また持ち上げました。
剣を持つほうの手です。
「俺は、獣を斬るしか知らなかった」
「存じております」
「情を持てば人が死ぬと思っていた。実際に死んだからだ」
「はい」
「……あんたが来て、それが違うと分かった。あのとき剣を下ろしたのは、間違いじゃなかった」
「はい」
「だから」
言葉が、また止まりました。
わたくしは待ちました。こういうときにしてはいけないのは、手を伸ばすことです。伸ばされた手は測られます。測って、届く距離だと分かると、選択肢がひとつしかなくなる。
だから待つのです。あちらに選ばせるために。
どれくらいそうしていたでしょう。
レオンハルト様の指先が、わたくしの手の甲に触れました。
押すように、一度だけ。
わたくしは、たぶん間の抜けた顔をしていたと思います。それは獣の合図だからです。ノクスが「よし」と言うときにする、あれです。
「……どこで覚えられたのですか」
「屋根の上のやつを、半年見ていた」
「観察なさっていたのですね」
「他にやり方を知らん」
屋根の上で、黒い耳が一度動きました。
わたくしは自分の手の甲を見て、それから、この方の顔を見ました。無表情です。相変わらず、まったく動きません。ただ、耳だけが赤い。
匂いは、嘘をつけません。
「レオンハルト様」
「なんだ」
「王都へは、ご一緒していただけますか」
「……ああ」
「ノクスも連れて行きます。あと、たぶん、桶と藁を積んだ荷車が二台ほど」
「多いな」
「預かり屋ですので」
空が暮れていきます。厩の中で、誰かが藁を掻く音がしました。
膝の上の帳面を開いて、わたくしは新しい頁に書きました。
『王家の紋。要確認』
お読みいただきありがとうございます。
さて、薬瓶の底の紋です。あれを見た瞬間にエルナが手を止めたのは、十年見てきたものだったからですね。この人は王都を出るとき、二度と関わらないつもりでおりました。関わらないと決めたものは、たいてい向こうから訪ねてきます。
ブックマークと評価は、預かり屋の藁代と干し肉代に充てさせていただきます。二十二頭ぶんですので、正直に申し上げてかなり助かります。
第二部は王都編です。エルナは厩舎番として戻るのではありません。今度は、看板を持って行きます。




