第29話 今度は、こちらの番です
十三頭目は、斜面を駆け上がっていきました。
騎士たちが槍を構えます。レオンハルト様が手で制しました。
「射るな」
「閣下、あれは侯爵閣下のほうへ」
「射るなと言った」
わたくしは走りました。走りながら、匂いを取りました。息が上がると層が乱れるので、本当はしてはいけないことです。それでも取りました。
斜面の上。侯爵の手の中で光っていたもの。あれは笛でも鞭でもありません。
小瓶です。
蓋が開いています。
「――閣下!」
わたくしの声で、侯爵がこちらを見ました。この方がわたくしの顔をご覧になるのは、用のあるときだけです。
「その小瓶を、捨ててください」
「捨てる?」
侯爵は笑いました。
「これが制御だ。この匂いを追うように仕込んである。追わせて、止めて、また追わせる。犬と同じだよ、お嬢さん」
「違います」
「何が違う」
「追っているのではありません」
わたくしは足を止めました。もう二十歩ありません。
「その匂いを、この子たちは"敵"として覚えさせられています。追っているのではなく、殺しに行っているのです。あなたが持っているのは手綱ではなく、標的の札です」
侯爵の笑みが、わずかに止まりました。
「馬鹿な。試験では――」
「檻の中で試されたのでしょう」
「……」
「檻の中では、届きませんので」
侯爵の指が、小瓶の口を握り込みました。蓋を閉めようとして、うまくいかないようでした。
「試験は成功していた。三度だ。三度とも、標的の前で止まった」
「止めたのは、鉄格子です」
「……」
「三度とも、あなたと個体のあいだに檻がございましたでしょう。この子たちは止まったのではなく、止められていたのです。あなたはそれを制御と呼んでこられました」
護衛の一人が、剣を抜いたまま侯爵を見ました。今の話が理解できてしまった顔でした。理解してしまうと、その方はもう侯爵の後ろに立てません。
「黙れ」
「はい」
「黙れ、と言っている。獣臭い娘が――」
その言葉は、久しぶりに聞きました。
不思議なもので、王都にいたころは毎日のように浴びていたのに、今はもう、意味のある言葉として耳に入ってきません。ただの音でした。
「その通りです」
わたくしは頷きました。
「獣に近い匂いがいたしますので、この子たちはわたくしを敵として数えません。あなたは薬の匂いがいたしますので、数えられます。それだけの違いです」
十三頭目が、斜面を登り切りました。
侯爵の随行が散ります。護衛が二人だけ残って剣を抜きました。侯爵は動きません。動けないのだと思います。人は、想定していないものが来たときに動けなくなります。
わたくしは残りの距離を詰めました。
匂いの層を、もう一度。
だめです。読めません。耳の奥で細い音が鳴り始めています。昨日の反動がまだ抜けていないところに無理をしたので、当然でした。
視界の端が、白く欠けます。
膝から力が抜けたのが分かりました。地面が近づいてきて、それから――近づくのが止まりました。
黒いものが、下に入っていたのです。
「……ノクス」
毛です。夜を吸って返さない毛並みが、わたくしの体を横から支えていました。
この仔はいつからそこにいたのでしょう。谷を降りるときは後ろにいたはずです。屋根の上でも柵の外でもなく、わたくしの真下にいる。届かない距離を保つのが癖のこの仔が。
「わたくし、まだ立てます」
ノクスは動きませんでした。
わたくしを支えたまま、首だけを持ち上げて、斜面の上を見ています。喉の奥が鳴りました。あの、地面が鳴るような低い音です。
十三頭目が、その音で止まりました。
二頭は、五歩の距離で向き合いました。
同じ谷の檻に入れられていた仲ではありません。ノクスは七年前に王都の厩舎にいた仔で、十三頭目は薬で作られた仔です。共通するものは何もない――はずでした。
ノクスが、一歩前に出ました。
そして、腹を見せたのです。
十三頭目の前で。喉と腹を晒して、横になって。
わたくしは息を止めました。
あれは、敵ではないという合図です。獣が獣に対して出せる、いちばん高くつく合図。噛まれれば終わりの姿勢で「わたしはあなたを殺しに来ていない」と言っている。
十三頭目の耳が、後ろへ倒れました。
それから、前脚が一度、地面を掻いて――止まりました。
「……ああ」
声が漏れました。
匂いが、変わったのです。読めなかった層のいちばん底で、薬の下に埋まっていたものが顔を出しました。この仔の、この仔自身の匂いです。濡れた毛と、乾いた血と、それから、ずっと治りきらなかった痛みの匂い。
北の谷で初めてノクスに会った夜と、同じ匂いでした。
「……あなたも、痛かったのですね」
わたくしはノクスの背に手を置いて、体を起こしました。それから、十三頭目に向かって膝をつきました。
両手を開いて、待ちます。
斜面の草が、風でいちどきに傾きました。匂いの層が、その風で薄く伸びます。薄くなると、読めるのです。押し寄せてくるものは読めませんが、伸びたものは指で辿れます。
薬。恐怖。痛み。それから、いちばん底に、藁の匂いがありました。
この仔は、どこかで藁の上に寝ていたことがあるのです。檻の灰色ではない、日向の匂いのする藁の上に。いつのことかは分かりません。ただ、覚えているものがあるのなら、戻れる道もあるということです。
「……大丈夫ですよ」
声は、届かないと思います。届かなくてかまいません。
「痛いのを、先に取ります。順番はこちらで決めますので、あなたは何もしなくていいのです」
十三頭目の首が、わずかに下がりました。
牙が見えなくなります。それだけのことでしたが、それだけのことに、たっぷり数えて三十はかかりました。
斜面の上で、侯爵が叫びました。
「何をしている! 動け、こっちだ、匂いはこっちにある!」
小瓶を振ります。
十三頭目が、その声のほうへ顔を向けました。
侯爵が笑いかけて――そして、笑うのをやめました。
その仔が、まっすぐ侯爵を見ていたからです。
「……いや、違う。私ではない。私は――」
当たり前でした。二十二頭を檻に入れ、薬を測り、蓋を開け閉めしてきた方です。この谷でいちばん濃く薬の匂いをまとっているのは、獣ではありません。
「閣下」
わたくしは、なるべく平らな声で申し上げました。
「その小瓶、捨ててくださいと申し上げました」
お読みいただきありがとうございます。
ノクスが十三頭目の前で腹を見せる場面は、第3話の裏返しです。あのときはノクスが人間に見せました。今回は獣が獣に見せています。この作品でいちばん高くつく挨拶を、この仔は二度使いました。
次回、第一部最終話。谷から二十二頭を連れて帰ります。それと、剣を持たない手の話を。




