表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「獣臭い令嬢」と婚約破棄されましたが、王国の魔獣はぜんぶ私に懐いています 〜辺境で預かり屋を始めたら、討伐一筋の辺境伯まで懐いてしまいました〜  作者: 鈴宮ひなた


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/34

第28話 香を捨てろ

 谷の底に、檻が二十二ありました。


 夜明け前です。霧が低く垂れて、松明の光がその中で丸く滲んでいます。檻はどれも鉄で、荷車ほどの獣が身を起こせない高さに作られていました。


 わたくしはまだ、耳の奥の音が抜けきっていません。昨日の反動です。ノクスに運び出されてからひと晩、水しか飲めていませんでした。


 「戻れ」


 隣で、レオンハルト様が言いました。


 「戻りません」


 「顔が白い」


 「もともとです」


 その方は少しのあいだ黙って、それから前を向きました。背後には辺境の騎士団が四十人。全員が槍を持ち、全員が胸元に小袋を下げています。


 魔除けの香です。討伐の決まり。


 わたくしは口を開きかけました。あの日と同じことを言わなければならない、と思ったのです。二十人を相手に一度説明して、それでも動かなかったあの夜のことを。


 けれど、言う前に声がしました。


 「――香を捨てろ」


 わたくしのものではありませんでした。


 隊列がざわつきます。誰かが「閣下」と呼びかけました。


 「聞こえなかったか。全員だ。紐ごと外して、谷の外へ置いてこい」


 「しかし規則が」


 「規則を書いたのは王都だ。ここの獣を見たことのない人間が書いた」


 レオンハルト様は、ご自分の小袋を引きちぎって放りました。あの夜と同じ手つきでした。ただ、あの夜と違って、今度は誰にも説明を求めませんでした。


 「あれは敵意の匂いだ。二十二頭ぶんの逃げ場のない場所へ、四十人の敵意を持ち込むな」


 ……わたくしが言うつもりだった言葉です。ほとんど、そのまま。


 騎士たちが動き始めました。小袋が次々に外されて、後ろへ回されていきます。


 「閣下」


 「なんだ」


 「今の、二十三語ございました」


 「……数えるな」


 香が谷の外へ運ばれると、匂いの層が変わりました。


 わたくしは目を閉じて、上から順に剥がしていきます。霧。鉄錆。松明の油。人間が四十人。その下に――


 息が詰まりました。


 薬です。二十二頭ぶん。ウォクスの檻の前で嗅いだあの甘い匂いが、ここでは濃さの違う層になって重なっていて、どこまで剥がしても底に届きません。


 「エルナ」


 「……大丈夫です」


 嘘でした。読めないのです。層が多すぎて、一頭ずつの匂いを分けられない。診断ができないということは、わたくしにできることが何もないということでした。


 「順番を決めます」


 わたくしは膝をついて、檻の並びを見ました。


 「薬の匂いが薄い順に開けます。濃い個体は、薄い個体が落ち着いてからです。獣は、隣の落ち着きを匂いで受け取りますので」


 「見分けられるのか」


 「濃淡だけなら」


 それだけは、まだ読めました。


 最初の檻が開いたのは、空が白み始めたころです。


 中にいたのは中型の四つ足でした。痩せています。扉が開いても出てきません。わたくしは檻から十歩離れて膝をついて、両手を開いて、待ちました。


 いつもの手順です。伸ばさない。測らせない。あちらに選ばせる。


 その仔は、たっぷり数えて百を過ぎたころに、片方の前脚を檻の外へ出しました。


 「……いい子ですね」


 二頭目。三頭目。


 四頭目の檻を開けたとき、後ろでティムの声がしました。


 「姉さん、こっち、水いる?」


 「ええ、桶に半分だけ」


 「半分?」


 「たくさん飲ませると吐きます。半分ずつ、何度もです」


 ティムが檻の脇に桶を置きました。手が震えていましたが、置きました。少し前まで柵から二歩下がっていた子です。


 七頭目で、一度つまずきました。


 扉を開けても、その仔は隅から動かなかったのです。薬の匂いは薄いほうでした。恐怖の匂いもさほど強くありません。それなのに、前脚を一歩も出さない。


 「怯えてるんじゃないのかい」


 マルタ様が覗き込みます。


 「怯えてはいます。ただ、それだけではありません」


 わたくしは檻の床を見ました。藁が敷いてあります。運び込まれたときのままの、灰色に湿った藁です。


 鼻を近づけて、それから分かりました。


 「……この藁、別の仔のものですね」


 「は?」


 「もっと大きい個体の匂いがします。順位が上の仔です。この仔にとって、この床は"よその寝床"なのです。だから出られない。出るには、通らなければなりませんので」


 「通るって、扉までの二歩をかい」


 「獣にとっては、二歩でも他人の家です」


 わたくしは檻の外に新しい藁を撒きました。谷に運び込ませた、日向の匂いのするほうです。撒いた道は、扉から五歩ぶんだけ。


 七頭目は、その五歩を歩いて出てきました。


 マルタ様が何も言わずに立っていました。それから、ぼそりと。


 「……あんた、ほんとに何なんだい」


 「預かり屋です」


 十二頭目まで開いたところで、日が谷に差しました。


 異変は、十三頭目でした。


 扉を開けた瞬間、中の個体が跳ねたのです。出てきたのではありません。壁に体をぶつけて、そのまま鉄格子に牙を立てました。折れる音がしました。牙のほうがです。


 「下がって!」


 わたくしは叫びました。叫んでから、自分の声が届いていないことに気づきました。


 その個体は、こちらを見ていないのです。目が開いているのに、何も見ていない。


 匂いを取ります。急いで、乱暴に。


 薬。恐怖。それから――


 方角です。この仔は、匂いのする方角へ向かおうとしている。


 「エルナ」


 「レオンハルト様、その仔は敵を探しています」


 「敵?」


 「薬の匂いのする方向です。薬を"敵の匂い"として覚えさせられているのです。だからそれが濃いほうへ――」


 言いながら、背筋が冷えました。


 薬を、敵の匂いとして覚えさせる。それだけなら、まだ理解はできます。犬に獲物の匂いを教えるのと、手つきは同じですので。


 けれど、この仔たちは檻の中で教え込まれています。逃げ場がなく、隣にも同じ匂いがして、目を閉じても匂いだけは閉じられない場所で、来る日も来る日も。


 そうやって作られたものは、敵を見つける道具にはなりません。世界のどこかに敵がいる、とだけ信じ込んだ生き物になります。


 だから、この仔は見ていないのです。目を開けたまま、何も。


 「レオンハルト様、囲まないでください」


 「囲まなければ抜ける」


 「抜けさせてください。追うのは、そのあとです」


 振り返ります。谷の入口。霧の薄くなった斜面の上に、人影が並んでいました。


 中央に、灰色の外套。アーレンス侯爵です。


 その方が、片手を上げました。


 「見たか、ガルド辺境伯」


 声が谷に響きます。


 「これが兵器だ。制御は、こちらにある」


 侯爵の手の中で、小さな金属が光りました。


 そして――十三頭目が、走り出しました。

お読みいただきありがとうございます。


第3話でエルナが二十人に向かって言った「香を外してください」を、今回はレオンハルトが四十人に向かって言いました。出会ったころは三語だった人が、今回は二十三語です。誰も数えてくれと頼んでいないのですが、マルタは数えます。


次回、侯爵の手の中で光ったものが何なのか、エルナが匂いだけで先に気づきます。ただし、間に合うとは限りません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ