第28話 香を捨てろ
谷の底に、檻が二十二ありました。
夜明け前です。霧が低く垂れて、松明の光がその中で丸く滲んでいます。檻はどれも鉄で、荷車ほどの獣が身を起こせない高さに作られていました。
わたくしはまだ、耳の奥の音が抜けきっていません。昨日の反動です。ノクスに運び出されてからひと晩、水しか飲めていませんでした。
「戻れ」
隣で、レオンハルト様が言いました。
「戻りません」
「顔が白い」
「もともとです」
その方は少しのあいだ黙って、それから前を向きました。背後には辺境の騎士団が四十人。全員が槍を持ち、全員が胸元に小袋を下げています。
魔除けの香です。討伐の決まり。
わたくしは口を開きかけました。あの日と同じことを言わなければならない、と思ったのです。二十人を相手に一度説明して、それでも動かなかったあの夜のことを。
けれど、言う前に声がしました。
「――香を捨てろ」
わたくしのものではありませんでした。
隊列がざわつきます。誰かが「閣下」と呼びかけました。
「聞こえなかったか。全員だ。紐ごと外して、谷の外へ置いてこい」
「しかし規則が」
「規則を書いたのは王都だ。ここの獣を見たことのない人間が書いた」
レオンハルト様は、ご自分の小袋を引きちぎって放りました。あの夜と同じ手つきでした。ただ、あの夜と違って、今度は誰にも説明を求めませんでした。
「あれは敵意の匂いだ。二十二頭ぶんの逃げ場のない場所へ、四十人の敵意を持ち込むな」
……わたくしが言うつもりだった言葉です。ほとんど、そのまま。
騎士たちが動き始めました。小袋が次々に外されて、後ろへ回されていきます。
「閣下」
「なんだ」
「今の、二十三語ございました」
「……数えるな」
香が谷の外へ運ばれると、匂いの層が変わりました。
わたくしは目を閉じて、上から順に剥がしていきます。霧。鉄錆。松明の油。人間が四十人。その下に――
息が詰まりました。
薬です。二十二頭ぶん。ウォクスの檻の前で嗅いだあの甘い匂いが、ここでは濃さの違う層になって重なっていて、どこまで剥がしても底に届きません。
「エルナ」
「……大丈夫です」
嘘でした。読めないのです。層が多すぎて、一頭ずつの匂いを分けられない。診断ができないということは、わたくしにできることが何もないということでした。
「順番を決めます」
わたくしは膝をついて、檻の並びを見ました。
「薬の匂いが薄い順に開けます。濃い個体は、薄い個体が落ち着いてからです。獣は、隣の落ち着きを匂いで受け取りますので」
「見分けられるのか」
「濃淡だけなら」
それだけは、まだ読めました。
最初の檻が開いたのは、空が白み始めたころです。
中にいたのは中型の四つ足でした。痩せています。扉が開いても出てきません。わたくしは檻から十歩離れて膝をついて、両手を開いて、待ちました。
いつもの手順です。伸ばさない。測らせない。あちらに選ばせる。
その仔は、たっぷり数えて百を過ぎたころに、片方の前脚を檻の外へ出しました。
「……いい子ですね」
二頭目。三頭目。
四頭目の檻を開けたとき、後ろでティムの声がしました。
「姉さん、こっち、水いる?」
「ええ、桶に半分だけ」
「半分?」
「たくさん飲ませると吐きます。半分ずつ、何度もです」
ティムが檻の脇に桶を置きました。手が震えていましたが、置きました。少し前まで柵から二歩下がっていた子です。
七頭目で、一度つまずきました。
扉を開けても、その仔は隅から動かなかったのです。薬の匂いは薄いほうでした。恐怖の匂いもさほど強くありません。それなのに、前脚を一歩も出さない。
「怯えてるんじゃないのかい」
マルタ様が覗き込みます。
「怯えてはいます。ただ、それだけではありません」
わたくしは檻の床を見ました。藁が敷いてあります。運び込まれたときのままの、灰色に湿った藁です。
鼻を近づけて、それから分かりました。
「……この藁、別の仔のものですね」
「は?」
「もっと大きい個体の匂いがします。順位が上の仔です。この仔にとって、この床は"よその寝床"なのです。だから出られない。出るには、通らなければなりませんので」
「通るって、扉までの二歩をかい」
「獣にとっては、二歩でも他人の家です」
わたくしは檻の外に新しい藁を撒きました。谷に運び込ませた、日向の匂いのするほうです。撒いた道は、扉から五歩ぶんだけ。
七頭目は、その五歩を歩いて出てきました。
マルタ様が何も言わずに立っていました。それから、ぼそりと。
「……あんた、ほんとに何なんだい」
「預かり屋です」
十二頭目まで開いたところで、日が谷に差しました。
異変は、十三頭目でした。
扉を開けた瞬間、中の個体が跳ねたのです。出てきたのではありません。壁に体をぶつけて、そのまま鉄格子に牙を立てました。折れる音がしました。牙のほうがです。
「下がって!」
わたくしは叫びました。叫んでから、自分の声が届いていないことに気づきました。
その個体は、こちらを見ていないのです。目が開いているのに、何も見ていない。
匂いを取ります。急いで、乱暴に。
薬。恐怖。それから――
方角です。この仔は、匂いのする方角へ向かおうとしている。
「エルナ」
「レオンハルト様、その仔は敵を探しています」
「敵?」
「薬の匂いのする方向です。薬を"敵の匂い"として覚えさせられているのです。だからそれが濃いほうへ――」
言いながら、背筋が冷えました。
薬を、敵の匂いとして覚えさせる。それだけなら、まだ理解はできます。犬に獲物の匂いを教えるのと、手つきは同じですので。
けれど、この仔たちは檻の中で教え込まれています。逃げ場がなく、隣にも同じ匂いがして、目を閉じても匂いだけは閉じられない場所で、来る日も来る日も。
そうやって作られたものは、敵を見つける道具にはなりません。世界のどこかに敵がいる、とだけ信じ込んだ生き物になります。
だから、この仔は見ていないのです。目を開けたまま、何も。
「レオンハルト様、囲まないでください」
「囲まなければ抜ける」
「抜けさせてください。追うのは、そのあとです」
振り返ります。谷の入口。霧の薄くなった斜面の上に、人影が並んでいました。
中央に、灰色の外套。アーレンス侯爵です。
その方が、片手を上げました。
「見たか、ガルド辺境伯」
声が谷に響きます。
「これが兵器だ。制御は、こちらにある」
侯爵の手の中で、小さな金属が光りました。
そして――十三頭目が、走り出しました。
お読みいただきありがとうございます。
第3話でエルナが二十人に向かって言った「香を外してください」を、今回はレオンハルトが四十人に向かって言いました。出会ったころは三語だった人が、今回は二十三語です。誰も数えてくれと頼んでいないのですが、マルタは数えます。
次回、侯爵の手の中で光ったものが何なのか、エルナが匂いだけで先に気づきます。ただし、間に合うとは限りません。




