第27話 三十秒だけ、待ってください
谷への道は、篝火で塞がっておりました。
街道の口に槍を持った兵が並んで、荷車ひとつ通しません。日が落ちてからは、松明が二列に増えました。
「正面は無理だね」
マルタ様が、岩陰から首を戻します。
「爺さんの言ってた道は」
「東の尾根から、石切場の上へ出られるそうです。昔、切った石を運び下ろしていた道だと」
「そりゃ結構。……で、そこの坊主」
ティムが飛び上がりました。
「あんたはここで待ちな」
「なんでさ! あの道、僕がいちばん知ってるよ」
「知ってる人間を外に置いとくのが偵察だよ。中で全員倒れたら、誰が道を教えるんだい」
ティムは口をへの字にして、それでも岩に座りました。座り際に、わたくしの外套の裾を引きます。
「姉さん。……耳、押さえないでね」
わたくしは、少し驚きました。
「見ておりましたか」
「毎回見てるよ」
尾根の道は狭く、石の崩れやすいものでした。
レオンハルト様が先頭で、そのすぐ後ろにわたくし、しんがりにマルタ様と騎士が数人。灯りは持ちません。月がありましたので、目が慣れれば足元は見えます。
ノクスは道を使いませんでした。斜面の岩を伝って、少し上を並んで行きます。呼んでも、下りてきません。いつもの位置取りです。
「閣下。ひとつだけ、決めておきたいのですが」
「言え」
「下を見て、匂いが読めましたら、明日の朝に檻を開けられます。読めなければ、開けても止まりません」
「読めなかったら」
「そのときは、お引きください。……わたくしを含めて、全員です」
レオンハルト様は、しばらく黙って歩かれました。石を蹴る音が、二つぶん先で止まります。
「その言い方は、好かん」
「申し訳ありません」
「謝るな。好かんと言っただけだ」
石切場の底が見えたのは、すっかり夜になってからでした。
布が外れています。昨日は、掛かっていたものです。
檻の列が、篝火の光の中に並んでおりました。数えようとして、やめました。奥の暗がりまで続いていたからです。
中の仔たちは、どれも身を起こせません。天井が低いのです。伏せた姿勢のまま、首だけを動かしています。
痩せておりました。毛の抜けて、地肌の見えている仔もおります。それでも、どの仔も生きて、こちらを見ました。
「……マルタ様」
「言うな。分かってる」
「あの檻、身を起こせません」
「分かってるって言ってるだろ」
マルタ様が、槍の柄を握り直しました。指の節が白くなっています。
「……エルナ」
レオンハルト様の声でした。この方がわたくしの名をお呼びになるのは、めずらしいことです。
「大丈夫です」
「顔を見てから言え」
わたくしは岩棚の縁まで進んで、風の来る側に立ちました。
目を閉じます。
層を、上から剥がしていきます。
いちばん上は篝火の油。その下に人。兵の汗と、革と、金物です。さらに下に鉄。檻のものです。
その下に、獣がいます。
――読めません。
もう一度、息を吸い直しました。同じでした。
匂いが、全部同じなのです。
いつもは一頭ごとに違います。年が違えば違い、食べたものが違えば違い、痛いところが違えば違う。だから読めるのです。
ここには、その差がありませんでした。薬が、上から塗り潰しています。あの焦がした蜜の甘さが、どの檻からも同じ濃さで届くのです。
「引くぞ」
レオンハルト様が、わたくしの肘を掴まれました。
「三十秒だけ、待ってください」
「……三十秒」
「はい。それだけあれば、底が取れます」
その方は、手を離されました。離す前に、一度だけ強く握られました。
わたくしは、もっと下へ行きました。
薬の層の、さらに下です。そこは本来、嗅ぐ必要のない場所です。嗅がなくても診立ては足りますので、これまで下ろしたことがありません。
鼻の奥が焼けました。耳の奥で、いつもの細い音が鳴りはじめます。
構わずに続けました。
――ありました。
薬の下に、まだ残っています。乾いた干し草の匂いをさせている仔。片脚を庇っている仔。乳の匂いの抜けきっていない、まだ若い仔。
消えてはおりません。潰されているだけです。
そう分かった瞬間に、音が太くなりました。
細い糸のようだったものが、いきなり縄になって、耳の奥から頭の中へ入ってきます。匂いの層が、全部いっぺんに落ちてきました。上も下もありません。油も鉄も薬も、干し草も、みんな同時に。
膝が、岩に着いたのが分かりました。
「エルナ」
誰かが叫んでいます。遠いのです。声が、匂いの下に沈んでいます。
篝火が動きました。兵が、気づいたのだと思います。
「――閣下、見つかりました!」
起き上がろうとしました。腕に力が入りません。指先が、自分のものではないようでした。
黒いものが、視界を塞ぎました。
ノクスです。
鼻先を押しつけてはきませんでした。そういうことをしている場合ではなかったのだと思います。上顎の左、折れた牙のあるほうを避けて、外套の襟を咥えました。
それから、後ろへ下がりはじめました。
石が転がります。斜面を、引きずられていくのが分かりました。首が絞まらないように、咥える場所を何度も咥え直しています。途中で一度だけ止まって、また下がりました。
「離せ、俺が運ぶ」
「閣下、下がって! あの子のほうが速い!」
尾根の上まで出たところで、ノクスは襟を離しました。
夜の風が、頬に当たります。谷の匂いが、少しずつ薄れていきました。
ノクスは、それきり近寄ってきませんでした。三歩ほど離れたところに立って、谷のほうを向いております。尾は、下りたままでした。
「……この、大馬鹿」
マルタ様の声が、震えておりました。
「三十秒って言ったろ。あんた、二分立ってたよ」
「そうですか」
「そうですか、じゃないよ」
レオンハルト様が、わたくしを抱え起こされました。手が、少し震えています。剣を持つときは震えない手です。
「喋るな」
「閣下」
「喋るなと言った」
「……あの仔たち、全部、同じ匂いでした」
声が出ているかどうか、自信がありませんでした。
「名前を取られた匂いです。番だけ振られて、上から塗られて。……でも、下にはありました。まだ、残っておりました」
「……ああ」
「ですから」
息を吸います。喉の奥に、まだ谷の匂いが残っておりました。
「出します」
「何を」
「全部です。一頭残らず」
「……あんた、いま立てもしないんだよ」
「立てるようになります。朝までには」
谷の底で、鎖が一度だけ鳴りました。
お読みいただきありがとうございます。
この話でいちばん怖く書きたかったのは、檻でも鎖でもなく「全部同じ匂いだった」という一点でした。名前を取り上げるというのは、たぶんそういうことなのだと思います。エルナがそこで踏みとどまらずに底まで潜ったのは、下にまだ残っているかどうかを、どうしても確かめたかったからです。
なおノクスは、この場面で一度も甘えていません。あの仔は運び方だけを考えておりました。
次回、夜明け前の谷。動くのは、エルナではありません。




