第26話 わたくしの匂いの、正体
三日目の朝、馬車は領主館ではなく、預かり小屋のほうへ来ました。
道が細いので、途中からは徒歩です。従者を街道に残して、アーレンス侯爵はお一人で柵まで歩いてこられました。手に、平たい箱をひとつ提げて。
「侯爵閣下。散らかっておりますが」
「構わん」
屋根の上に、ノクスが伏せています。この仔はいつも屋根です。風下にならない場所に座る癖があって、こちらの匂いの流れが変わるとゆっくり位置を変えます。
侯爵は柵を見て、水桶を見て、藁の山を見ました。人はやはり最後でした。
「よく手が入っている」
「それだけが取り柄ですので」
箱の中身は、紙の束でした。
教会の写しです。洗礼の記録が代ごとに並んでおります。
「君の母上の生家を調べた」
わたくしは息を止めました。母のことは父がほとんど話しませんでしたので。
「三代さかのぼって、どの代にもひとりずついる。獣に好かれる者がな。鷹匠、犬飼い、厩番。──いずれも、家格の残らん仕事だ。だから貴族の家系図には出てこん」
「……厩番」
「君で、四人目だ」
紙の端が指の下で少し波打ちました。わたくしの手が震えていたのだと思います。
「侯爵閣下。ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「言え」
「わたくしの魔力は、薄いのですか」
侯爵がはじめて紙から目を上げられました。
「薄くはない」
「では」
「貴族の魔力の香りというのは、代々調香してきたものだ。花に寄せて、人に好かれるように作った。君のそれは作られていないだけだ」
「作られて、いない」
「君の匂いは、獣のそれに極めて近い。ほとんど見分けがつかん」
風が回りました。藁の匂いが立ちます。
「魔獣は匂いで敵味方を決める。君を嗅いだ個体は、敵ではないと判定するのではない。──群れの内側だと判定する」
獣臭い。
その言葉を、わたくしは十八年ぶん聞いてまいりました。
舞踏会では扇の陰から言われました。廊下ではすれ違いざまに言われました。父の書斎では面と向かって言われました。最後は広間で、大勢の前で。
合っていたのですね。
「驚かんのか」
「驚いております。ただ」
「ただ、なんだ」
「皆様は、正確でいらしたのだな、と」
侯爵が少しだけ眉を動かされました。
「……面白いことを言う」
「わたくし、嘘を言われるのが苦手なのです。獣の匂いに近いと言われて、そのとおりでしたので、腹の立てようがございません」
「結構なことだ」
「ただ、ひとつだけ伺わせてください」
「言え」
「王家の厩舎に十年おりました。朝いちばんに柵へ来る仔が、毎日おりました。……あれは、わたくしが好かれていたのではないのですね」
「群れの内側だと判定されていた。それだけだ」
「そうですか」
わたくしは帳面を膝の上で開きました。十年ぶんの走り書きです。どの仔がどの順で柵へ来たか、そればかり書いてあります。順番は年ごとに入れ替わりました。そのたびに書き直しました。
判定だけなら、順番は要りません。
「……いえ。やはり、少しは好かれていたと思います」
「根拠は」
「順番です」
「本題だ」
侯爵は紙を箱に戻して、蓋を閉じられました。
「谷の個体は、制御が利かん。人の手で作った匂いでは、群れは動かんのだ。作り物だと分かるらしい。……本物が要る」
「わたくし、ですか」
「君が檻の前に立てば、あれらは君を内側と判定する。君が退けば退き、進めば進む。指示は要らん。立っているだけでいい」
「……制御装置、ということですね」
「そうだ」
侯爵は条件を並べられました。
村は移さない。谷はそのまま残す。辺境伯家にも手を触れない。獣は一頭も殺さず、餌も寝床もわたくしの言うとおりにする。それから、ウィスタリアの家にわたくしの名を戻す。
悪い話ではありませんでした。むしろ、わたくしが望んでいたものがほとんど全部そこに並んでおりました。
「お断りします」
「理由を言え」
「あの仔たちは、わたくしを信じているのではありません。判定しているのです。敵ではない、と。……判定を裏切られた獣は、二度と誰にも腹を見せません」
「一頭も死なんと言っている」
「わたくしが柵の前に立って、あの仔たちが従って、その先で誰かが死んだとします」
わたくしは侯爵の顔を見て申し上げました。
「それは、あの仔たちがわたくしを信じた罰になります」
「君は毎日その鼻を使っているだろう。役に立てているだろう」
「向きが逆です」
「向き」
「わたくしは、獣の言い分をこちらへ運んでおります。あちらへ命令を運ぶために、この鼻があるのではありません」
侯爵はしばらく水桶のあたりを見ておられました。
「惜しいな。装置としては、よくできている」
「わたくしのことは、何とお呼びくださっても構いません」
声は、大きくなりませんでした。
「ただ、あの仔たちを兵器とお呼びになるのは、やめていただけますか」
「侯爵」
柵の外から、レオンハルト様が仰いました。
「門はあちらだ」
「署名は」
「しない」
「領主でなくなるぞ」
「別の者が判を押すなら、それまでだ。……俺が押した紙でうちの村が消えるのは、違う」
侯爵は頷かれました。怒っておいでではありません。この方は、いつもそうです。
「よろしい。だが辺境伯、あの紙をよく読め。協力せよ、とは書いてある。署名を要する、とは書いていない」
「……なに」
「置いていったのは礼儀だ。礼儀は、断られたら引っ込める」
箱を提げて、侯爵は道のほうへ歩き出されました。それから思い出したように振り返られます。
「預かり屋。装置に、同意は要らん」
馬車の音が遠ざかってから、マルタ様が柵に肘をつきました。
「……あんたのそれ、体質じゃなくて血筋だったのかい」
「そのようです」
「へえ。いいね、それ」
「いい、ですか」
「代々ひとりずつってのが、いい。ずっと誰かがやってたってことだろ」
わたくしは何と申し上げればよいか分かりませんでした。
「……前から言おうと思っていた」
レオンハルト様がこちらを見ずに仰います。
「あんたから、獣の匂いはしない」
「え」
「藁と、日向の匂いだ」
返事をする前に、街道のほうから駆けてくる足音がしました。ティムです。転びかけて、柵にぶつかって止まりました。
「姉さん! 街道に、兵隊が」
「落ち着いて。息を吸って」
「谷が」ティムは肩で息をしています。「谷への道、全部ふさがれた」
お読みいただきありがとうございます。
第1話でエルナが言われた「獣臭い」は、この物語でいちばん長く効かせるつもりだった言葉でした。侮辱がそのまま正解だった、という決着にしたかったのです。誰も嘘は言っていない。ただ、誰も、それが何を意味するかを考えなかっただけで。
ところで預かり屋の看板には「見るだけなら無料」と書いてあります。ブックマークもだいたい同じようなもので、立てておくと次に困ったときに寄りやすくなります。柵に一枚、いかがでしょうか。
次回、エルナたちは檻のある谷へ入ります。あそこの匂いは、層が読めません。




