第25話 実験場は、この谷にありました
谷向こうの村までは、荷馬車で半日ほどでした。
ティムが荷台の縁に腰かけて、ずっと後ろを見ています。
「姉さん。昨日の馬車、ここ通ったんだよね」
「たぶん」
「なんで村なんだろ。何もないよ、あそこ」
「何もないところに御用のある方も、いらっしゃいますので」
依頼そのものは、前から届いておりました。村の番犬種が幾頭か、夜通し吠えて止まらない。眠れないので見てほしい、と。手紙が来たのは冬の終わりで、こちらの手が回らないうちに春になっておりました。
手綱を握ったマルタ様が前を向いたまま仰います。
「吠える犬なんてのは、うちの領じゃ珍しくないよ」
「珍しくないほうが、おかしいのです」
「そういう言い方するね、あんた」
尾根の上を、黒いものが並んで走っておりました。
「……あれ、ずっと付いてきてるよ」
「そのようですね」
「あんた、呼んだのかい」
「呼んでおりません」
ノクスは荷馬車まで下りてきません。木立の縁を、こちらと同じ速さで進むだけです。
村に着くと、犬たちはもう吠えていませんでした。
声が出なくなっていたのです。喉の奥が擦れて、吠えようとするたびに息だけが漏れる。長く続いた証拠でした。
わたくしは柵の外に膝をついて、しばらく待ちました。
いちばん近くにいた仔が首を伸ばして息を吸います。それから前脚を折って伏せました。残りの仔たちも順に倣います。
「……これ、うちの犬ですかね」
村の方が、後ろで呟かれました。
「よく吠える仔たちです。夜のあいだ、何かを追い払っていたのだと思います」
「何をです。狼も熊も、この谷にはもう出ませんが」
「匂いをです」
わたくしは飼い葉桶に手を入れて、底に残った粉を指ですくいました。
鼻に近づけます。
青い草を潰したような匂い。その下に、焦がした蜜のような甘さと、細い金気。
管理局の薬と同じでした。ただし、匂いの層がまるで違うのです。ボルグ様の薬は上のほうに乗っておりました。新しく振りかけたものは、そうなります。
この桶のそれは、いちばん下にありました。木の目の奥まで染みているのです。
「……これは、いつからのものですか」
「いつって、飼い葉ですよ」
「わたくしがこの領へ来るより、ずっと前からです」
村の方がわたくしを見ました。
村長のご老人が証書を持ってこられました。
油紙にくるんで、櫃の底に仕舞ってあったものです。それだけで、大事にされてきたのだと分かります。
『飼料試験に関する取決め』
王都の商会の名前があり、その下に代理人の署名がありました。取決めの中身は、そう難しいものではありません。指定された飼い葉を家畜に与え、月ごとに様子を書いて出す。そのかわり、村には金が下りる。
「悪い話じゃなかったんです」
村長は証書を膝の上でそっと伸ばされました。
「この谷は畑が薄い。冬になると、どこの家も子どもの数を数えるようになる。……そこへ、飼い葉を替えるだけでいいと来た」
「お家畜は、どうなりました」
「気が立ちましてね。荷役獣が人を蹴るようになって、犬は夜通し吠えて。年寄りは谷の風土だと言いました。うちの谷は昔からそうだ、って」
「昔から、そうでしたか」
村長はしばらく黙っておられました。
「……いいえ」
証書を持つ手が細かく震えています。
「わしらが、飼い葉を替えてからです」
村の裏手から坂を上りました。
古い石切場の跡があります。石を切り出さなくなって久しく、今は誰も近寄らない場所だと聞いておりました。
その平らな底に柵が並んでいました。
柵の内側に鉄の檻です。人の背丈ほどの高さで、荷車ほどの獣が身を起こせない作りでした。手前のいくつかは空です。奥のほうは布が掛けてあって見えません。
轍がありました。乾いていません。昨日のものです。
ノクスは、坂の途中で足を止めました。
そこから先へは下りてきません。背の毛が首の後ろまで逆立って、口の端が上がっています。唸ってはいません。息だけを、細く長く吐いていました。
「ノクス。上で待っていてください」
わたくしがそう言うと、その場に伏せました。伏せたまま、目だけは谷の底に据えたままでした。
ティムがわたくしの外套を掴みました。
「姉さん、あれ」
「見なくていいですよ」
「見たよ」
風がこちらへ回りました。
匂いが来ます。薬と、鉄と、それから――
わたくしは口を押さえました。そこにいるものの匂いが、全部同じだったのです。
レオンハルト様が谷の底へ着かれたのは、日が傾いてからでした。
騎士を連れずにお一人です。手には筒が一本。
「王命だ」
「……開けましたか」
「読んだ」
「では、村へ」
「その前に、あんたの見立てを聞く」
村の方々が、こちらを見ました。領主が王命の紙を提げたまま、預かり屋の女の話を先に聞くと仰ったのです。
「……飼い葉は、少なくとも数年ぶんが染みております。桶の木の目の奥までです。それから、あの檻の仔たちですが」
「言え」
「谷の外から連れて来られたのではないと思います。この村の家畜と、同じものを食べてきた仔たちです」
村長が、口を開けたまま石切場のほうを見上げられました。
その方は筒から紙を抜いて、わたくしに向けて広げられました。読み上げる気はないようでした。
この谷一帯を、王国防衛用地として徴用する。村の者は麓へ移す。移転の費えは王国が持つ。辺境伯はこれに協力せよ。
署名の欄が、空いています。
「閣下」
村長が、ゆっくり進み出られました。
「移れば、金は出るんですね」
「出る」
「……なら、うちは」
「待ちなよ、爺さん」
マルタ様が遮りました。
「移ったところで、飼い葉のことは何も終わらないよ。あんたらの犬は喉が潰れたままだ」
「潰れた喉で、冬は越せません」
村長の声は震えていませんでした。
村の方々が、二つに分かれて立っています。頷いている側と、俯いている側と。どちらの顔にも、責める色はありませんでした。それがいちばん、きついところでした。
「辺境伯様。お断りになれば、どうなりますので」
誰かが訊きました。レオンハルト様は少しのあいだ黙っておられました。
「王命だ。断れば、俺は領主でなくなる」
「そうしたら」
「別の領主が来る」
その方は紙を持ったまま谷の底を見ておられました。
「そいつは、同じ紙に判を押す」
答えは、明朝までに、と書いてありました。
帰りの荷馬車で、誰も口をききませんでした。ティムは荷台の隅で膝を抱えて、そのまま眠ってしまいました。
預かり小屋に着いたのは、夜も遅くなってからです。
柵の中に灯りを向けました。
預かっている仔たちが全部、同じほうを向いて立っています。眠っている仔は一頭もおりません。
みんな、谷の奥を見ておりました。
お読みいただきありがとうございます。
この話で書きたかったのは、悪人がいない場所でも悪いことは起きる、という一点でした。村の方々は誰も獣を痛めつけていません。ただ、冬に子どもの数を数える暮らしのところへ、飼い葉を替えるだけでいいという話が来た。断れる人は、そう多くないと思います。レオンハルト様の署名欄は、まだ空いたままです。
次回、アーレンス侯爵がもう一度やって来ます。今度は領主館ではなく、預かり小屋のほうへ。




