第24話 国防だとおっしゃいました
紋章の入った馬車は、思っていたよりも静かに街道を上ってきました。
轍のくぼみに合わせて速度がすっと落ちます。御者の腕ではありません。車輪そのものが上等なのだと思います。
「うちの門で停まるね、あれ」
マルタ様が窓枠に肘をつきました。
「閣下。応接の間を開けます。あと、卓の酒瓶を隠します」
「隠すな」
「隠します。侯爵家ですよ」
レオンハルト様はそれきり何も仰いませんでした。近ごろこの方は一日に十語ほどお使いになります。それでも、使わないと決めた日は本当に使われません。
わたくしは膝の上の籠を持ち直しました。中には飛行種の使い魔が一羽。三月お預かりするはずの仔でしたが、返す日が今日だと昨日のうちに知らせが来ておりました。まだ十日と経っておりません。
「姉さん、その子」
ティムが籠を覗き込みます。この子も近ごろは、柵から二歩下がらなくなりました。
「返しちゃうの」
「お預かりしていたものですから」
「……あの薬、まだ入ってるかもしれないのに?」
わたくしは答えを持っておりませんでした。
アーレンス侯爵は、まず天井をご覧になりました。
それから壁を見て、暖炉を見て、最後にわたくしたちを見ました。順番がそうなのです。人がいちばん後でした。
「ガルド辺境伯。息災か」
「は」
「結構」
背の高い、痩せた方でした。声を張られません。リゼット様のお父上だと言われれば、たしかに目の形が同じです。
「そちらが、預かり屋か」
「エルナ・ウィスタリアと申します」
「よろしい。個体の状態は」
名前は、通り過ぎていきました。
「……この仔でしたら、羽の付け根の炎症は引いております。しばらく高く飛ばさず、朝の餌を半分に落としていただければ、じきに戻ります。ただ」
わたくしは籠の布を上げました。使い魔が首を伸ばして、部屋の匂いを確かめます。それから、わたくしの袖のほうへ顔を寄せました。
「餌に、混ぜ物がございました」
マルタ様が半歩だけ前へ出ます。
「青い草を潰したような匂いです。魔除けの香と同じもの。……ただ、その下にもう一層ございました。焦がした蜜のような甘さに、底に金気。管理局の薬と、同じです」
「そうだろうな」
「……ご存じでしたか」
「投与した」
侯爵は否定なさいませんでした。むしろ、こちらが言い終わるのを待っていらした様子でした。
「ハイデンは加減を知らなかった。だから外した。君の鼻は正確だ。だから、こうして来た」
わたくしは籠の把手を握り直しました。手のひらが、少し汗ばんでおります。
「……侯爵閣下。この仔の名を、伺ってもよろしいでしょうか」
「名」
「はい」
「札に番が振ってある。見れば分かる」
わたくしは帳面を開いて、札の番を書き写しました。名前の欄は、空けたままにしました。
「辺境伯。北の国境は、いま何人で守っている」
「……足りていません」
「そのとおりだ」
侯爵は椅子に腰を下ろされました。背もたれには触れません。
「王都はそれを増やせん。北へ回せば南が空き、南が空けば海が空く。兵は足りず、金も足りん。──だが、この国には魔獣がいる」
「侯爵」
レオンハルト様の声が、低くなりました。
「毎年、討伐に人を出しているな。毎年、何人かは帰らん。名は言えるか」
「……全員、言えます」
「では、その者たちを獣に替えられると申し上げたら、どうする」
誰も、動きませんでした。
「柵の向こうに並べておくだけでよい。隣国は魔獣を持たん。あれが並んでいるという事実だけで、来年の春に死ぬはずだった者が死なずに済む。人も出さず、金も出さず、それで国境が保つ。──これは、国防だ」
マルタ様が小さく息を吐きました。
「……理屈は、通ってるね」
通っています。わたくしにも、それは分かりました。この方は無茶を仰っているのではありません。数を数えて、いちばん安いところに手を置いていらっしゃるだけなのです。
「一頭で、槍の何十本ぶんも働く。餌は日に二度で足り、寝床の苦情も言わん。損耗しても、補充が利く」
「……補充」
「調整はほぼ終わっている。残るは制御だけだ。兵器としての完成度でいえば、あと一歩というところで──」
「兵器では、ありません」
声が、思ったよりも大きく出ました。
マルタ様がこちらを見ます。扉の陰で、ティムが肩を跳ねさせました。
「あの仔たちには、名前があります。寒ければ縮こまりますし、脚が痛ければ庇います。好きな藁の向きも、水を飲む時刻も、一頭ずつ違うのです。兵器は、藁の向きを選びません」
「名は要らん。番がある」
「番は、痛みを教えてくれません」
侯爵はしばらく何も仰いませんでした。怒っておいでではありません。それが、いちばん怖いところでした。
「君は面白い」
「……恐れ入ります」
「辺境伯。三日後に、また来る。それまでに答えを用意しておけ」
「何の答えです」
レオンハルト様が仰いました。侯爵は立ち上がりながら、こちらを見もせずに答えられます。
「この谷を、王国に貸すか否かだ」
「谷、ですか」
「谷だ。土地も水も、そこにいるものも含めてな」
侯爵は扉のところで足を止めて、思い出したように付け加えられました。
「ああ。預かり屋。君の看板を読んだ。斬らずに済むかどうか、見るだけなら無料。よい文句だ」
「恐れ入ります」
「だが、見るだけでは何も済まん」
馬車まで、見送りに出ました。
中庭の塀の上に、黒いものが伏せておりました。ノクスです。いつから居たのかは分かりません。この仔はいつも、こちらの風下にならない場所を選んで座ります。
侯爵が足を止められました。
「あれが、例の黒狼か」
「はい」
「良い体躯だ。番は」
「……ございません。名がございます」
「そうか」
それきりでした。ノクスは動きません。尾も、耳も。
従者は三人。いえ、四人でした。
いちばん端の方が、轅の脇で騎獣の口輪を直しています。栗毛の、大きな仔でした。鼻の脇に汗が浮いて、喉の奥が乾いた匂いをさせています。長く走らせすぎです。
あの、水を──そう申し上げようとして、顔を上げたその方と、目が合いました。
ジェラルド殿下でした。
外套は、侯爵家のものです。ただ、袖の丈が合っていません。手袋の指先が擦れて、糸が出ておりました。
「そこの者。扉を」
侯爵がそう仰いました。名は呼ばれませんでした。
その方は扉を開けて、頭を下げて、それから御者台の後ろへ乗られました。こちらは、一度もご覧になりませんでした。
わたくしも、何も申し上げませんでした。申し上げることが、思いつかなかったのです。
ただ、栗毛の仔だけが、通り過ぎるときに一度だけ、こちらへ鼻先を向けました。
「……知り合いかい」
マルタ様が低く仰いました。
「以前、少し」
「そう」
マルタ様は、それ以上は訊きませんでした。
馬車が動き出します。轍に合わせて、静かに。
街道の先で、それは谷のほうへ曲がっていきました。
街へ戻る道ではありません。あちらの奥には、村がひとつあるだけです。
お読みいただきありがとうございます。
アーレンス侯爵は、この話の中で一度も誰の名前も呼びません。獣にも、部下にも、かつて王太子だった方にも。番と役割さえあれば世界は回ると本気で思っている方なので、たぶんご本人はそれを冷たいとも思っていません。エルナが声を大きくしたのは、この物語でまだ三度目です。
次回、エルナは谷向こうの村へ向かいます。あの村の家畜は、もう何年も前から同じ匂いをさせておりました。




