第23話 獣は、覚えています
三日目の朝は、よく晴れました。
門の前の道に、村の方々が立っています。昨日より増えていました。歎願書を届けに行くはずだった方々が、届けるより先にこちらへ来てしまったのだと思います。
柵の内側では、預かり中の仔たちがいつもどおり朝の水を飲んでいました。
「来たよ」
マルタ様が顎で示されました。
街道から上ってきたのは、管理局の一団と、その後ろに騎士団の分隊でした。馬が十数頭。先頭の馬車から降りてこられたのが、ボルグ・ハイデン局長です。
この方は、門をくぐるときも柵を見ませんでした。
紙を見ていらっしゃいました。
「魔獣管理局長ボルグ・ハイデンである。閉鎖命令の執行に来た」
「歎願書が出ております」
マルタ様が巻いた紙を差し出しました。局長は端をつまんで、二秒ほど眺めて、それから返されました。
「書式が違う。受理できない」
「中身は読まないので」
「書式が違うものは、中身も違う」
村の方が一人、低く笑いました。笑ったのだと思います。
「押収を始める。全頭だ」
管理局の方々が柵に取りついて、留め具を外しにかかりました。
わたくしは動きませんでした。動けば、この子たちが人の動きを真似します。
局長が柵の前へ進み出ました。書類を胸の高さに持ったまま、二歩、三歩。
そのとき、柵の内側が動きました。
管理局から送られてきた個体が、後ろへ下がりました。
村を襲いかけた個体が、下がりました。
侯爵家からお預かりしている飛行種の使い魔が、羽をたたんだまま、止まり木の奥へ後ずさりました。
三頭です。
同じ速さで、同じ向きに、同じだけ下がりました。
ほかの仔たちは動きませんでした。水を飲んでいた仔は、飲み続けています。老いた荷役獣は、耳を一度動かしただけでした。
その差が、朝の光の下ではっきり見えました。
「……なんだ、これは」
局長が足を止められました。
もう一歩、前に出ます。
三頭が、また同じだけ下がりました。柵の板に背中が当たって、それ以上は下がれません。
「なぜ下がる。私は何もしていない」
誰も答えませんでした。
村の方々が黙って見ています。騎士団の方々も、押収に取りついていた管理局の方々も、手を止めて柵の内側を見ていました。
わたくしは、そこで初めて前に出ました。
「皆様。少し下がっていただけますか」
「なんだ、貴様は」
「この子たちは、怒っていません」
わたくしは局長ではなく、柵のほうを向いていました。
「怖いんです」
局長が振り返って、部下の方に命じられました。
「香だ。鎮めろ」
若い局員の方が、腰の袋に手をかけて、そのまま動かなくなりました。
「聞こえないのか。香を出せ」
「……局長」
「私が出す」
局長はご自分の外套の内側から、小さな瓶を取り出されました。
その瞬間でした。
三頭が、いっせいに身を伏せました。逃げようとして、逃げ場がなくて、板に体を押しつけたまま身を低くしたのです。使い魔の羽が、乾いた音を立てて震えました。
「なぜだ」局長の声が高くなりました。「これはただの魔除けの香だ! 討伐のとき全員が着ける、決まりの――」
「閣下」
声がしました。討伐隊の若い方です。北の谷の夜、松明の輪の中で香の袋を放った方の一人でした。
「うちの香と、匂いが違います」
その方は自分の胸元の袋を掲げていらっしゃいました。
「うちのは、草の匂いです。あれは……甘いです」
誰も何も言いませんでした。
わたくしも言いませんでした。言う必要がありませんでした。
騎士団の隊長格の方が、馬から降りて前へ出られました。
「局長。念のために伺う。危険個体の登録簿を」
「もちろんある。これが本官の仕事だ」
局長は待っていたように、局員から分厚い簿冊を受け取られました。ようやくご自分の土俵に戻れたという顔をしていらっしゃいました。
「本官の着任以来、危険個体と判定した個体は十七頭。すべて記録がある。すべて書類がある。書類にそう書いてある」
「関所の控えは」
「関所?」
「魔獣管理局宛の荷だ。この領を通ったものは、こちらに写しが残る」
マルタ様が、一束の紙を隊長に手渡されました。
「うちの管轄でしてね」
隊長がめくります。読み上げはなさいませんでした。ただ、指で数えていらっしゃいました。
「局長。定数は月にひとつだな」
「そうだ」
「着任からの分で、定数を超えて入った樽が」
隊長の指が止まりました。
「十七」
村の方が誰か、息を吸いました。
局長は簿冊を開いたままでした。開いたまま、動かれません。
「……偶然だ」
隊長は控えを閉じました。
「私はまだ、何も申しておりません」
「偶然だと言っている! 十七だからどうした。数が合ったからといって――」
局長は、そこで止まられました。
ご自分が何を並べてしまったのかに、たぶん、そこで気づかれたのだと思います。
誰も告発しませんでした。歎願書も、帳面も、匂いも、この場では一度も証拠として出されていません。
ただ、獣が下がっただけです。
「局長。同行していただく」
隊長が短く仰いました。
局長は柵のほうを一度も見ずに、馬車へ戻っていかれました。最後まで、書類を胸に抱えたままでした。
あの方は、たぶん最後まで、なぜ獣が下がったのかを考えていらっしゃらない。
その背中が街道へ消えるまで、村の方々は誰も声を上げませんでした。留飲を下げるには、朝が明るすぎたのだと思います。
「……なんだか、拍子抜けだね」
マルタ様が首を鳴らされました。
「殴り込みでも来ると思ったのかい」
「わたくしは、何もしておりません」
「してないねえ。あんたが何もしないと、だいたい相手が勝手に転ぶ」
「それは、たぶん褒め言葉ではありませんね」
「褒めてるんだよ」
柵の内側で、三頭がまだ伏せていました。
わたくしが近づこうとしたところで、横から黒い外套が動きました。
レオンハルト様です。
その方は、剣を鞘に納められました。それから、柵の板に手をかけて、伏せている一頭のほうへ、ゆっくりと手を伸ばされました。
途中で止まります。いつもの止まり方です。
「そのまま、待ってください」
「……動かんぞ」
「動かないままで結構です。伸ばした手は、あちらが測ります。測り終わるまで、置いておいてください」
その方は手を止めたまま、動かずにいらっしゃいました。
朝の風が、藁を少しだけ運びました。
やがて、伏せていた仔が首を上げました。鼻先が、その方の指の先へ近づいて、そこで一度、大きく息を吸いました。
匂いを、確かめている。
レオンハルト様の手が、わずかに震えました。斬るときには震えない手です。
「……エルナ殿」
「はい」
「これは、なんだ」
「訊かれているんです。あなたが誰なのかを」
屋根の上で、ノクスが立ち上がっていました。
降りてはきません。ただ、街道の方角をじっと見ています。局長の馬車が消えたあとも、ずっとそちらを見ていました。
八年前に、レオンハルト様が斬れなかった一頭。七年前に、わたくしが一度だけ帳面に書いた甘い匂い。あの方の着任より、どちらも前です。
十七で説明のつく話ではありません。
「姉さん!」
ティムが門の柱に登って、街道のほうを指していました。
「馬車です。すごく大きいのが上ってきます」
わたくしは目を細めました。
黒い車体に、金の紋章が入っています。先日この門をくぐった馬車と、同じものでした。
風は、まだこちらへ吹いていません。
だから匂いは、届いていませんでした。
お読みいただきありがとうございます。
第3章の最終話でした。この章の山は「誰も告発しない」ことに賭けています。エルナは帳面を突きつけず、村人も声を上げず、ただ獣が下がっただけで全員が理解しました。獣は喋りませんが、覚えています。覚えているものの前では、書類はあまり役に立たないようです。
もしこの預かり屋を気に入っていただけましたら、柵にブックマークの札を一枚だけ掛けていってください。うちは看板が小さいので、札の数がそのまま道しるべになります。
次回から第4章。門の前に停まった馬車から降りてくる方は、獣を「兵器」と呼びます。そしてその言葉に、国防という名前をつけて持ってこられます。




