第22話 ティムが手を伸ばした日
夜明け前の門の前に、村の方々が二十人ほど立っていました。
先頭にマルタ様がいらっしゃいます。手に、丸めた紙を抱えていました。
「勝手にやったよ」
「あの、これは」
「歎願書。閉鎖命令に反対する、っていうやつ。名前を並べるだけの紙だ」
マルタ様は紙を広げて、柵の横板に押しつけました。
「昨日の晩から回してる。まだ半分も回ってない」
半分も回っていないのに、紙はもう名前で埋まっていました。
字を書ける方ばかりではありません。読めない名前もあります。書けない方は指に墨をつけて押していて、その横にマルタ様が代わりに書き足していらっしゃいます。
「あの、パン屋のヤンさんのところ、粉がついてます」
「そのまま出す。粉のほうが本人らしいだろ」
三枚目の下のほうに、蹄のかたちの墨がひとつありました。
「これは」
「馬車曳きのじいさんがね、うちの相棒も反対だって言い張ってさ。押させた」
「……歎願書に、獣の足形は」
「知らないよ。役所が困ればいい」
村の方々が笑いました。わたくしは笑っていいのか分からなくて、少し遅れて笑いました。
この方々に、わたくしは一度、責められています。処置を間違えたときのことです。あのとき前に出てくださったのはレオンハルト様で、村の方々ではありませんでした。
それが、いま門の前に並んでいます。
「預かり屋さん」
村の女の方が、紙の端を指しました。
「ここ、あんたの名前がないよ」
「わたくしは、当事者ですので」
「当事者が書かないでどうすんのさ。書きな」
わたくしはお借りした筆で、いちばん端に自分の名を書きました。名前を書いていい紙というものが、ずいぶん久しぶりでした。
「預かり屋さん。突っ立ってないで、お茶でも出しな」
「……はい」
「そんな顔するんじゃないよ。まだ何も終わっちゃいない」
人が増えると、獣は落ち着きません。
わたくしは柵を回って、預かり中の仔たちの様子を見ていました。ティムが桶を持ってついてきます。
その途中で、門のほうから重い足音が近づいてきました。
蹄です。
ティムが止まりました。桶の水が揺れて、少し零れます。
連れてこられたのは、老いた荷役獣でした。灰色の、背の低い仔です。粉屋のバルトさんが手綱を持っていらっしゃいました。
「歎願書に名前を書きに来た。クルミも連れてきた」
「クルミ、というお名前ですか」
「うちで十九年働いてる」
その仔は門の内側で立ち止まって、右の後ろ脚で地面を三度叩きました。
こつ、こつ、こつ。
ティムの手から桶が落ちました。
水が広がって、ティムはその場から動きません。顔が白くなっています。
「ティム」
「……すみません」
「謝らなくていいんです。今日は向こうにいてください」
「……いや」
バルトさんが、帽子を取りました。
「ティム。九年前のことだが」
ティムが顔を上げます。
「あの日、粉袋が崩れたんだ。上に積みすぎてた。俺の積み方が悪かった。音がして、クルミが跳ねた。お前はその下にいた」
「……知ってます」
「俺は、九年それを言えなかった」
わたくしは、クルミの横に膝をつきました。
目を閉じて、息を吸います。
いちばん上に粉の匂い。その下に、汗と革と、乾いた藁。
さらに下に、古いものがありました。骨の内側から滲むような、鈍く重い匂いです。膿んではいません。熱もありません。ずっと前に痛めて、治りきらないまま形を変えたもの。
右の後ろ脚です。
「バルトさん。この仔は、あの日ご自分も脚を痛めていますね」
「……跳ねたあとに、しばらく引きずってた」
「九年、それが残っています」
わたくしは立ち上がって、ティムのほうを向きました。
「ティム。よく聞いてください。この仔が蹄を鳴らすのは、怒っているからではありません」
「でも、あの音は」
「地面を確かめているんです。痛めたほうの脚に体重を乗せる前に、三度叩いて、下が固いかどうかを測っている」
クルミがまた、こつ、こつ、こつ、と鳴らしました。
「聞いてください。三度です。必ず三度なんです」
ティムの目が、蹄のほうへ動きました。
「三度鳴らしたあと、この仔は必ず歩き出します。跳ねません。跳ぶ脚がもうありませんから」
「……三度」
「三つ数えたら、次は安全です。この仔は、そういう順番でしか歩けない仔なんです」
わたくしは音を止める処置をしませんでした。止められもしますが、この仔にはこの音が要ります。要る音を人の都合で取り上げると、この仔は歩けなくなります。
変えていいのは、聞く側の数え方だけです。
ティムは、しばらく立っていました。
誰も急かしませんでした。マルタ様も、村の方々も、門の前で黙って見ています。
こつ。
「……ひとつ」
こつ。
「ふたつ」
こつ。
「みっつ」
クルミが、ゆっくり一歩前に出ました。
ティムが半歩下がって、それから、下がった半歩を戻しました。
手が上がります。途中で止まって、また上がって、指先が震えていました。わたくしは何も言いませんでした。手を伸ばすかどうかは、この子が決めることだからです。
クルミが首を下げました。
鼻先が、ティムの手のひらに触れました。
ティムは「わ」と小さく言って、それきり黙って、そのまま鼻筋を撫でました。撫でながら、しゃくり上げていました。十四の子が泣くところを、村じゅうが見ないふりをしていました。
バルトさんは帽子を握ったまま、何度も頭を下げていらっしゃいました。
「……姉さん」
「はい」
「この仔、こわくないです」
「はい」
「ずっと、こわかったのに」
「知っています」
わたくしは、それだけ申し上げました。
小屋の屋根の上で、ノクスが起き上がる気配がしました。降りてはきません。ただ、こちらへ耳を向けていました。
昼過ぎに、レオンハルト様が来られました。
歎願書を最後まで読んで、それから、いちばん下の空いた行に短くご自分の名を書かれました。辺境伯の署名です。役所へ出す紙に領主の名が並ぶのが、どういうことなのかは分かります。
マルタ様が口笛を吹きました。
「閣下。それ、けっこうな喧嘩ですよ」
「知っている」
紙を巻いていると、街道のほうから早馬の音がしました。
管理局の徽章をつけた使いが、馬から降りもせずに叫びました。
「明朝、ボルグ・ハイデン局長が執行に参ります。騎士団が同行します。閉鎖に応じぬ場合は、個体を実力で押収する」
村の方々が、いっせいに門のほうを向きました。
わたくしは、柵の内側を振り返りました。
この子たちは明日、自分たちのことで人が集まるのを、初めて見ることになります。
お読みいただきありがとうございます。
ティムの「獣が怖い」は第4話から連れてきた設定ですが、彼が怖かったのは痛みではなく音でした。恐怖を消す処置ではなく、数え方を教える処置にしたのは、この作品が「相手を変える話」ではなく「読み方を変える話」だからです。蹄の音は今日も鳴ります。三度鳴ってから、あの仔は歩きます。
次回、第3章の最終話。局長が騎士団を連れて、預かり屋の門の前に立ちます。誰も告発はしません。




