第21話 あのとき、剣を下ろした理由
その夜、ティムを村へ帰しました。
「残ります」と言い張るので、「三日ぶんの薪を割ってから残ってください」と申し上げたら、諦めて帰ってくれました。十四の子に夜通し起きていられても、割る薪がもうありません。
柵の内側では、預かり中の仔たちがいつもの時間にいつものように寝そべっています。命令書が来たことを、この子たちは知りません。知らせる方法もありません。
わたくしは灯りをひとつだけ点けて、机に帳面を広げました。
戸を叩く音がしたのは、それから半刻ほど経ってからです。
「……入る」
レオンハルト様でした。お一人です。布に包んだ瓶を提げていらっしゃいました。
「マルタ様のですか」
「押しつけられた」
布包みを開けると、瓶の首に紙が挟んでありました。マルタ様の字です。
――閣下が三語しか喋らなかったら、これを二杯飲ませてください。効かなかったら、二杯足してください。
わたくしはその紙を、そっと帳面のあいだに挟みました。
その方は椅子を引いて、腰を下ろして、それきり黙りました。
わたくしはお茶を淹れました。淹れながら、この方は何か仰りに来たのだと思いました。用のない人が夜中にここまで来るには、道が悪すぎます。
カップを置いたところで、声がしました。
「……北の谷だ」
「はい」
「八年前。俺は十八だった」
手が止まりました。
この方がご自分から昔の話をなさるのを、わたくしは初めて聞きました。
「一頭、出た。夜行の種だ。だが、昼に出た」
「昼に」
「村の外れで、うちの隊の者を一人殺した」
その方はカップに手を触れましたが、持ち上げませんでした。
「三日かけて追い詰めた。俺が先頭だった。三十歩まで詰めて、剣を上げた」
わたくしは黙って聞いていました。
「下ろせなかった」
「……どうして、と訊かれましたか」
「全員に訊かれた」
「なんとお答えに」
「答えられなかった」
その方は、ご自分の右の手のひらを見ていらっしゃいました。剣を握る手です。誰よりも強い手だと、マルタ様が仰っていました。
「敵意が、なかった」
「はい」
「そう言うと、情に流れたと言われる。そのとおりだと思った」
「その仔は、どうなりましたか」
「谷の奥へ行った。追わせなかった」
「探されましたか」
「三年、探した」その方は短く息を吐かれました。「見つからん」
わたくしは帳面を引き寄せました。
「もう少し伺ってもよろしいですか。その仔の目は、どうでしたか」
「目」
「はい。松明を向けたときです」
その方が顔を上げられました。
「……濁っていた。光を追わなかった。あれは、俺を見ていない」
「まっすぐ走って、何かにぶつかりませんでしたか」
「木にぶつかった。二度」
「口の端に、泡は」
カップを持つ手が、そこで止まりました。
「……あった。なぜ知っている」
わたくしは帳面を三か所開いて、机に並べました。
管理局から送られてきた個体。村を襲いかけた個体。侯爵家からお預かりしている使い魔。
どの頁にも、同じことが書いてあります。昼に動く。光を追わない。口の端に泡。
「三度とも、この領で見ました」
その方は、並んだ頁をひとつずつ読まれました。読むのが遅い方ではありません。それでも、ずいぶん長くかかりました。
「もうひとつだけ、伺わせてください」
「言え」
「そのとき、匂いはしませんでしたか。獣の匂いではないものです」
その方は、しばらく答えませんでした。
言いにくそうというより、言葉の置き場を探していらっしゃるようでした。
「……甘かった」
「甘い」
「焦げた砂糖のようだった。八年、誰にも言っていない」
「なぜ」
「言えば、獣に情を移していると思われる」
わたくしは、自分の帳面の三つの頁を指で押さえました。
甘い。焦がした蜜のような。底に金気。
同じ行です。八年の隔たりを挟んで、同じ行が並んでいます。
「レオンハルト様」
「なんだ」
「あなたが斬れなかったその仔は、盛られていたんです」
灯りの芯が、小さく音を立てました。
「あの日、あなたが剣を下ろしたのは、情ではありません。匂いを読んだんです。ご自分では読んだと気づかないまま、正しく読んでいらした」
その方は動きませんでした。
「敵意のない獣だと分かったから、下ろせなかった。それは、間違いではありません」
わたくしは頭を下げました。
「あなたは、正しかったんですよ」
長い沈黙がありました。
わたくしはその間に、お茶を淹れ直しました。淹れ直すくらいしか、できることがなかったからです。
「……翌月、二人死んだ」
その方が仰いました。
「別の個体だ。俺が甘い判断をしたと、皆が言った。俺もそう思った。八年、そう思ってきた」
「別の仔です」
「別だ」
その方は、同じ言葉を繰り返されました。声が少し掠れていました。
わたくしの帳面には、同じ行がもっと古いところにもあります。七年前、王都の厩舎です。四の月に一度、その次の月にもう一度、それから三月あとにまた。
どこから流れてきた匂いなのかは、書いてありません。
誰かに訊いたのかどうかも、書いてありません。
十年書き続けても、書き落としたところのほうが多いのです。
「エルナ殿」
「はい」
「あんたの帳面を、俺に読ませてくれ」
顔を上げました。
「……字が、汚いのですけれど」
「構わん」
わたくしは革表紙の一冊を差し出しました。
その方は、それを両手で受け取られました。指先で頁の端をつまんで、めくったところを掌で押さえて、また次を。
――ああ、と思いました。
この方は、獣に手を伸ばすときと同じ手つきをなさる。
獣に触れるときのこの方の手は、いつも途中で止まります。斬るために覚えた手を、ほかにどう使えばいいのか分からないという止まり方です。
いま、その手が、わたくしの十年に触れていました。
剣を握る手だと言われている、その同じ手で。
わたくしは湯気の向こうを見ないふりをして、カップを両手で包みました。少し、熱いくらいでちょうどよかったのです。
その方が帰られたのは、空が白む前でした。
外まで見送ると、屋根の上でノクスが起きていました。降りてはきません。ただ、黒い頭がゆっくりと動いて、遠ざかる外套を追っていました。
「三日目の朝だな」
その方が、門のところで足を止めて仰いました。
「はい」
「獣は、俺が預かる。全頭だ」
「……それでは、あなたが」
「言うな」
三語でした。今日はもう、使い切られたようです。
小屋へ戻ろうとしたところで、道の向こうが明るいのに気づきました。
灯りです。ひとつ、ふたつではありません。
村の方角から、こちらへ、数えきれないほどの灯りが下りてきていました。
お読みいただきありがとうございます。
この人の口数の少なさは、格好つけではなく、八年ぶんの言えなかったことでできています。第2話からずっと三語で喋ってきた男に、今回だけは長く喋ってもらいました。次からはまた三語に戻ります。たぶん本人がいちばん、そうしたがっています。
次回、村が動きます。そして預かり屋でいちばん獣が怖い少年が、自分から手を伸ばします。




