第20話 十年分の頁が、樽の数を指しました
朝から机の上が帳面だらけになりました。
革表紙の一冊は、わたくしの十年分です。日付と、その日どの仔がどんな匂いをさせたか。それだけしか書いていない走り書きの束で、父には「そんな汚いものを持ち歩くな」と言われ続けたものです。
いまはこれしかありません。
「預かり屋さん。あんた昨日から同じ頁ばっかり見てるね」
マルタ様が戸口に寄りかかって、林檎を齧っていらっしゃいました。
「三度あるんです」
「なにが」
「同じ行を書いた日が、この領へ来てから三度だけ」
わたくしは帳面を横へ滑らせました。
管理局から送られてきた個体。村を襲いかけた個体。それから、侯爵家からお預かりしている飛行種の使い魔。
三つとも、同じ言葉で書いてあります。
――甘い。焦がした蜜のような。底に金気。
「毛の外側です」
「は?」
「三度とも、この匂いは毛の外側についていました。口の中でも、腹の底でもなく」
マルタ様の林檎が途中で止まりました。
「……食わせたんじゃない、ってことかい」
「撒いたか、置いたかです。寝藁か、水場のふちか。とにかく身の回りに」
「そりゃ、餌より簡単だ」
「簡単ですし、痕が残りません。獣は毛づくろいをしますので、二日も経てば匂いは落ちます」
だから誰も気づきません。書き留めている者がいなければ。
ティムが桶を提げたまま、戸口で首を傾げました。
「じゃあ、粉ですか。それとも水に混ぜて……」
「香だと思います」
「香?」
「粉は舞います。水は運ぶのに嵩が要ります。撒けて、拭き取らずに済んで、しかも人が持ち歩いていても、誰も怪しまないもの」
わたくしは指を三本折りました。
「この領で、その三つ全部に当てはまるものが一つだけあります」
ティムとマルタ様が、同時にご自分の胸元を見ました。
討伐のとき、全員が首から下げているあの小袋です。
「関所の荷改めの帳面を、見せていただけませんか」
そう申し上げると、マルタ様は林檎の芯を窓の外へ放りました。
「あんた、辺境伯の副官に何をさせる気だい」
「……差し出がましいことを申しました」
「褒めてるんだよ」
マルタ様は壁から外套を取られました。
「関所はうちの管轄でね。局長の許しなんぞ要らない。……あの男、そこだけは詰めが甘かったよ」
夕方までに、この半年ぶんの荷改めの控えが二束、机に載りました。
辺境の関所は二つあります。東街道は王都へ。南街道は――
「南の先は、アーレンス侯爵領だよ」
マルタ様が、わたくしの見ている行を指でつつかれました。
わたくしは何も申しませんでした。ただ日付を並べただけです。
管理局宛の荷。月に一度。品目は「魔除けの香・補充」。
毎月ひとつ。ずっとひとつです。
ただし、三つの月だけふたつ入っていました。
その三つの月は、わたくしの帳面に甘い匂いを書いた三つの月と、そっくり同じでした。
「……あんた」
マルタ様の声が低くなりました。
「これ、偶然だと思うかい」
「わたくしには、分かりません」
「分からないって顔じゃないよ」
「荷改めの帳面には、鼻がついておりませんので」
マルタ様が、ふっと笑われました。
「あんたの帳面にはついてる、ってことか」
「帳面は、嘘をつけません」
わたくしは頁を閉じました。
「書いた者が忘れても、書いたことは残ります。十年、意味もなく書き続けていたのは、たぶん、そのためだったのだと思います」
ティムが、桶を置いて訊きました。
「でも、なんでそんなことするんですか。獣を狂わせたって、誰も得しないでしょう」
わたくしは答えを持っていませんでした。答えられるほど、人のことを知りません。
「……ティム」
マルタ様がめずらしく言いにくそうな声を出されました。
「狂った獣を鎮めた人間はね、書類の上では手柄になるんだよ」
「え」
「危険個体を何頭処理したか、って数でね。数は、上に出せる。獣の名前は出せないけど」
ティムはしばらく黙って、それから、小さな声で言いました。
「……じゃあ、あの子たちは数を増やすために」
わたくしは、その先を言わせませんでした。言葉にしてしまうと、この子が今日から人を疑うようになる気がしたからです。
代わりに、蓋のない樽を指差しました。
関所からは、空の樽もひとつ届いていました。
先月の荷の中身が尽きたほうです。マルタ様が「捨てる前でよかったね」と肩に担いできてくださいました。
わたくしは蓋を外して、顔を寄せました。
いちばん上に、青い匂いがあります。草を潰したような、鼻の奥を刺すあれです。魔除けの香。討伐隊の方々が首から下げているのと同じもの。
その下に、もう一層ありました。
甘い。焦がした蜜のような。底に金気。
同じ樽です。同じ荷で、同じ日に、同じ関所を通っています。
顔を上げると、視界の端が白くなりました。耳の奥で細い音が鳴ります。わたくしは樽の縁を掴んで、息をゆっくり吐きました。
「おい」
「……大丈夫です。少し、取りすぎただけで」
戸口に、黒い外套が立っていました。いつからいらしたのかは分かりません。この方はいつも足音がしないのです。
レオンハルト様は樽を見て、それから帳面を見られました。
「南か」
「はい」
「……根拠は」
「匂いだけです。証文にはなりません」
その方は、しばらく黙っておられました。
「十年分あるのか」
「十年分あります」
「なら、証文より長い」
三語より多く喋られたのは、今日はこれきりでした。
日が落ちて、小屋の屋根の上で影が動きました。
ノクスです。この頃はもう、暗くなると必ずあそこにいます。降りてはきません。柵の外か、屋根の上か、いつも届かない場所ばかり選ぶ仔です。
ティムが薪を抱えて戻ってきて、それから外を見て足を止めました。
「姉さん」
「はい」
「……人が来ます。灯りが、二つ」
馬ではありませんでした。歩いてきた二人が門の手前で止まって、片方が筒を差し出します。管理局の徽章がついていました。
「魔獣管理局長ボルグ・ハイデンの名において通達する。当該預かり所より出された登録の申請は、これを不可とする。よって当該個体はすべて未登録であり、危険個体とみなす」
読み上げる声が夜の冷たさによく合っていました。
「三日のうちに閉鎖し、預かり中の個体を全頭、管理局へ引き渡すこと」
ティムが息を吸う音がしました。
わたくしは筒を受け取って、書いてある文字をもう一度だけ確かめました。
この命令書には、獣の名前が、ただの一頭ぶんも書いてありません。
お読みいただきありがとうございます。
第1話で「いちばん地味な小道具」と申し上げた革表紙の帳面が、ようやく武器になりました。十年間、誰にも読まれず、汚いから捨てろと言われ続けた走り書きです。地味なものほど、貯めた年数がそのまま強さになるのだと思います。
次回、閉鎖命令の夜。あの無愛想な辺境伯が、初めて自分から昔話を始めます。八年前、斬れなかった一頭の話です。




