第19話 七年前の、王都の厩舎から
その夜、ルクスは一睡もしませんでした。
止まり木に替えても、藁を厚くしても、灯りを落としても駄目でした。夜通し翼を鳴らして、板を蹴って、また止まって、また翼を鳴らす。
明け方にティムが目を擦りながらやってきて、それから戸口で足を止めました。
「姉さん。ノクスが、屋根から降りてる」
厩の戸口から五歩ほど外に、黒いものが伏せていました。
そして厩の中では、ルクスが止まり木の上で羽根を寝かせて、目を閉じています。夜のあいだ、一度もそうしなかった姿勢でした。
「餌は食べました。昨夜、少しだけ」
わたくしは指を折りました。
「寝床も替えました。籠から出して止まり木にしています。人も離しました。ティム、あなたは夜のあいだ壁の外にいましたね」
「うん。姉さんに言われたから」
「では、残っているのはひとつだけです」
「なに」
「ほかの獣です」
試すのは簡単でした。ノクスが立ち上がって柵の向こうへ歩いていくと、ルクスは十を数えるうちに翼を鳴らしはじめます。ノクスが戻って伏せると、止まります。
三度やって、三度とも同じでした。
わたくしはノクスの隣に膝をつきました。
この仔は、触れても逃げません。逃げませんけれど、寄ってもきません。いつも、この距離です。厩の戸口から五歩。屋根の上。柵の外。手を伸ばして届かない場所を、この仔は必ず選びます。
朝日が横から当たって、首の毛が透けました。
毛の下に、細い筋があります。
「ティム。灯りを持ってきてくださいますか」
「まだ朝だよ」
「近くで見たいのです」
毛を分けました。首の左右に、毛の生えていない筋が一本ずつ。左右で同じ高さ、同じ幅。喉の下でつながって、輪になっています。
枝や岩でできる傷は、こうはなりません。左右対称にはならないのです。
革の帯の痕です。
しかも一本ではありませんでした。輪の少し上に、細い輪がもう一本。そのまた上に、もう一本。
「……三本ある」
「なにが」
「首輪の痕です。太くしていった痕」
仔のうちに着けられて、大きくなるたびに広げられた。少なくとも三度、付け替えられています。
野で生まれて野で育った仔には、つかない痕でした。
小屋へ戻って、帳面を出しました。
十年分の、匂いの記録です。日付と、個体と、その日の匂いだけが書いてあります。父に汚いものを持ち歩くなと言われ続けた、あの一冊です。
頁を遡ります。三年前。五年前。
七年前の四の月のところで、指が止まりました。
声に出して読みました。
『黒狼種。仔。雄。名なし。西方より献上。
柵から三歩の位置で止まる。近づくと止まるのではない。初めから三歩で止まる。
餌を置くと、こちらが離れてから食べる。
匂い――濡れた毛。乾いた草。恐れは薄い。人を嫌ってはいない。
上顎左、乳の牙が抜けきらぬまま次が斜めに出ている。このままではいずれ折れる。』
戸口の外に、黒いものが伏せています。
上顎の左の牙は、途中で折れています。
柵の外で、マルタ様が咳払いをしました。いつからいらしたのか分かりません。隣に、レオンハルト様も立っています。
「……預かり屋さん。今、なんて読んだ」
わたくしは帳面を開いたまま、しばらく答えられませんでした。
「十年前、わたくしは八つで王家の厩舎に入りました」
最初の三年は、藁を替えるだけでした。誰も仕事を教えてくれませんでしたし、訊いても答えは返ってきません。伯爵家の娘が厩に入り浸っているというだけで、屋敷では十分に厄介事でした。
七年前の春に、西の方から献上の仔が届きました。黒狼種の仔です。騎獣に仕込むという触れ込みでしたが、誰も触れませんでした。厩番も、調教師も、近づくと三歩で止まられて、それきりだと言って匙を投げたのです。
押しつけられたのが、わたくしです。
「誰も触れないものは、名前の無い娘に回ってきますので」
その仔は、わたくしの前でも三歩で止まりました。ですので、こちらから縮めるのをやめました。三歩の外に餌を置いて、離れて、食べ終わるまで背を向けて待つ。それを毎日やりました。
半年ほどして、その仔は三歩のところで伏せて眠るようになりました。それだけです。それ以上は、最後まで近づいてきませんでした。
次の年の頁に、その仔の記述はありません。
『移送』
最後に、その一行だけが、書いてあります。
「……ルクスのことです」
わたくしは帳面を閉じました。
「あの仔が夜に騒ぐのは、餌でも寝床でもありません。ひとりで置かれるのが怖いのです。籠の中でずっとそうしてきたのだと思います」
「それが、なんで屋根の上の坊やと繋がるんだい」
「七年前、あの仔に餌を食べさせるのに、わたくしは年寄りの騎獣を一頭、戸口の外に伏せさせておりました。人がいると食べませんでしたので。獣がいると、食べたのです」
戸口の外。五歩。
ノクスは今朝から、そこにいます。
「覚えていることを、しているだけなのだと思います」
「……あんた、本気で言ってるのかい」
「はい」
「七年も前の話を、あの子が覚えてるって」
「獣は忘れません」わたくしは屋根ではなく、戸口の外を見ました。「忘れられるのは、人のほうです」
王家の厩舎の記録に、わたくしの名は一行もありません。
隠したのではなく、書く欄がなかったのです。十年、誰かの名前で回っていました。餌の順も、藁を替える日も、どの仔がどの季節にどんな匂いをさせるかも、どこにも残っておりません。
残っているのは、この一冊だけです。
「この仔は」
声が掠れたので、一度言い直しました。
「この仔は、わたくしが最初に世話をした仔でした」
ノクスは伏せたまま、こちらを見ませんでした。尾の先が、藁を一度だけ払いました。
ティムが袖で顔を擦っています。マルタ様は槍を地面に立てて、しばらく空を見ていらっしゃいました。
レオンハルト様が柵の内側へ入ってきて、ノクスの手前で止まりました。
「……七年、探していたのか」
「いいえ。探しておりません」
「そうか」
「探していたら、たぶん見つかりませんでした」
三歩の外に立っていた仔です。追いかければ、四歩めに下がる仔です。
「西方より献上、ねえ」マルタ様が鼻を鳴らしました。「王都に献上された仔が、なんで辺境の谷を走ってたんだろうね」
「分かりません」
「調べる気は」
「あります」
帳面を仕舞おうとして、指が止まりました。
七年前の四の月。その頁の右下の隅に、もうひとつ書いてあります。献上の仔とは関わりのない、たった一行です。
『この日、厩舎に甘い匂い。焦がした蜜。底に金気。出どころ不明。』
わたくしは頁を繰りました。次の月にも、同じ記述があります。その次の月にはありません。その三月あとに、また。
「……姉さん?」
「ティム。灯りを、もうひとつ」
もう朝ですけれど、頁の隅の字は細いのです。
この帳面は、十年分あります。日付が、全部入っています。どの月に、どこで、あの甘い匂いがしたか。書いてあるのはそれだけです。
それだけあれば、たぶん足ります。
「マルタ様。明日、街へお供をお願いできますか」
「いいけど。どこへ」
「管理局へ。局長様の帳面を、もう一度だけ拝見したいのです」
お読みいただきありがとうございます。
第1話でエルナが荷物にした「匂いの記録帳」を覚えていらっしゃるでしょうか。父親に汚いものだと言われ、王都の誰にも読まれなかった走り書きの束です。あれが今回、七年ぶんの頁を跨いで一頭の獣に届きました。
ノクスが三歩の外で止まる仔だったこと、そしてエルナが三歩の外から待つ人だったこと。二人の距離の取り方は、出会ったときにはもう決まっていたのだと思います。
さて、ここまでお読みくださった方へ。この預かり屋は看板に「見るだけなら無料」と書いてあります。ブックマークも、評価も、同じく無料です。次にどの仔が門をくぐるか気になった方は、どうぞ栞を一枚挟んでいってください。
次回、帳面が武器になります。十年分の日付と、管理局の帳面の数字。並べると、片方が嘘をついているのが分かります。




