第18話 侯爵家の小さな使い魔
朝から、ノクスが屋根にいませんでした。
厩の裏にも、柵の外にも、街道の見える丘にもいません。ティムが二度も見に行って、二度とも首を振って戻ってきました。
かわりに、柵の外にレオンハルト様とマルタ様が立っていらっしゃいます。お呼びしておりません。夜明けから来て、そのまま動かずにいらっしゃいます。
「お茶をお淹れしましょうか」
「いい」
「閣下は昨日で年内ぶんの言葉を使い切ったからね」マルタ様が槍の石突きで地面を突きました。「あたしが喋る。あんたは獣を見てな」
黒漆の馬車が街道を上がってきたのは、昼前でした。
後ろに荷馬車が一台ついています。荷台には、布をかけた籠がひとつ。
先に降りたのは従者の方で、その次に、銀髪の男の方が降りました。
背が高く、痩せていて、外套に皺がひとつもありません。年の頃は五十を過ぎたあたり。わたくしは頭を下げながら、息を吸いました。
香りは重く、深く、そして澄んでいます。貴族の魔力の香りとしては、王都でも数えるほどしか嗅いだことのない濃さでした。
澄みすぎている、とも思いました。何も混じっていないのです。獣を飼っている人の匂いではありません。
「アーレンスだ」
名乗りはそれだけでした。
「エルナ・ウィスタリアと申します」
「知っている。厩番の娘だな」
わたくしの名は、そこで用済みになったようでした。
「あれを預かってもらう」
侯爵様が顎で荷馬車を示します。従者の方が布を取りました。
籠の中にいたのは、鳥のかたちをしたものでした。
隼に似ています。ただし隼より一回り大きく、頭の両脇に耳のような房がありました。羽根は銀に近い灰色で、光の当たり方で色が変わります。翼を広げれば、人の背丈ほどにはなるはずです。
その仔は、籠の底で丸くなっていました。
「飛行種の使い魔だ。三月ほど置く。餌はやらなくてよい。触れなくてよい。生かしておけばいい」
「……生かして」
「死なれると個体票を書き直すことになる。手間だ」
わたくしは籠に近づきました。
布をかけられたまま運ばれてきたので、籠の中はまだ暗いままです。銀灰の羽根のあいだが、ところどころ抜けていました。抜けたのではありません。自分で毟った痕です。
「この子のお名前を伺っても」
「名は無い」
「では、なんとお呼びに」
「個体票に番号が振ってある」
「では、三月のあいだ何を食べさせればよろしいでしょう」
「知らん」
「これまで何を与えていらしたか、従者の方はご存じですか」
従者の方が侯爵様の顔色を窺いました。侯爵様は前を向いたままです。
「……調餌の係が、おりましたので」
「その方のお名前を伺っても」
「係の名は、控えておりません」
柵の外でマルタ様が何か言いかけて、それをレオンハルト様が手で止めました。
わたくしは背筋を伸ばして、なるべく平らな声で申し上げました。
「侯爵様。ひとつだけ、よろしいでしょうか」
「言え」
「この子は、備品ではありません」
従者の方が息を呑みました。侯爵様は表情を変えずに、そこで初めてわたくしの顔をご覧になりました。
「では何だ」
「生きものです」
「同じことだ」侯爵様は籠を見ませんでした。「使えるものを、人は道具と呼ぶ。使えないものは、ただ生きているだけのものだ。……娘、お前はどちらだと言われて育った」
答えられませんでした。
「王太子の小僧は、お前を獣臭いと言ったそうだな」
「はい」
「あれは、見る目がない」
侯爵様はそれだけ仰って、馬車へ戻られました。従者の方が籠を柵の内側へ下ろします。扉が閉まる前に、もう一度だけ声がしました。
「三月後に取りに来る。それまで、生かしておけ」
馬車が街道を下りきってから、レオンハルト様が柵をひとつ叩きました。
「……何を言われた」
「褒められました」
「褒め言葉には聞こえなかったけどね」とマルタ様。
「わたくしにも、そう聞こえました」
いつのまにか、屋根の上に黒いものが戻っていました。街道の方角を向いて伏せています。朝からどこにいたのかは、この仔は言いません。
籠を厩の内へ運びました。
戸を開けても、その仔は出てきません。わたくしは籠の正面を避けて、横に座りました。獣の正面に立つのは、それだけで問いかけになります。答えられない相手に問い続けるのは、乱暴なことです。
膝の上に手を置いて、待ちました。
半刻ほどして、灰色の頭が籠の縁から出ました。それから片脚、もう片脚。床に降りて、翼を半分だけ開いて、また畳みます。飛べます。羽根は毟れていますけれど、骨は無事です。
「お名前がないそうですね」
その仔がこちらを向きました。目が丸く、金色です。
「屋根の上に夜がおりますので……あなたは、ルクスにしましょうか」
返事はありません。かわりに二歩だけ近づいてきて、わたくしの袖口を嘴で一度だけ引きました。引いただけです。噛みも、突きもしませんでした。
水を張った皿を置くと、ルクスは首を伸ばして飲みました。三日ぶんくらいの飲み方でした。
戸口からティムが顔を出します。
「姉さん、その子なんて名前になったの」
「ルクスです」
「ノクスと、ルクス」
「夜と、光ですので」
「……ややこしくない?」
「わたくしは気に入っております」
餌はまだです。餌の前に、匂いを取らなければなりません。
目を閉じます。
いちばん上は籠の木と、布の埃。その下に旅の匂い。街道の土と、馬の汗。さらに下に、この仔自身の匂い。羽根の油と、乾いた砂。
それから、その下に。
――甘い匂いがしました。
焦がした蜜のような甘さで、底に金気が沈んでいます。羽根の付け根、風切羽の生え際から立っていました。
わたくしはもう一度、息を吸いました。
間違えようがありません。
管理局から送りつけられてきた、あの仔から嗅いだのと同じ匂いです。三日のあいだ喉が潰れるまで吠え続けて、誰も近寄れなかった、あの仔から。
ルクスは翼を畳んだまま、わたくしの手のそばに座っています。羽根を毟った跡の下で、肌が薄く赤くなっていました。痒いのだと思います。あの匂いをつけられた仔は、みんな最初に自分を齧ります。
膝をついたまま、しばらく立てませんでした。
三月です。侯爵様は三月と仰いました。
三月のあいだ、わたくしはこの仔を、ただ生かしておくのでしょうか。
厩の戸口の外で、ノクスが立ち上がる音がしました。
振り向くと、その仔は街道のほうを向いていました。黒漆の馬車が下りていった、その方角を。
お読みいただきありがとうございます。
アーレンス侯爵は、獣にも人にも名前で呼びかけません。娘のことも、たぶん名前では呼んでいないと思います。この人が怖いのは声を荒げるからではなく、荒げる必要がないからです。
そして名前を付けるのは、この物語ではいつもエルナの側の仕事です。夜と、光。並べたのは本人の趣味であって、深い意味はないと言い張っております。
次回、ルクスが夜通し眠りません。原因は餌でも寝床でもなく、屋根の上にいるはずのあの仔でした。




