第九話 最適化の代償
第九話 最適化の代償
王都へ入った瞬間、セレフィナは眉を寄せた。
臭い。
湿った腐臭が街全体へ染みついている。
排水の淀み。腐敗した水。泥。油脂。人の生活が腐り始めた時に漂う、重たい臭気だった。
馬車の窓から見える街路は、以前とは別物だった。
石畳には濁った水が残り、店先には泥が積もり、かつて白く輝いていた壁は雨染みで黒ずんでいる。
人々の顔にも余裕がなかった。
「水が出ないぞ!」
「井戸へ並べ!」
「薬師を呼んでくれ、子どもが熱を——」
怒号と泣き声。
遠くでまた鐘が鳴った。
カイルは窓の外を見ながら低く言う。
「南区は疫病も出始めている」
セレフィナは静かに目を閉じた。
最悪だった。
地下水路の破綻は、単なる配管事故では終わらない。
衛生が崩れれば、人が死ぬ。
「……想定より早いですね」
「止められるか」
その問いに、セレフィナはすぐ答えられなかった。
止められる。
おそらく自分なら。
王都全体の流路を再設計し、魔力圧を分散し、破損箇所を補強すれば、崩壊は食い止められる。
だが。
その代償を、彼女自身が一番理解していた。
灰青館を出る前から、視界に違和感があった。
時折、光が滲む。
異能を長時間使ったあと、景色が白く霞む。
疲労だと思っていた。
認めたくなかった。
けれど——。
王都中央管理局。
そこはかつて、セレフィナが毎日立っていた場所だった。
だが今は酷い有様だった。
床には泥の跡。
積み上がる書類。
疲弊した文官たち。
湿った空気。
そして誰も、どう動けばいいかわからなくなっている。
カイルが扉を開けた瞬間、文官たちが一斉に顔を上げた。
「セレフィナ様……!」
その声には、安堵が滲んでいた。
まるで救いを見つけたような目。
その視線が、胸へ刺さる。
まただ。
また期待されている。
また“何とかしてくれる”と思われている。
老文官が震える声で言った。
「地下第三水路と第五水路が完全閉塞しています。北区は浸水、南区は逆流、中央区は給水停止です」
「魔導圧縮塔は?」
「二基停止、一基が暴走寸前で……」
「排水勾配は」
「崩壊しています」
矢継ぎ早の報告。
セレフィナの頭の中へ、王都全体の構造が広がっていく。
水路。
流量。
圧力。
崩落。
歪み。
情報量が一気に流れ込む。
「……っ」
視界が揺れた。
カイルが眉を寄せる。
「セレフィナ?」
「平気、です」
嘘だった。
頭痛が酷い。
目の奥が焼けるように熱い。
だが止まれない。
止まれば、街が壊れる。
セレフィナは机へ地図を広げた。
「東側水門を閉鎖してください。流量を第四水路へ分散します。北区は仮設排水を。地下第二圧縮塔の魔力弁を半分落として——」
言葉が止まらない。
身体は限界なのに、異能だけが動き続ける。
文官たちが一斉に走り出す。
その瞬間だった。
視界が白く弾けた。
「……え」
地図が見えない。
輪郭が滲む。
文字が溶ける。
セレフィナは瞬きを繰り返した。
だが白い靄は消えない。
「セレフィナ!」
カイルの声。
次の瞬間、膝が崩れた。
床が遠い。
呼吸が上手くできない。
耳鳴り。
吐き気。
異能が暴走している。
王都全体の情報が、無理やり脳へ流れ込み続けていた。
「止めろ!」
カイルの怒鳴り声が響く。
「異能を切れ!」
「……でき、ません……」
掠れた声だった。
「まだ……水路が……」
「そんなもの後だ!」
強い腕がセレフィナを支える。
その温度だけが、やけに鮮明だった。
「医師を呼べ!!」
誰かが走る音。
ざわめき。
遠くで鐘が鳴る。
セレフィナは霞む視界の中で、自分の手を見た。
ぼやけている。
指先の輪郭が曖昧だ。
「……見え、ない……」
その呟きに、室内が凍りついた。
医師が青ざめる。
「魔力酷使です……長年、脳と視神経へ負荷をかけ続けた影響かと」
「治るのか」
カイルの声は低かった。
医師は言葉を詰まらせる。
「……休養次第では。しかし、このまま異能を使い続ければ——」
失明。
その言葉を、誰も口にはしなかった。
セレフィナはぼんやり天井を見つめた。
不思議だった。
恐怖より先に、納得が来た。
ああ。
やっぱり代償はあったのだ、と。
王宮を。
王都を。
ずっと一人で支え続けた代償。
壊れていたのは、最初から自分だった。
「……ごめんなさい」
小さく呟く。
「私、もう少し……役に立てると……」
「喋るな」
カイルの声が落ちる。
セレフィナはゆっくり視線を向けた。
ぼやけていてもわかる。
彼が怒っている。
けれどそれは、責める怒りではなかった。
痛みに近い感情だった。
「何故、お前はいつもそうなんだ」
「……え……」
「国が壊れる前に、お前が壊れている」
静かな声だった。
その言葉に、セレフィナの胸が震える。
誰もそんなことを言わなかった。
今まで一度も。
「もう国より先に、自分を救え」
低く、はっきりとした声。
その瞬間。
張り詰めていたものが、胸の奥で静かに崩れた。
セレフィナは目を閉じる。
温かな手が、額へ触れる。
その手は不器用だった。
けれど、とても優しかった。
「……怖いんです」
気づけば言葉が零れていた。
「私が止まったら、全部壊れる気がして」
カイルはしばらく黙っていた。
やがて静かに言う。
「壊れたら、皆で直せばいい」
セレフィナは息を呑む。
「最初から、お前一人で背負う必要なんかなかった」
その言葉に、視界がまた滲んだ。
今度は痛みではない。
熱い涙だった。
窓の外では、雨が少し弱くなっていた。
遠くで濁流の音がする。
崩れかけた王都。
それでも。
額へ触れる温かな手だけが、今は確かだった。




