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第八話 水没する王宮

第八話 水没する王宮


 雨は三日間、止まなかった。


 空は鉛色に沈み、王都を覆う雲はまるで腐った綿のように重たく垂れ込めている。石畳を叩く豪雨は絶え間なく、街路を流れる水はすでに排水路では処理しきれなくなっていた。


 ごぼ、ごぼ、と。


 王都のあちこちで地下水路が悲鳴を上げている。


 汚泥の混じった水は噴水のように石畳の隙間から吹き上がり、悪臭を撒き散らしながら街を飲み込んでいった。


「早く土嚢を!」


「無理です、もう水位が——」


「下がらない!? どうして下がらないんだ!!」


 怒鳴り声。


 泣き声。


 鐘の音。


 王都は混乱の渦中にあった。


 そして、その中心にある白亜宮もまた、限界を迎えていた。


 地下第三水路。


 王宮の排水を支える最古の基幹構造。


 数百年前の石組みは、すでに内部から腐食していた。


 それを、セレフィナは毎夜“最適化”で支えていたのだ。


 歪みを修正し。


 圧力を分散し。


 水流を微調整し。


 崩壊寸前の均衡を、たった一人で維持していた。


 だが今、その楔は存在しない。


 地下深く。


 積み上げられた石壁が、ついに軋んだ。


 みし、と鈍い音。


 次の瞬間。


 轟音が王宮地下を揺るがした。


 崩落だった。


 濁流が一気に流れ込む。


 古い石壁を砕き、地下倉庫を飲み込み、腐敗した下水と泥を巻き上げながら暴走する。


「崩れたぞおおお!!」


「地下が水没する!!」


 悲鳴が響く。


 使用人たちは荷物を放り出し、階段を駆け上がった。


 濁流は速かった。


 黒い水が地下廊下を呑み込み、家具を押し流し、積み上げられた食糧庫を破壊していく。


 腐った臭いが広がった。


 鼻の奥へまとわりつく、濃密な腐臭。


 長年溜まり続けた汚泥と油脂と排泄物が、地下水と混ざり合い、一気に噴き上がってきているのだ。


 白亜宮一階。


 絢爛な大広間では、貴族たちが混乱していた。


「な、何なのこの臭い!」


「窓を開けろ!」


「開けても意味ありません! 外も同じです!」


 香水を振り撒いても、もう誤魔化せない。


 薔薇の香り。


 麝香。


 高級香油。


 それら全てが、腐臭と混ざり合って地獄のような匂いへ変わっていた。


 そして。


 床の排水口から、黒い水が溢れ始める。


「きゃあああっ!!」


 貴婦人が悲鳴を上げた。


 汚水は絨毯を濡らし、白い大理石を汚し、豪奢なドレスの裾を染めていく。


「う、うそ……」


「王宮が……」


 誰も現実を受け止められない。


 白亜宮は完璧だった。


 美しかった。


 永遠だと思っていた。


 だが今、その美は腐臭の中で崩れ落ちている。


 ルシアンは中央階段の上で、その光景を見ていた。


 呆然と。


 足元まで迫る汚水。


 逃げ惑う使用人。


 責任を押し付け合う貴族たち。


 湿気で曇ったシャンデリア。


 腐臭。


 怒号。


「殿下!!」


 文官が駆け込んでくる。


「地下完全水没です! 東棟も危険です!」


「……何故だ」


 ルシアンの声は掠れていた。


「どうしてこうなった……」


 老文官が、静かに答える。


「限界だったのです」


「……」


「セレフィナ様が、ずっと支えておられた」


 その瞬間。


 ルシアンの脳裏へ、ある光景が蘇った。


 夜会のあと。


 深夜の回廊。


 誰もいない地下通路を、セレフィナが一人で歩いていた。


 書類を抱え。


 疲れた顔で。


 それでも立ち止まらず。


 自分はその時、声をかけなかった。


 興味がなかったからだ。


 彼女はいつも完璧だった。


 だから壊れないと思っていた。


 だが違った。


 彼女は、壊れながら支えていたのだ。


「……あ……」


 ルシアンの喉から、掠れた音が漏れる。


 その時。


 どん、と地面が揺れた。


 天井の一部が崩れ落ちる。


 悲鳴。


 濁流。


 黒い水飛沫。


 ルシアンは咄嗟に手すりへ掴まった。


 汚水が階段を流れ落ちていく。


 臭い。


 酷い臭いだった。


 目に染みる。


 吐き気がする。


 これが。


 今まで王宮の地下を流れていた現実。


 セレフィナは毎日、この汚泥と向き合っていたのだ。


 誰にも知られず。


 誰にも褒められず。


 ただ王宮を“美しく見せるため”に。


 ルシアンはゆっくりと周囲を見渡した。


 白い壁。


 金箔。


 大理石。


 煌びやかな装飾。


 その全てが今、泥に汚れている。


 そしてようやく理解した。


 自分が愛していた王宮の美しさは、セレフィナが支えていた幻想だったのだと。


 彼女が消えれば、この宮殿はただの老朽化した巨大な箱に過ぎない。


「……セレフィナ……」


 初めて名前を呼んだ声は、驚くほど弱かった。


 その頃。


 灰青館では暖炉の火が静かに燃えていた。


 窓の外では同じ豪雨が降っている。


 だが館の中は静かだった。


 排水は安定している。


 雨水路も正常。


 暖かな空気。


 乾いた木の香り。


 セレフィナは窓辺に立ち、遠い空を見ていた。


 王都の方角が赤く滲んでいる。


 鐘の音が風に乗って届く。


 異能が遠くの崩壊を拾っていた。


 地下水路。


 崩落。


 浸水。


 連鎖破壊。


 もう止まらない。


 セレフィナは静かに目を閉じた。


 胸が痛まないわけではない。


 長年、自分が守ってきた場所だった。


 けれど。


 あの王宮は最初から間違っていた。


 誰か一人が壊れ続けなければ維持できない美しさなど、本当は存在してはいけないのだ。


「……セレフィナ」


 背後からカイルの声がする。


 振り返ると、彼は温かな茶を持って立っていた。


「冷えるぞ」


「ありがとうございます」


 茶器を受け取る。


 温かい。


 ミントの香りがした。


 窓の外では豪雨が続いている。


 だが灰青館の排水路は、静かな音を立てながら水を流していた。


 まるで、この館だけが穏やかに呼吸しているようだった。



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