第七話 崩れる音
第七話 崩れる音
最初に異臭が広がったのは、王都南区だった。
「……なんだ、この臭い」
露店商の男が顔をしかめる。
朝の市場には、いつもなら焼き立てのパンと果物の甘い香りが漂っているはずだった。だがその日は違った。
鼻の奥へまとわりつくような腐臭。
湿った泥と腐敗の混じった臭い。
誰かが悲鳴を上げる。
「み、水がっ!」
石畳の隙間から、黒ずんだ水が噴き出していた。
ごぼ、ごぼ、と嫌な音を立てながら、濁流が街路へ溢れ出す。汚泥の混じった水はみるみる広がり、露店の商品を飲み込み、通行人の靴を汚していく。
「下水路が逆流してるぞ!」
「逃げろ!!」
怒号が飛び交う。
悪臭が風に乗って広がっていく。
地下水路の破裂だった。
王都地下を巡る古い配管網は、すでに限界を超えていたのだ。
王宮。
白亜宮では、さらに酷い混乱が起きていた。
「西棟の配管が破裂しました!」
「地下倉庫も浸水です!」
「厨房排水が逆流しています!」
使用人たちが廊下を駆け回る。
だが誰も指示を出せない。
以前ならセレフィナがいた。
どこへ人員を回し、どの水路を止め、どこを優先修繕すべきか、一瞬で判断していた。
だが今、その中心が消えている。
湿った空気。
壁紙の裏で広がる黒黴。
床下から響く水音。
王宮そのものが軋み始めていた。
「早く何とかしなさいよ!」
ミレイユが怒鳴る。
だが彼女の部屋の床にも、すでに汚水が染み込み始めていた。
「ひっ……!」
侍女が声を上げる。
絨毯の端から黒い水がじわじわ広がっている。
腐臭。
鼻を刺すような下水の臭い。
ミレイユは顔を引き攣らせた。
「な、なによこれ……!」
「地下配管が……限界で……」
「だから直しなさいって言ってるでしょう!?」
「む、無理です!」
侍女は泣きそうな顔で叫んだ。
「修繕局の職人たちも足りません! 王都全域で破裂が起きてるんです!」
その瞬間。
どこか遠くで轟音が響いた。
どん、と地面が揺れる。
天井のシャンデリアが大きく揺れ、女官たちが悲鳴を上げた。
「地下第二水路が崩落しました!!」
兵士が飛び込んでくる。
「南区一帯が浸水しています!」
「っ……!」
ミレイユの顔から血の気が引いた。
一方、王太子執務室。
ルシアンは蒼白な顔で報告書を睨んでいた。
「……何故だ」
掠れた声だった。
「何故ここまで一気に壊れる」
老文官が疲れ切った顔で答える。
「セレフィナ様が毎日行っていた魔力調整が止まったからです」
「そんなもの、たった一人で——」
「たった一人だったからです」
静かな声だった。
「王宮も、王都水路も、限界を超えた構造を無理やり維持していたのです」
ルシアンは言葉を失う。
机の上には、未処理の書類が山積みだった。
修繕申請。
被害報告。
死亡届。
その全てへ、以前はセレフィナが先回りして対処していた。
自分はただ署名するだけだった。
「……あり得ない」
呟きは、もはや自分自身への言い訳だった。
その時。
執務室の外で怒鳴り声が響いた。
「もう無理だ!」
「逃げろ!」
使用人たちだった。
荷物を抱え、次々と王宮から出ていく。
「待て!!」
ルシアンが怒鳴る。
「どこへ行く!」
老執事が振り返った。
その目は、もう以前のような忠誠を宿していない。
「……申し訳ございません殿下」
疲れ切った声だった。
「この宮殿は、もう持ちません」
「貴様……!」
「セレフィナ様がおられたから、我々は働けていたのです」
そう言い残し、執事は去っていく。
次々と。
誰も振り返らない。
白亜宮は、静かに見捨てられ始めていた。
そして貴族たちは。
「これは王太子殿下の責任だ!」
「いや、聖女を重用した神殿側の問題では!?」
「修繕費は誰が負担するのです!」
怒号。
責任転嫁。
香水と悪臭の混じる空気の中で、誰もが他人を責めていた。
その頃。
灰青館の庭には、穏やかな午後の日差しが降っていた。
雨上がりの土は柔らかく、ハーブ畑からは青々とした香りが漂っている。
セレフィナは籠を片手に、静かにミントを摘んでいた。
指先で葉を触れる。
柔らかな感触。
少し擦れば、爽やかな香りが広がる。
風が心地よかった。
遠くで水が流れる音がする。
修復した水路は今日も滑らかだ。
「……今年は育ちがいいな」
小さく呟く。
以前の自分なら、こんな時間を過ごすことはなかった。
常に誰かに追われていた。
常に壊れる音へ怯えていた。
だが今は違う。
静かだ。
あまりにも静かで、ときどき不安になるほどに。
その時。
遠くから、鐘の音が響いた。
ゴオォン——。
重く、長い音。
セレフィナの手が止まる。
王都の警鐘だった。
火災。
崩落。
大規模災害。
ただ事ではない時だけ鳴る鐘。
風に乗って、微かに騒ぎ声まで聞こえてくる気がした。
セレフィナは遠い空を見つめる。
王都の方角。
灰色の雲が重く垂れ込めていた。
異能が、遠い水脈の悲鳴を拾う。
破裂。
逆流。
崩壊。
王都全域の配管網が、連鎖的に壊れ始めている。
セレフィナは静かに目を伏せた。
止めようと思えば、止められるかもしれない。
自分なら。
だが。
「……もう、私一人では支えられない」
その声は風へ溶けた。
王宮は、ずっと限界だった。
自分が無理やり繋ぎ止めていただけ。
崩れるべきものが、ようやく崩れ始めたのだ。
その時、背後から声がした。
「また無理な顔をしてるな」
振り返ると、カイルが立っていた。
手には薪を抱えている。
「鐘が聞こえたか」
「ええ」
「王都は酷いらしい」
セレフィナは小さく頷く。
カイルはしばらく彼女を見つめていたが、やがて静かに言った。
「……行きたいか」
その問いに、セレフィナは答えなかった。
ただ風が吹く。
ミントの香りが揺れる。
遠くでは今も、王都崩壊の鐘が鳴り続けていた。




