第六話 聖女の終わり
第六話 聖女の終わり
白亜宮の空気は、もう以前とは別物だった。
湿っている。
廊下には微かに下水の臭気が漂い、豪奢な絨毯はどこか湿気を含んで重たく沈んでいた。香を焚いても隠しきれない腐臭が、壁の奥からじわじわ滲み出している。
使用人たちは皆、青い顔をしていた。
誰もが疲れ切っている。
そして今朝、ついに騎士団宿舎で悲鳴が上がった。
「うああああっ!!」
男が床へ転がり落ちる。
全身を押さえ、苦悶に顔を歪めていた。
「痛い……っ! 腕が、焼けるみたいに……!」
「隊長!?」
周囲の騎士たちが駆け寄る。
男は数ヶ月前、魔獣討伐で肩を深く裂かれていた。だが聖女ミレイユの“奇跡”で完治したはずだったのだ。
それが今、突然傷口が裂けた。
皮膚の下で黒ずんだ炎症が広がり、膿んだ熱が肌を赤く染めている。
「治癒じゃ、なかったのか……?」
騎士の一人が震えた声で呟く。
同じ頃。
別棟でも。
訓練場でも。
次々に“治療済み”だった騎士たちが倒れ始めていた。
王宮医師は青ざめながら叫ぶ。
「これは麻痺です! 痛覚を一時的に遮断していただけだ!」
「なっ……」
「根本治療などされていない! 傷は内部で悪化していたんです!」
その言葉は、瞬く間に王宮中へ広がった。
聖女の奇跡は偽物。
その事実は、静かに、だが確実に人々の顔色を変えていく。
一方、ミレイユの部屋では陶器が割れる音が響いていた。
「なんでよ!!」
花瓶が壁へ叩きつけられる。
侍女たちは震えながら頭を下げた。
「申し訳ございません聖女様……!」
「うるさい! 全部あいつらが悪いのよ!」
ミレイユの顔は引き攣っていた。
机には請求書が山積みになっている。
高級香油。
宝石。
新しいドレス。
輸入化粧品。
湯浴み用の香草。
その金額は、もはや看過できるものではなかった。
「……国庫金の不正流用まで出てきました」
文官が青白い顔で告げる。
「管理印が偽造されています」
「知らないわよそんなの!」
ミレイユは叫んだ。
「ルシアン様がいいって言ったの!」
だが、その叫び声は以前ほど力を持たなかった。
侍女たちの目が変わっている。
憐れみ。
軽蔑。
疑念。
もう誰も“聖女”を信じていない。
その頃、王太子執務室ではルシアンが机を叩きつけていた。
「……あり得ない」
低い声だった。
机の上には報告書が散乱している。
浴場崩落。
騎士団負傷。
食糧不足。
配管破裂。
国庫不正。
どれもこれも最悪だった。
「何故こうなる!?」
文官が震える声で答える。
「王宮管理機能が、完全に麻痺しております……」
「たかが一人抜けただけだろうが!」
怒鳴った瞬間。
老文官が耐え切れず顔を上げた。
「その“たった一人”が、王宮そのものを維持していたのです!」
室内が凍りついた。
ルシアンの顔色が変わる。
「……何だと」
「セレフィナ様は毎日、地下配管の魔力調整を行っていました。食糧管理も、監査も、備蓄も……全てです」
「馬鹿な」
「我々は……あの方に頼り切っていたのです」
静寂が落ちた。
湿った空気。
遠くで水滴が落ちる音。
ルシアンは拳を握り締める。
認めたくなかった。
だが頭のどこかでは理解している。
セレフィナが消えてから、王宮は崩れ始めた。
ならば答えは一つしかない。
「……呼び戻せ」
「殿下?」
「セレフィナを戻すんだ」
数日後。
灰青館の庭には、柔らかな春風が吹いていた。
修復された水路には透明な水が流れ、窓辺では乾燥ミントが揺れている。
セレフィナは庭先で工具を磨いていた。
そこへ馬車の音が響く。
重々しい王家の紋章。
その瞬間、空気が冷えた気がした。
馬車から降りてきたのはルシアンだった。
以前より痩せている。
だが目だけは、苛立ちで鋭く光っていた。
「久しぶりだな、セレフィナ」
セレフィナは立ち上がる。
「……ご用件は」
「中へ入れろ」
「ここは王宮ではありません」
ぴくり、とルシアンの眉が動いた。
だが彼は強引に館へ入ってくる。
玄関へ踏み込んだ瞬間、彼はわずかに目を見開いた。
空気が違う。
静かで、澄んでいる。
湿気も臭気もない。
壁には白い漆喰が塗られ、窓からは柔らかな光が差していた。
王宮より遥かに質素なのに、息がしやすい。
「……随分好き勝手やっているな」
「最低限、住めるようにしただけです」
セレフィナの声は静かだった。
ルシアンは苛立ったように言う。
「王宮が混乱している」
「存じません」
「騎士団も倒れた。浴場も崩れた。予算もめちゃくちゃだ!」
「でしょうね」
あまりにも淡々とした返答だった。
ルシアンの顔が歪む。
「お前なら直せるだろう」
セレフィナは黙っていた。
「戻れ」
命令口調だった。
「……嫌です」
「何?」
「私はもう、王宮へ戻る気はありません」
沈黙。
次の瞬間、ルシアンが怒鳴った。
「お前は国を見捨てるのか!」
館へ怒声が響く。
窓硝子が微かに震えた。
だがセレフィナは動かなかった。
静かにルシアンを見る。
その瞳には、もう怯えも未練もなかった。
「先に私を見捨てたのは、貴方でしょう」
ルシアンが息を呑む。
「婚約破棄したことを言っているのか!?」
「違います」
セレフィナは小さく首を振った。
「私はずっと、壊れないように王宮を支えていました」
静かな声だった。
「眠らず、休まず、誰にも言わずに」
ルシアンの表情が強張る。
「でも貴方は、一度も見ようとしなかった」
風が吹き抜ける。
庭のミントが揺れる。
「必要なのは成果だけでした。私が壊れることには、興味もなかった」
「そんなことは——」
「ありました」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「だから私はもう戻りません」
沈黙。
遠くで水音がする。
修復された水路を流れる静かな音。
ルシアンは唇を噛み締めた。
初めてだった。
セレフィナが、自分の命令を拒絶したのは。
そしてその瞬間、彼は理解した。
彼女はもう、自分のものではない。
ルシアンは荒々しく踵を返した。
「……後悔するなよ」
その言葉だけを残し、館を出ていく。
馬車の音が遠ざかる。
静寂が戻った。
セレフィナは小さく息を吐く。
胸が痛まないわけではない。
長年、隣にいた人だった。
けれど。
もう戻れない。
戻ってはいけない。
その時、背後から低い声がした。
「よく言った」
振り返ると、カイルが廊下に立っていた。
どうやら最初から聞いていたらしい。
セレフィナは苦笑する。
「聞いていたんですか」
「ああ」
「……失礼なところを」
「いや」
カイルは静かに言った。
「やっと、お前が自分を守った」




