第五話 完璧な浴室
第五話 完璧な浴室
灰青館へ春の雨が降っていた。
細かな雨粒が古い石壁を濡らし、庭の若草からは青い香りが立ちのぼる。軒先から落ちる雫は、修復された排水路へ静かに吸い込まれ、さらさらと澄んだ音を立てて流れていった。
セレフィナは浴室の床へ膝をつき、最後の一枚となる白磁タイルを慎重にはめ込んでいた。
指先へ、ひやりと滑らかな感触が伝わる。
「……位置、〇・三ミリ修正」
小さく呟き、魔力を流す。
淡い銀光が走り、タイルは音もなくぴたりと収まった。
その瞬間だった。
床下の配管を流れる水が、すう、と美しい音を立てる。
抵抗がない。
淀みもない。
完璧な勾配だった。
セレフィナはゆっくり息を吐いた。
浴室には、柔らかなミントの香りが漂っている。
窓辺へ吊るした乾燥ハーブが、雨上がりの湿気を吸って静かに香っていた。
漆喰壁は白く、余分な湿気を含まず、空気は驚くほど軽い。磨き上げた蛇口には曇り一つなく、淡い灯りが銀色に反射している。
王宮のような豪奢さはない。
だがここには、必要なものだけがあった。
静かで、清潔で、呼吸のしやすい空間。
それがセレフィナの理想だった。
「完成、か」
背後から声がした。
振り返ると、カイルが扉にもたれて立っていた。今日は作業着姿で、腕まくりした手には木屑がついている。
「北側の床板、張り替えておいた」
「ありがとうございます」
カイルは浴室を見回し、小さく目を細めた。
「空気が違うな」
「漆喰が湿度を吸っています。それと換気経路を整理しました」
「……落ち着く」
その言葉に、セレフィナは少しだけ笑った。
「王宮の浴室とは正反対です」
「あそこは香料が強すぎる」
「ええ。油分も多すぎます」
セレフィナは思わず天井を見上げた。
王宮の大浴場。
毎晩流し込まれる大量の香油。
蓄積する油脂。
無理な水圧。
老朽化した配管。
今どうなっているのか、考えないようにしていた。
だが異能は時折、勝手に遠い流れを拾う。
王都地下水路。
圧力異常。
歪み。
ひび割れ。
セレフィナはそっと目を伏せた。
「……また考えてるな」
カイルが言った。
「顔に出ていますか」
「少し」
彼は浴槽の縁を軽く叩く。
「今はこっちを見ろ」
その声は静かだった。
命令ではなく、ただ現実へ引き戻すような声。
セレフィナは視線を浴室へ戻した。
白いタイル。
柔らかな灯り。
静かな空気。
ここは王宮ではない。
誰も怒鳴らない。
誰も急かさない。
「……湯を入れてみます」
蛇口へ手を触れる。
魔導給湯器が淡く光り、やがて配管の奥から水音が響き始めた。
ごぼり、という嫌な音はしない。
滑らかで穏やかな流れ。
やがて透明な湯が浴槽へ満ち始める。
湯気が立ち上る。
ほんのり温かな空気が頬を撫でた。
カイルが感心したように呟く。
「早いな」
「熱効率を最適化していますから」
「……本当に何でも直すんだな」
その言葉に、セレフィナの指先がわずかに止まった。
「……いいえ」
「?」
「直せないものもあります」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
カイルは何も言わない。
ただ静かに聞いている。
それが逆に苦しかった。
「私はずっと、壊れたものを直してきました。配管も、予算も、人間関係も。全部、壊れないように」
湯気が揺れる。
ミントの香りが静かに広がる。
「でも結局、何一つ完璧にはできなかった」
婚約。
信頼。
自分自身。
全部。
セレフィナは唇を噛んだ。
「……疲れたんです」
ようやく認められた。
口にした瞬間、胸の奥が鈍く痛む。
カイルはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「なら今日は休め」
「ですが——」
「浴室は完成したんだろう」
セレフィナは目を瞬いた。
完成。
その言葉が、不思議と胸へ落ちた。
終わったのだ。
少なくとも、この場所は。
「……そう、ですね」
カイルは扉へ向かいながら言った。
「夕食はあとで持ってくる」
「殿下」
「何だ」
「……ありがとうございます」
彼は振り返らず、軽く手を上げただけだった。
扉が閉まる。
静寂。
湯気が揺れている。
セレフィナはゆっくり衣服を脱ぎ、湯へ足を入れた。
「あ……」
声が漏れる。
温かい。
芯まで凍えていた身体が、ゆっくりほどけていく。
王宮の浴場は豪華だった。
広く、煌びやかで、香料に満ちていた。
だがあそこでは、一度も安らげなかった。
常に誰かに呼ばれた。
常に何かが壊れた。
湯へ浸かりながらも、頭の中では配管図が回り続けていた。
けれど今は違う。
水音しか聞こえない。
静かな流れ。
規則正しい排水。
完璧な温度。
セレフィナは浴槽へ深く身を沈めた。
目を閉じる。
怖くない。
壊れる音がしない。
誰も呼ばない。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
安心して、目を閉じられる。
たったそれだけのことが、こんなにも難しかったなんて。
湯気の中で、セレフィナは静かに息を吐いた。
その頃。
白亜宮では、地鳴りのような音が響いていた。
「きゃああああっ!!」
大浴場の床が崩落したのだ。
轟音と共に石床が割れ、大量の熱湯が地下へ流れ込む。蒸気が爆発したように広がり、逃げ遅れた使用人たちの悲鳴が響き渡った。
「助けて!!」
「熱いっ!!」
「誰か!!」
濁った湯が溢れる。
老朽化した配管は限界だった。
セレフィナが毎夜行っていた圧力制御。
歪みの補正。
それらが消えた結果だった。
だが混乱の中、ルシアンは怒鳴っていた。
「どういうことだこれは!?」
文官が震える声で答える。
「地下配管が……耐圧限界を超えて……!」
「修理しろ!」
「む、無理です! 崩落が広がっています!」
蒸気と悲鳴と悪臭。
白亜宮は混乱に沈んでいた。
その遥か遠く。
灰青館の浴室では、静かな水音だけが響いている。
さらさら、と。
まるで誰かを慰めるように。




