第四話 最適化できないもの
第四話 最適化できないもの
白亜宮の大浴場に、女官の悲鳴が響き渡った。
「きゃああっ!?」
湯船へ足を入れた瞬間、沸騰寸前の熱湯が跳ね上がったのだ。
侍女たちが慌てて蛇口を閉める。だが今度は逆に冷水が噴き出し、白い湯気が浴場いっぱいに広がった。
「な、何なのよこれ!」
ミレイユが甲高い声を上げる。
薔薇色の湯衣を纏った彼女は、濡れた足元を苛立たしげに見下ろした。
「熱すぎたり冷たすぎたり! 信じられない!」
「も、申し訳ございません聖女様……!」
女官たちは青ざめながら頭を下げる。
大浴場の壁には薄く結露が浮き、床の排水口からは、ぼこり、ぼこりと嫌な音がしていた。
湿った臭気が漂う。
老朽化した配管の匂いだ。
だが、その異常に気づく者は少ない。
「すぐ直しなさい!」
ミレイユが怒鳴る。
「こんなお風呂じゃ肌が荒れるでしょう!?」
「は、はい……ですが管理局の許可が……」
「知らないわよそんなの!」
女官の肩が震える。
以前なら、こういう時は必ずセレフィナが現れた。
静かに状況を確認し、数分で原因を見抜き、適切な指示を飛ばす。
だが今、その姿はない。
その頃。
王宮中央管理室では、書類の山を前にルシアンが苛立ちを露わにしていた。
「だから、なぜ備蓄量が合わない!?」
机を叩く。
文官たちがびくりと肩を揺らした。
「も、申し訳ありません殿下……その、流通記録と実在庫に差異が……」
「確認したのか!?」
「それが、監査印が以前と違いまして……」
「以前と違う?」
老文官が冷や汗を拭いながら答える。
「セレフィナ様が管理されていた頃は、毎週細かく監査が入っておりましたので……」
「つまり今はできていないと?」
「い、いえ、その……人手不足で……」
ルシアンは舌打ちした。
「たかが一人抜けただけで何を騒いでいる」
その声は強かったが、焦りが滲んでいた。
実際、王宮の空気は目に見えて変わり始めていた。
厨房では食材の腐敗が増えた。
地下倉庫の湿度が異常に高い。
貴族控室では悪臭の苦情が出始めている。
だがルシアンは認めない。
認めたくなかった。
セレフィナが必要だったなど。
「全部あいつが過剰管理していただけだ」
吐き捨てるように言う。
「少々の不具合くらい、誰でも対処できる」
だが、その言葉とは裏腹に、机上には未処理の決裁書類が積み上がっていた。
どこへ署名が必要なのかすらわからない。
予算表は数字だらけだ。
以前はセレフィナが整理していた。
必要なものだけを抜き出し、簡潔にまとめ、問題点を既に修正した状態で提出していたのだ。
その事実に、今さら気づき始めている。
ルシアンは苛立ち紛れに書類を放り投げた。
「……くだらん」
だが誰も返事をしなかった。
湿った空気だけが、重く部屋へ沈んでいた。
一方、灰青館。
雨上がりの朝だった。
石畳にはまだ水滴が残り、庭の土からは濡れた草の匂いが立ち上っている。
セレフィナは外套を羽織り、中庭の排水溝を覗き込んでいた。
昨日掘り返したばかりの水路へ、ゆっくり水を流す。
さらさら、と澄んだ音が響いた。
「……流速、安定」
小さく呟く。
以前より、少しだけ魔力制御が安定していた。
館の構造にも慣れてきたのだ。
石壁の湿気。
地下水脈。
雨水の流れ。
少しずつ、この古城が“読める”ようになってきている。
それは安心でもあり、恐ろしくもあった。
また自分は、最適化し始めている。
壊れたものを見ると、直したくなる。
歪みを見ると、整えたくなる。
その衝動は、ほとんど呪いだった。
「無理をするな」
背後から声がした。
振り返ると、カイルが立っていた。
今日は簡素なシャツ姿で、腕には木材を抱えている。
「北側の窓枠、直しておいた」
「……ありがとうございます」
「また徹夜したな?」
「していません」
「目の下が酷い」
即答だった。
セレフィナは視線を逸らす。
眠れないのだ。
夜になると耳が冴える。
館のどこかで水滴が落ちるだけで飛び起きる。
風で窓が鳴るだけで、配管破裂を想像する。
誰も責めない場所なのに。
もう王宮ではないのに。
身体だけが、ずっと戦場にいる。
カイルは排水溝を覗き込みながら言った。
「綺麗な流れだな」
「……勾配を修正しました」
「水音が違う」
その言葉に、セレフィナは少し驚いた。
普通の人間にはわからない。
水の流れの“音の差”など。
「殿下は変わっていますね」
「よく言われる」
彼は平然と言った。
風が吹き抜ける。
雨上がりの匂い。
濡れた石。
遠くで鳥が鳴いていた。
穏やかな時間だった。
なのにセレフィナの胸は苦しかった。
「……直しても」
ぽつりと声が漏れる。
「全部、また壊れるんです」
カイルが静かに視線を向ける。
「館も、配管も、人も」
セレフィナは濡れた石畳を見つめた。
「私はずっと、壊れないようにしてきました。誰かが困らないように。怒られないように。失敗しないように」
指先が震える。
「でも結局、婚約も壊れた。王宮も壊れ始めてる。なのに私はまだ……何かを直そうとしてる」
自嘲の笑みが漏れる。
「滑稽ですね」
「いや」
カイルは短く言った。
「お前は壊れたものを放っておけないだけだ」
「それが間違いなんです」
「なぜ」
「……自分が壊れるからです」
言った瞬間だった。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
セレフィナは思わず息を止める。
異能は万能ではない。
配管は直せる。
建物も直せる。
数字も流れも整えられる。
だが。
心だけは違う。
どれだけ最適化しても。
どれだけ不要なものを削っても。
胸の奥に残った痛みだけは、消えてくれなかった。
「……眠るのが怖いんです」
気づけば呟いていた。
「目を閉じると、また誰かに呼ばれる気がして」
カイルは黙って聞いていた。
「壊れたって。早く来いって。助けろって」
風が冷たい。
空は薄曇りだった。
セレフィナは小さく笑う。
「馬鹿ですよね。もう誰も呼ばないのに」
しばらく沈黙が落ちた。
やがてカイルが静かに口を開く。
「だったら」
低い声だった。
「呼ばれないことに慣れろ」
セレフィナが目を瞬く。
「急には無理だ。だが少しずつ、お前の身体に覚えさせろ」
彼は濡れた排水溝へ視線を落とした。
「ここは王宮じゃない」
さらさら、と水が流れる。
「壊れても、お前ひとりの責任じゃない」
その言葉が、ゆっくり胸へ沈んでいく。
セレフィナは目を閉じた。
水音が聞こえる。
静かで、穏やかな流れ。
誰かを責める音ではない。
ただ流れていく音。
それなのに、なぜだろう。
胸の奥だけが、どうしても上手く修復できなかった。




