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第三話 冷たい水と、一杯のスープ

第三話 冷たい水と、一杯のスープ


 灰青館へ移り住んで五日が過ぎていた。


 だが館は、いまだ“住める”状態には程遠かった。


 朝、目を覚ませば吐く息は白い。石壁は夜気を吸って冷え切り、床へ足を下ろすだけで骨の芯まで凍える。窓枠の隙間から入り込む風が、夜通し燭台の火を揺らし、館のどこかで扉が軋む音がする。


 水道はまだ完全には直っていない。


 最低限、井戸水を汲み上げられるようにはした。だが配管の半分は腐食しており、浴室へ湯を送るには大規模な修復が必要だった。


 それでもセレフィナは、毎日少しずつ館へ手を入れていた。


 崩れた排水溝を掘り返し、錆びた継ぎ手を交換し、割れた窓へ板を打つ。


 工具を握る指先は、もう貴族令嬢のものではない。薄い傷が増え、冷気で皮膚は荒れ、爪の間には黒い煤が入り込んでいた。


 それでも、王宮にいた頃より息がしやすい気がした。


 誰も命令しない。


 誰も責めない。


 そう思うのに——眠れなかった。


 深夜。


 館は恐ろしいほど静かだった。


 しん、と耳が痛くなるような沈黙の中、ぽたり、と遠くで水滴が落ちる。


 その音だけで、セレフィナは目を開ける。


「……東側配管?」


 反射的に身体を起こした。


 次の瞬間、頭がくらりと揺れる。


 違う。


 ここは王宮ではない。


 寝台脇に積み上がった工具箱を見て、ようやく思い出す。


 灰青館。


 自分はもう、王宮管理官ではない。


 だが胸の鼓動は収まらなかった。


 耳の奥で声がする。


『セレフィナ様! 地下厨房で漏水が!』


『予算超過です!』


『聖女様を虐げたそうですね』


『冷たい女』


『役立たず』


 幻聴だった。


 わかっている。


 なのに身体が勝手に強張る。


 眠ろうと目を閉じるたび、王宮の回廊が浮かぶ。水浸しの地下室。積み上がる書類。誰かの怒声。


 心臓が痛い。


 呼吸が浅い。


「……大丈夫……」


 自分へ言い聞かせるように呟く。


「もう、呼ばれないから……」


 その声が、静かな部屋へ吸い込まれて消えた。


 翌朝。


 セレフィナはほとんど眠れないまま作業を始めていた。


 北側廊下の排水管。


 膝をつき、工具を差し込む。


 金属の擦れる音が、冷えた空気に響く。


「……詰まり、三箇所」


 配管内部の構造が脳へ流れ込む。


 異能は使える。


 だが長時間の発動は危険だった。


 昨日も無理をしたあと、高熱で半日倒れた。


 それでも止められない。


 止めれば壊れる。


 その強迫観念だけが身体へ染みついていた。


 その時だった。


 不意に、玄関側で重い音がした。


 ぎい、と扉が開く。


 セレフィナは反射的に立ち上がり、腰の工具を握った。


 泥のついた革靴。


 灰色の外套。


 背の高い男が、冷たい外気と共に館へ入ってくる。


 セレフィナは目を見開いた。


「……カイル殿下?」


 第二王子カイルは、驚くほど自然にそこへ立っていた。


 王族らしい豪奢な装いではない。簡素な濃紺の外套に革手袋。肩にはうっすら雨粒が残っている。


 彼は館を見回し、短く言った。


「酷いな」


「……視察ですか」


「ああ。この辺りの旧水路確認だ」


 低く落ち着いた声だった。


 彼はセレフィナを見た瞬間、眉をひそめる。


「お前、顔色が悪い」


「問題ありません」


「嘘だな」


 即答だった。


 セレフィナは思わず口を閉ざす。


 カイルは床へ転がった工具と、剥き出しの配管を見る。


「自分で直してるのか」


「他に誰もいませんから」


「業者は?」


「高額です」


「……お前、公爵令嬢だろ」


「元婚約者ですので。以前ほど自由になる資金はありません」


 カイルはしばらく黙っていた。


 やがて静かに息を吐く。


「台所はどこだ」


「え?」


「腹が減った」


 あまりに唐突で、セレフィナは瞬きをした。


「……こちらですが」


 案内された厨房は、荒れ放題だった。


 煤けた竈。ひび割れた棚。錆びた鍋。


 だがカイルは顔色ひとつ変えず、袖を捲った。


「水は?」


「井戸からなら」


「汲めるな?」


「ええ……」


「なら十分だ」


 彼は慣れた手つきで鍋を洗い始めた。


 セレフィナは呆然と眺める。


「……何を」


「スープを作る」


「殿下が?」


「料理くらいする」


 そう言って彼は棚を漁った。


 干し野菜。少量の豆。塩。


「随分質素だな」


「一人ですから」


「食ってないだろ」


「……食べています」


「嘘だな」


 また即答だった。


 カイルは小さく鼻を鳴らし、野菜を刻み始める。


 包丁の音が響く。


 とん、とん、とん。


 不思議と静かな音だった。


 王宮の厨房のような怒号も喧騒もない。


 ただ、湯が沸く音だけが小さく広がっていく。


 やがて鍋から柔らかな香りが立ち始めた。


 玉葱の甘い匂い。


 豆の素朴な香り。


 湯気が冷えた厨房を少しずつ温めていく。


 セレフィナはぼんやりとその匂いを吸い込んだ。


 最後に温かな食事をしたのは、いつだっただろう。


 王宮では常に忙しかった。


 冷えた茶。


 固くなったパン。


 深夜に立ったまま流し込むだけ。


 味など覚えていない。


「ほら」


 差し出された器を受け取る。


 指先へ、じんわり熱が伝わった。


 セレフィナはゆっくり口をつける。


 塩気は薄い。


 だが温かかった。


 冷え切っていた身体へ、ゆっくり熱が落ちていく。


「……おいしい」


 思わず零れた声に、カイルは椅子へ腰掛けながら言った。


「そうか」


 それだけだった。


 沈黙が落ちる。


 けれど不思議と苦しくない。


 暖炉の火がぱちりと鳴る。


 スープの湯気が揺れる。


 その静けさの中で、カイルがふいに言った。


「もう休め」


 セレフィナの手が止まる。


「……え」


「顔を見ればわかる。限界だ」


「まだ修繕が残っています」


「死ぬぞ」


「そんなこと——」


「ある」


 低い声が遮った。


 カイルは真っ直ぐセレフィナを見る。


「お前、まともに眠ってないだろ」


 返せなかった。


「誰かが壊したものを、お前ひとりで支え続ける必要はない」


 その言葉が、胸へ深く落ちた。


「まず休め」


 たったそれだけだった。


 責める声ではなかった。


 命令でもない。


 期待でもない。


 初めてだった。


 自分へ“休め”と言った人間は。


 その瞬間、視界が滲んだ。


「あ……」


 熱いものが頬を伝う。


 セレフィナは呆然とした。


 泣いている。


 自分が。


 ぽたり、と涙が器へ落ちた。


「……っ、わたし……」


 声が震える。


「ちゃんと、やらないとって……壊れたら、全部……」


「もういい」


 カイルの声は静かだった。


「ここにはお前を責める奴はいない」


 その言葉に、セレフィナは堪えきれず顔を覆った。


 小さな嗚咽が、静かな厨房へ溶けていく。


 外では冬の雨が降っていた。


 古城の屋根を叩く雨音。


 だがその夜、灰青館の厨房だけは、ほんの少しだけ温かかった。



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