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第十話 静かな水音のする場所

第十話 静かな水音のする場所


 春の朝だった。


 灰青館の庭には柔らかな陽射しが落ち、夜露を残したハーブたちが風に揺れている。ミント、ローズマリー、タイム。葉先へ光る水滴が、朝日を受けて小さく煌めいていた。


 さらさら、と水の流れる音がする。


 セレフィナはじょうろを傾け、花壇へ静かに水を撒いていた。


 土が水を吸う匂いが立ち上る。


 湿った土の香り。


 若い草の青い匂い。


 その全てが、胸の奥へ穏やかに落ちていく。


「今日は暖かいな」


 背後から声がした。


 振り返ると、カイルが木の扉を肩で押し開けていた。片手には湯気の立つ鍋。もう片方には焼き立てのパン籠。


「朝食が冷める」


「……もうそんな時間ですか」


「また庭へ出たまま考え込んでたな」


 セレフィナは少しだけ笑った。


「癖ですね」


「まだ直らないか」


「簡単には」


 そう答えながらも、以前より呼吸は楽だった。


 数ヶ月。


 それだけの時間が流れていた。


 王都は少しずつ立て直されている。


 カイルを中心とした新体制は、セレフィナの設計した新しい水路計画を採用し、地下構造の全面改修を始めていた。


 もう“誰か一人”へ負担を押し付ける仕組みではない。


 管理局は分業化され、点検制度も再編された。


 時間はかかる。


 だが以前より、ずっと健全だった。


 そして。


 ルシアンは正式に廃嫡された。


 責任放棄と王宮管理崩壊の責を問われ、今は王都外れの離宮へ幽閉されているという。


 ミレイユもまた、詐欺と横領で裁かれた。


 けれどセレフィナは、その話をもうほとんど考えなくなっていた。


 恨みが消えたわけではない。


 ただ。


 今の自分には、それ以上に大切なものが増えていた。


「湯、入れておいたぞ」


 カイルが何気なく言う。


「温度は少し低めだ」


「ありがとうございます」


 灰青館の浴室は、今では完全に生まれ変わっていた。


 白磁タイルは朝の光を柔らかく反射し、漆喰壁は余分な湿気を吸い、空気を静かに整えている。


 排水は完璧だった。


 水は淀まず、音もなく流れていく。


 そして何より。


 ここには、不安がなかった。


 セレフィナはじょうろを置き、館の中へ戻る。


 廊下には焼きたてのパンの香りが漂っていた。


 暖炉の火。


 木の温もり。


 静かな生活の匂い。


 かつての白亜宮には無かったものだった。


「視界はどうだ」


 食卓へ皿を並べながらカイルが訊く。


 セレフィナは少し瞬きをする。


「以前よりは」


「無理はするな」


「していますか、私」


「する顔をしてる時がある」


 セレフィナは苦笑した。


 視力は完全には戻らなかった。


 長時間異能を使えば今でも景色が霞む。


 細かな文字は、以前より見えづらい。


 それでも。


 昔のように無理を続ける気には、もうなれなかった。


「……不思議です」


 椅子へ腰掛けながら呟く。


「何がだ」


「昔の私は、止まることが怖かったんです」


 カイルは黙って聞いている。


「何かを直していないと、自分には価値がない気がしていました」


 窓の外では風がハーブを揺らしていた。


 さらり、と葉擦れの音がする。


「だからずっと、“無駄”を削ろうとしていたんです。時間も、休息も、自分自身も」


 王宮時代。


 眠らない夜。


 積み上がる書類。


 崩れかけた地下構造。


 誰にも言えなかった疲労。


 セレフィナは静かに目を伏せた。


「でも今は、少し違います」


「……ああ」


「この館には余白があります」


 カイルが小さく眉を動かす。


「余白?」


「はい」


 セレフィナはゆっくり部屋を見渡した。


 朝の光。


 静かな空気。


 温かな食事。


 誰かと交わす他愛のない会話。


 急かされない時間。


「以前の私は、全部を完璧に埋めようとしていました。でも、本当に必要だったのは——」


 そこで言葉が止まる。


 胸の奥へ、静かな理解が落ちてきた。


 最適化とは。


 無駄を削り続けることではない。


 壊れないように。


 息ができるように。


 大切なものを守るための“余白”を残すこと。


 それが、本当の意味だったのだ。


「……セレフィナ」


 カイルが静かに呼ぶ。


 顔を上げると、彼は少し困ったような顔をしていた。


「なんです?」


「お前、また泣きそうな顔してる」


 思わず笑ってしまった。


「そんな顔してますか」


「ああ」


「困りましたね」


 カイルは小さく息を吐く。


 そして当たり前のように、セレフィナの前へ温かな茶を置いた。


「まず食え」


「……はい」


 湯気が立ち上る。


 ミントの香りがした。


 窓の外では水路を流れる水が、静かな音を立てている。


 さらさら、と。


 もう誰かを責める音ではない。


 壊れる予兆でもない。


 ただ穏やかに流れていく音。


 セレフィナは茶器を包むように持ちながら、静かに目を閉じた。


 怖くない。


 何かが壊れる音へ怯えなくてもいい。


 自分が一人で全てを支えなくてもいい。


 そんな朝が来るなんて、昔の自分は想像もしていなかった。


「……カイル殿下」


「なんだ」


「ありがとうございます」


 彼は少しだけ目を細める。


「今さらだな」


「ええ。今さらです」


 春風が窓を揺らす。


 ハーブが香る。


 静かな排水音が、館の奥で優しく響いていた。


 それはまるで、この場所そのものが穏やかに呼吸しているようだった。


(完)



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