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エピローグ 春の雨と、水の音

エピローグ 春の雨と、水の音


 春の終わりを告げる雨が、灰青館の屋根を静かに叩いていた。


 激しい雨ではない。


 細く柔らかな雨だ。


 石壁を伝い、修復された雨樋を流れ、庭の排水路へ吸い込まれていく。さらさら、と澄んだ音が館の周囲へ広がっていた。


 セレフィナは窓辺へ座り、その音をぼんやり聞いていた。


 窓硝子には細かな雨粒が並び、曇り空の光を淡く滲ませている。室内には暖炉の残り香と、乾燥ハーブの青い香りが混ざっていた。


 静かな午後だった。


 こんな時間を過ごせるようになるとは、以前の自分なら想像もしなかっただろう。


「また考え事か」


 低い声が背後から落ちる。


 振り返ると、カイルが濡れた外套を脱いでいるところだった。肩には細かな雨粒が残り、外気と一緒に冷たい土の匂いが入り込んでくる。


「お帰りなさい」


「ああ」


 カイルは暖炉の横へ薪を置くと、自然な動作で茶器へ湯を注いだ。


 最近はもう、それが当たり前になっていた。


 朝になればカイルが湯を沸かし、セレフィナが庭を整える。昼は修復計画の書類をまとめ、夜は静かな食卓を囲む。


 豪華ではない。


 だが、不思議なほど穏やかだった。


「王都は?」


 セレフィナが訊ねる。


 カイルは湯気の立つ茶器を差し出しながら答えた。


「少しずつ落ち着いてきた。南区の新水路も完成した」


「崩落は?」


「今のところなし」


 その言葉に、セレフィナは小さく息を吐く。


 茶器から立ち上る香りはミントとカモミールだった。


 柔らかな香り。


 昔の王宮なら、もっと強い香油が使われていただろう。薔薇、麝香、琥珀香。


 けれど今のセレフィナは、この控えめな香りのほうが好きだった。


「……皆、頑張っているんですね」


「ああ」


 カイルは椅子へ腰を下ろした。


「以前より、ちゃんと確認するようになった」


「確認?」


「地下へ降りる連中が増えた。配管も、水路も、自分の目で見るようになった」


 セレフィナは少し驚いた。


 王宮時代、地下構造など誰も興味を持たなかった。


 汚れるから。


 臭うから。


 見えないから。


 だから全部、自分一人で抱え込んでいた。


「……変わったんですね」


「変わらざるを得なかった」


 雨音が静かに続く。


 窓の外では、若葉が水滴を揺らしていた。


 その時、不意に玄関扉が叩かれた。


 こん、と控えめな音。


 カイルが眉を寄せる。


「誰だ」


「私が出ます」


 セレフィナは立ち上がり、玄関へ向かった。


 扉を開ける。


 雨の向こうに立っていたのは、一人の若い女官だった。


 泥で汚れた靴。


 濡れた外套。


 だが目だけは真っ直ぐだった。


「……突然申し訳ありません、セレフィナ様」


 彼女は深々と頭を下げる。


「私、以前、王宮厨房で働いていた者です」


 セレフィナはその顔を覚えていた。


 夜会の夜、怯えた顔で排水の相談をしてきた少女だ。


「どうしました」


 女官は少し緊張したように両手を握り締めた。


「南区の新しい共同浴場が完成したんです」


「……ええ」


「皆で管理してます。掃除当番も、点検も、ちゃんと順番を決めて」


 雨粒が軒先から落ちる。


 ぽたり、と静かな音。


「前は、全部誰か任せでした。でも今は違います」


 少女は照れくさそうに笑った。


「それで、その……」


 一度息を吸う。


「ありがとうございました」


 その言葉に、セレフィナは一瞬返事ができなかった。


 ありがとう。


 たったそれだけの言葉。


 けれど。


 昔、一番欲しかった言葉だった。


 女官はもう一度頭を下げる。


「皆、セレフィナ様に伝えてほしいって」


 その声は雨音の中でも不思議とはっきり聞こえた。


 セレフィナは静かに目を伏せる。


 胸の奥が、じわりと熱かった。


「……こちらこそ」


 掠れそうになる声を整えながら答える。


「頑張ってくれて、ありがとう」


 女官が帰ったあとも、しばらくセレフィナは扉の前へ立っていた。


 外はまだ雨だ。


 だが空は少し明るくなっている。


 その時、背後からカイルの声がした。


「泣いてるな」


「……少しだけ」


「少しか?」


 セレフィナは小さく笑う。


「殿下は意外と意地悪ですね」


「今さら気づいたか」


 カイルは隣へ並び、同じように雨を見た。


 静かな時間だった。


 誰かに急かされることもない。


 壊れる音に怯える必要もない。


 ただ雨の音だけが、穏やかに流れている。


「……不思議です」


 セレフィナはぽつりと言った。


「何がだ」


「昔は、“完璧”にならなきゃいけないと思っていました」


 王宮を。


 人を。


 自分を。


 全部。


 完璧に整えなければ価値がないのだと。


「でも今は、少しくらい不完全でもいいって思えるんです」


 雨樋を流れる水が、静かな音を立てている。


 さらさら、と。


 優しい音だった。


「疲れたら休んで、壊れたら皆で直せばいい」


 その言葉に、カイルはゆっくり目を細めた。


「やっと覚えたな」


「ええ。本当に、やっと」


 風が吹く。


 ミントの香りが雨上がりの空気へ混ざって広がった。


 灰青館は今日も静かだった。


 暖かな湯が流れ。


 排水は淀まず。


 窓辺には柔らかな光が落ちる。


 そしてその中心には、もう壊れることへ怯えなくなった一人の女性がいる。


 さらさら、と。


 静かな水音だけが、いつまでも穏やかに響いていた。



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