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日暮れ前の暖炉

 王立魔法学院入試課の机には、日没前の光が斜めに差し込んでいた。


 硝子窓の向こうで、訓練用の風標が整然と灯っている。


 その下を、先ほどの私設郵便屋が飛び去っていった。


 セリア・ハルムは、しばらく窓の外を見ていた。


 それから、机の上の確認書へ視線を戻す。


 ユアン・ベル。


 アスケル。


 繰り上げ合格通知。


 受領確認書、期限内受理。


 そこに押された学院の印は、黒く、乾いている。


 中央局からは、期限内配達不能の連絡が入っていた。


 学院としても、繰り上げ枠の再調整を始める予定だった。


 それが今、止まった。


 紙一枚が、間に合ったからである。


 セリアは眼鏡を外し、眉間を押さえた。


「……通常便では、間に合わなかった」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 事務官は、奇跡という言葉を好まない。


 記録に書けないからだ。


 だが、奇跡と書けない出来事にも、処理名は必要になる。


 セリアは新しい用紙を一枚引き出した。


 上部には、王立魔法学院の紋章。


 宛先は、ローデン外れの私設郵便屋。


 件名は、期限付き通知に関する臨時配達依頼。


 紹介状ではない。


 礼状でもない。


 仕事を頼むための紙だった。


 セリアは筆を取る。


 今回の配達により、期限付き通知の受領権利が保全されたこと。


 中央局通常便では期限内到達が困難だったこと。


 今後、同種の通知について、必要に応じ臨時配達を依頼したいこと。


 配達料は、王立魔法学院入試課の予算より支払うこと。


 そこまで書いて、セリアは少しだけ手を止めた。


 高い、とあの私設郵便屋は言っていた。


 実際、高いのだろう。


 けれど、繰り上げ枠を一つ失うよりは安い。


 その程度の計算は、入試課にもできる。


 セリアは署名を入れた。


 セリア・ハルム。


 王立魔法学院入試課。


 最後に、封筒へ宛名を書く。


 ローデン外れ。


 配達困難郵便取扱所。


 クラリス・ヴェイン様。


 様、と書くのに、少しだけ迷った。


 だが、仕事を頼む紙である。


 迷う必要はない。


 セリアは封筒を閉じ、学院便の箱へ入れた。


「明朝、一番で」


 受付の学生がうなずく。


「承りました」


「それと」


 セリアは、確認書の控えをもう一度見た。


「中央局へ、返送予定取消の通知も出してください」


「理由は」


「受取人本人による受領確認済み。期限内受理」


 学生は目を丸くした。


「本当に間に合ったんですね」


「ええ」


 セリアは眼鏡をかけ直した。


「間に合いました」


 その言葉は、入試課の事務机の上では少しだけ浮いて聞こえた。


 それでも、悪い言葉ではなかった。



 クラリスがローデンへ戻ったのは、日が沈みきる前だった。


 空は薄い橙色を残している。


 町の煙突からは、夕食の煙が上がり始めていた。


 ローデンの外れにある私設郵便屋は、いつものように静かだった。


 看板が風で揺れている。


 配達困難郵便、承ります。


 配達不能印の押されたものも、ご相談ください。


 その看板の下に、人影があった。


 カミル・ロットである。


 ローデン受付の若い職員は、帽子を両手で握りしめ、店の前を行ったり来たりしていた。


 クラリスが箒を降ろすと、彼は顔を上げた。


「クラリスさん!」


「ロットさん」


 クラリスは箒から降りる。


「受付は、散歩をする場所ではありませんよ」


「今は休憩中です」


「ずいぶん長い休憩ですね」


「どうなりましたか」


「休憩時間の話ですか」


「ユアン君の話です」


 カミルは引かなかった。


 顔色が悪い。


 待ちすぎた人間の顔だった。


 クラリスは鞄から控えを取り出した。


 防水袋から出す前に、カミルの手を見た。


「先に言っておきます」


「はい」


「濡らさない。折らない。握らない」


「はい」


 カミルは両手を引っ込めた。


 クラリスは控えを広げ、見えるように掲げる。


 王立魔法学院入試課。


 受領確認書、期限内受理。


 ユアン・ベル。


 繰り上げ合格確定。


 カミルは、文字を読んだ。


 一度。


 もう一度。


 それから、口を開けたまま固まった。


「間に合った……」


「はい」


「本当に、間に合ったんですね」


「はい」


「ユアン君は」


「落ちていません」


 カミルは目元を押さえた。


 肩が一度だけ震える。


 クラリスは控えを素早く防水袋へ戻した。


「泣くなら、控えから離れてください」


「泣いてません」


「今は、まだ」


「クラリスさん」


「はい」


「ありがとうございます」


 短い言葉だった。


 ローデン受付の職員としてではなく、アスケルへ返送予定の封筒を見てしまった一人の人間としての声だった。


 クラリスは少しだけ視線を外した。


「依頼を受けましたので」


「でも」


「料金は請求します」


「もちろんです」


「外套も裂けました」


「学院に請求を」


「しました。却下されました」


「早いですね」


「予想していました」


 カミルは、泣きそうな顔のまま笑った。


 クラリスは店の扉へ向かう。


 鍵を開けようとして、ふと、窓の中を見た。


 暗い。


 暖炉には火が入っていない。


 机の上には、朝のまま置かれた茶器がある。


 茶葉の缶は軽い。


 帳簿は赤い。


 外套の裾は裂けている。


 普段なら、日が沈んでから火を入れる。


 薪は節約するものだ。


 火を入れるにも、理由がいる。


 クラリスは鞄を見た。


 中には、期限内受理の控えがある。


 王立魔法学院入試課を請求先にした配達証明もある。


 明日以降、請求書を書くことになる。


 珍しいことに、今日の仕事は感動で終わらない。


 金になる。


 たぶん。


「ロットさん」


「はい」


「暖炉に火を入れるには、早いと思いますか」


 カミルは目を瞬いた。


 それから、店の窓を見た。


 暗い窓。


 冷えた店。


 看板だけが、夕風に揺れている。


「早くはないと思います」


「根拠は」


「今日は、素敵な日ですから」


「根拠としては弱いですね」


「そうかもしれません。でも、悪くないと思いますよ?」


 クラリスは鍵を開けた。


 扉が軋む。


 店の中は、紙と灰の匂いがした。


 クラリスは外套を脱がずに暖炉の前へ膝をつく。


 薪を組み直し、火打ち石を取る。


 一度目はつかない。


 二度目もつかない。


 三度目で、小さな火がついた。


 火は薪の端を舐め、ゆっくり広がる。


 暖かさが、床へ落ちた。


 日が暮れる前の店に、火が入る。


 カミルは入口に立ったまま、それを見ていた。


「まだ何か?」


「ええと、特にこれと言っては……」


「邪魔にならない場所にしてください」


「では、ここで」


「そこは扉の前です。邪魔です」


「すみません」


 カミルは慌てて一歩横へ避けた。


 クラリスは机につき、帳簿を開く。


 ページの端は少し反っていた。


 赤い数字が多い。


 それでも今日は、黒い文字を書く余地がある。


 ユアン・ベル様宛。


 王立魔法学院繰り上げ合格通知。


 アスケル。


 配達完了。


 受領確認書、期限内受理。


 請求先。


 王立魔法学院入試課。


 備考。


 外套修繕費、却下。


 クラリスはそこまで書いて、少し考えた。


 ペン先を戻し、備考の下へ小さく書き足す。


 追加請求、検討。


 カミルが覗き込もうとしたので、帳簿を閉じた。


「業務上の秘密です」


「見てません」


「見ようとしていました」


「少しだけ」


「少しでも駄目です」


 カミルは笑った。


 今度の笑いは、先ほどより少しだけ軽かった。


「ユアン君、喜びますね」


「受け取った時点で、十分騒いでいましたが」


「そうでしたか」


「はい。落ちたと思い込むには、向いていない少年でした」


「いいことですね」


「ええ」


 クラリスは窓の外を見た。


 夕方の道を、二人の町人が通り過ぎる。


 片方が看板を見た。


 もう片方が、店の中の火を見た。


 何かを小声で話している。


 クラリスは聞こえないふりをした。


 聞こえないふりは便利である。


 ただし、店の中まで火が入っていると、少しだけ難しい。


「これから忙しくなりそうですね」


 カミルが言った。


「迷惑ですね」


「でも、仕事になります」


「迷惑な仕事ですね」


「ひもじいよりは、マシでしょう?」


 クラリスは返事をしなかった。


 暖炉の火が、帳簿の表紙を淡く照らしている。


 店の奥の仕分け棚には、配達済み控えが一枚増えた。


 旧ミルゼ村。


 アスケル。


 二枚目の配達済み控え。


 まだ棚の大半は空いている。


 それでも、空っぽではなくなっていた。


「ロットさん」


「はい」


「受付に戻りなさい」


「はい」


「明日、学院宛ての請求書を出します」


「こちらで扱うんですか?」


「はい。できるだけ丁寧に」


「承知しました」


「それと」


 クラリスは少しだけ間を置いた。


「ユアンさんに、学院から正式な案内が届くから安心しなさい、と伝えてください」


「はい」


「あと、ロウさんにも。パンはもう少し柔らかいものを持たせるように」


「言っておきます」


「燃料としては優秀でしたが、食料としては不満が残ります」


 カミルは笑いながら頭を下げた。


「伝えます」


 彼が出ていくと、店はまた静かになった。


 けれど、先ほどとは違う静けさだった。


 暖炉の火がある。


 帳簿には黒い文字が増えた。


 鞄の中には請求先のある控えがある。


 明日の仕事もある。


 クラリスは茶葉の缶を開けた。


 底が見えかけている。


 少し迷ってから、一杯分だけ多めに取った。


 湯を沸かす。


 カップに注ぐ。


 湯気が上がる。


 追放されてから、初めての贅沢だった。


 その日、クラリスの店の暖炉には、日が暮れる前に火が入った。


 彼が出ていくと、店はまた静かになった。


 けれど、先ほどとは違う静けさだった。


 暖炉の火がある。


 帳簿には黒い文字が増えた。


 鞄の中には請求先のある控えがある。


 明日の仕事もある。


 クラリスは茶葉の缶を開けた。


 底が見えかけている。


 少し迷ってから、一杯分だけ多めに取った。


 湯を沸かす。


 カップに注ぐ。


 湯気が上がる。


 追放されてから、初めてだった。


 その日、クラリス・ヴェインの店の暖炉には、日が暮れる前に火が入った。




 同じ頃。


 王立魔法学院入試課では、セリア・ハルムが二通の封筒を学院便の箱へ入れていた。


 一通は、ローデン外れの私設郵便屋へ。


 期限付き通知に関する臨時配達依頼。


 もう一通は、中央局へ。


 返送予定取消の通知。


 受取人本人による受領確認済み。


 期限内受理。


 どちらの封筒にも、まだ消印はない。


 どちらも、明朝の便を待っている。


 セリアは箱の蓋を閉じた。


「明朝、一番ですよ?」


「承知しています」


 受付の学生がうなずく。


 その夜、中央局は知らずに眠りにつく。


 返送予定の箱に入れられた一枚の通知が、すでに返送される理由を失っていることを。


 ローデン外れの小さな店では、暖炉の火がまだ消えずにいた。


 火は弱い。


 けれど、確かに灯っている。


 配達不能ではない。


 配達困難なだけだ。


 そして、困難であれば。


 まだ仕事になる。

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