まだ落ちていません
第三支線風路は、行きよりも細くなっていた。
クラリスは、箒の柄を握り直す。
雲が低い。
丘の稜線が灰色に沈んでいる。
倒れた風標の方角から、湿った風が流れてくる。
行きには、まだ道と呼べた。
今はもう、糸だった。
空に残った、冷たい糸。
引けば切れそうで、放せば見失いそうな、かすかな魔力の流れ。
クラリスは、その糸に箒の穂先を乗せる。
「性格の悪い道ばかり、ですね」
風は答えない。
「結構。こちらも善良ではありませんので」
郵便鞄を、外套の内側へ抱え込む。
中には、ユアンの受領確認書がある。
まだ仕事は終わっていない。
第三支線は、アスケル丘陵の上を低く走っていた。
もともとは炭焼き村とローデン方面を結ぶ短い支線だったという。
風標が三基。
小さな中継塔が一つ。
整備されていれば、半日で抜けられる。
整備されていれば、の話である。
南側の風標は、先月の嵐で倒れた。
中継塔は調整待ち。
中央局は飛行禁止を出した。
判断としては、正しい。
実際、風は乱れている。
風標の灯が一つ失われただけで、空の道はこんなにも脆くなる。
クラリスは、正しい判断を嫌っているわけではない。
ただ、正しい判断で届かなくなる手紙がある。
それだけの話だ。
前方で、風が沈んだ。
箒ががくんと落ちる。
「減点です」
誰に言ったわけでもない。
クラリスは身体を低く倒し、箒を斜めに滑らせた。
正面から受ければ落とされる。
逆らわず、沈む風の縁をなぞる。
風路は消えていない。
落ちているだけだ。
落ちたものは、拾える。
拾えるうちは、まだ不能ではない。
右手の下に、黒い森が見えた。
左には崖。
その向こうに、倒れた風標の影がある。
灯はない。
鉄柱は折れ、硝子は割れ、風標石だけが雨に濡れている。
周囲の魔力は散っていた。
普通なら、そこで引き返す。
いや、普通であれば、そもそもこんなところにはいない。
引き返すための道も、もう細い。
進むしかない場合、人はそれを勇気と呼ぶことがある。
クラリスとしては、あまり好ましくない言い方だった。
だいたいの場合、それは勇気ではなく、選択肢不足である。
風標跡を越えた瞬間、風路が途切れた。
箒の下から、支えが消える。
落下。
ではない。
クラリスは奥歯を噛んだ。
「降下です」
自分に言い聞かせる。
「たぶん」
箒の穂先を下へ向ける。
森の上すれすれまで高度を落とす。
風路の残り香は、木々の上にもあった。
昔、荷の軽い便が低空で抜けたのだろう。
枝葉の間に、細い風の癖が残っている。
クラリスはそれを読む。
岩場を避け、沢の上を越える。
冷たい流れを拾う。
箒が、ふたたび前へ出た。
外套の裾が枝に引っかかり、びり、と音を立てる。
直したばかりだった。
クラリスはちらりと裾を見た。
「請求先が増えましたね」
王立魔法学院は、外套の修繕費を認めるだろうか。
認めないだろう。
ならば、配達料へ上乗せするしかない。
たいへん、公正である。
丘陵を抜ける頃には、空は暗くなっていた。
西の雲の隙間から、細い夕日が射している。
今日の日没ではない。
期限は明日の日没。
だが、油断できるほど長くもない。
学院本館へ直接戻すなら、ローデンを経由しない方が早い。
ただし、そのためには本線風路へ戻るのではなく、王立魔法学院の北側へ抜ける古い観測路を拾う必要があった。
中央局の新しい地図にはない。
古い訓練用の風路だ。
王立魔法学院の生徒たちが、かつて低空飛行の練習に使っていた道。
今は本線整備が進み、ほとんど使われていない。
クラリスは、その話を中央局時代に聞いたことがある。
使われなくなった風路は、すぐには死なない。
忘れられた道にも、しばらくは癖が残る。
人より、道の方が律儀なことは多い。
クラリスは夜の空へ目を凝らした。
星はまだ出ていない。
風標もない。
頼れるのは、手袋越しに伝わる魔力の冷たさだけだ。
指先を伸ばす。
空に、かすかな硬さがあった。
正規風路のような太い流れではない。
けれど、曲がり方が不自然に整っている。
人が訓練用に均した道の名残だ。
「ありました」
クラリスは、その古い観測路へ箒を入れた。
細く、浅く、そして、ひどく癖が強い。
学生の練習用として作られたのか、曲がり角が多い。
高度の上下も多い。
訓練のためだったのだろうが、今となってはただの嫌がらせである。
「教育熱心ですね」
クラリスは呟いた。
「迷惑です」
夜になった。
風が冷える。
途中、小さな森の上で一度だけ箒を止めた。
止めた、というより、落ちないために枝へ足をかけた。
ロウから渡された布袋を開ける。
固いパン。
燻製肉。
炭と煙の匂いがした。
クラリスはパンを少しだけ齧った。
硬い。
「燃料としては、優秀です」
誰も聞いていない。
それでも言った。
口の中が乾く。
水筒の水を一口だけ飲む。
郵便鞄を確認する。
無事。
それなら、休憩は終わりだ。
夜のうちに、古い観測路を抜ける。
明け方には学院北の丘へ出る。
そこから学院本館まで半日。
机上の予定としては美しい。
机上の予定というものは、だいたい空でよく死ぬ。
夜半、雨が降った。
細い雨だった。
針のように顔へ当たる。
視界が悪い。
風路の輪郭が滲む。
観測路の残り香が、雨に洗われて薄くなる。
クラリスは速度を落とした。
落としたくはない。
だが、確認書を濡らすわけにはいかない。
無理に飛んで落ちれば、期限以前の問題になる。
早さと安全は、いつも仲が悪い。
クラリスは、その間に立たされる。
実に迷惑である。
雨の向こうに、青白い灯が見えた。
風標ではない。
学院の観測灯だ。
古い訓練路の終点に置かれていたものだろう。
小さな塔の上で、弱い灯が揺れている。
クラリスはそこへ向かった。
灯があるだけで、空はずいぶん違う。
人が道を作る意味は、こういうところにある。
クラリスは、中央局の仕事を否定しているわけではない。
風標。
中継塔。
地図。
通達。
停止判断。
どれも必要だ。
ただし、それだけで十分ではない。
十分でない場所に、手紙はよく落ちる。
夜明け前、雨が止んだ。
東の空が白み始める。
遠くに、王立魔法学院の尖塔が見えた。
石造りの高い塔。
硝子張りの講義棟。
中庭には、訓練用の風標が整然と並んでいる。
整いすぎていて、少し腹立たしい。
クラリスは学院北側の風路へ入った。
ここからは早い。
整備された風は、箒を運ぶ。
ただ穂先を置くだけで、身体が前へ進む。
なんとも快適だ。
快適すぎて、昨日までの苦労が腹立たしい。
学院の時計塔が見えた。
日没までは、まだ余裕がある。
しかし、受付というものはしばしば日没より先に閉まる。
そして閉まった扉は、何よりも頑固なことがある。
クラリスは速度を上げた。
学院本館の前庭へ降りたとき、鐘が鳴っていた。
午後の三つ目の鐘。
日没まで、あと二刻ほど。
十分ではない。
足りるだけだ。
クラリスは箒を抱え、石段を上がった。
受付の学生が目を丸くする。
「どちらへ」
「入試課です」
「ご用件は」
「受領確認書の配達です」
「受付は正門側で」
「時間がありません」
「ですが、規則では」
クラリスは郵便鞄から封筒を取り出さず、外側の添付票だけを見せた。
王立魔法学院。
入試課。
繰り上げ合格。
受領確認期限、本日日没。
学生の顔色が変わった。
「少々お待ちください」
「少々は待ちます。日没までは待てません」
学生は走った。
廊下の奥から、眼鏡をかけた女性事務官が現れた。
赤茶色の髪をきっちりまとめ、腕に書類を抱えている。
「入試課のセリア・ハルムです。期限付き確認書と聞きましたが」
「クラリス・ヴェイン。私設郵便屋です」
セリアは一瞬、眉を動かした。
「私設?」
「はい」
「中央局便ではないのですか」
「中央局では期限内配達不能でした」
クラリスは防水袋を取り出した。
「ですので、私が届けました」
周囲にいた学生たちがざわつく。
セリアは防水袋を受け取り、封緘を確認した。
薄板を外し、確認書を広げる。
ユアン・ベルの署名。
インクは乾いている。
紙は折れていない。
滲みもない。
セリアは時計を見た。
まだ日没前。
それから、確認書の受付印を押した。
乾いた音が、廊下に響く。
受理。
クラリスは、その音を聞いて、ほんの少し肩の力を抜いた。
セリアは確認書をもう一度見下ろした。
「ユアン・ベル。アスケルの受験者ですね」
「はい」
「この通知は、中央局から返送予定と連絡が来ていました」
「封筒にも、そう書かれていました」
「期限内配達不能と」
「はい」
セリアはクラリスを見た。
「ですが、届いた」
「届きました」
「確認書も戻った」
「戻しました」
セリアは少し黙った。
事務官らしい沈黙だった。
驚いているのに、驚いていない顔を作ろうとしている。
クラリスは嫌いではなかった。
「受理時刻を記録します」
「お願いします」
「本日、第四鐘前。入学意思確認、有効」
セリアは記録簿に書き込んだ。
それから、別の書類を取り出す。
「ユアン・ベルの繰り上げ合格は、正式に確定します」
クラリスは頷いた。
「よろしい」
「あなたが言うことではないと思いますが」
「失礼。つい」
セリアは口元を押さえた。
笑いかけたのを隠したようにも見えた。
「クラリスさん」
「はい」
「配達証明を発行します。請求先は」
「王立魔法学院入試課へ」
「我々に?」
「風路が使えないと知りながら、今回の期限付き通知を出したのは学院です」
「まぁ、それは、たしかに」
セリアは淡々と頷いた。
「臨時配達料、危険風路通行、急送、保全処理。項目を確認します」
「外套修繕費は」
「認められません」
「予想通りです」
「ただし、危険風路通行に含められる可能性はあります」
クラリスは少しだけ目を細めた。
「理解のある入試課ですね」
「こちらも、繰り上げ枠を無駄にしたくありませんので」
セリアは書類に署名し、控えをクラリスへ差し出した。
王立魔法学院入試課。
受領確認書、期限内受理。
ユアン・ベル、繰り上げ合格確定。
クラリスは控えを受け取り、折れないように鞄へしまった。
「では、失礼します」
「もう帰るのですか」
「店がありますので」
「休まれては?」
「休んでいる間に、お客さんが来ては困るので」
「お忙しいんですか?」
「私の中では」
セリアはため息をついた。
「では、せめて正門からお帰りください。北側の訓練路は現在一部区間使用停止中です」
「存じています」
「使用されたのですか」
「存じています」
「クラリスさん」
「失礼します」
クラリスは軽く会釈し、石段を降りた。
前庭の風は穏やかだった。
学院の風標はすべて灯っている。
学生たちが遠巻きにこちらを見ている。
その中の誰かが、小さく言った。
「あれが、間に合わせた郵便屋?」
クラリスは聞こえないふりをした。
聞こえないふりは便利である。
ただし、褒め言葉には少し弱い。
箒にまたがる前に、学院の時計塔を見上げた。
日没まで、まだ時間がある。
ユアン・ベルは、まだ落ちていない。
いや。
もう、落ちなかった。
学院の時計塔が、日没前の鐘を一つ鳴らした。
クラリスは箒を浮かせる。
鞄の中には、期限内受理の控えがある。
赤い返送予定の判ではない。
黒い、学院の正式な印。
落ちたと思われていた少年の未来を、紙の上へ戻した印だった。
「まだ、落ちていません」
クラリスは小さく呟いた。
誰に聞かせるためでもない。
ただ、封筒に押された赤い結論へ言い返すために。
そして、ローデンへ向かう夕方の空へ、箒を進めた。




