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近道のない空

 ユアンは、しばらく封筒を開けられなかった。


 指は紙に触れている。

 宛名には、自分の名前が書かれている。

 王立魔法学院の紋章も、そこにある。


 けれど、あまりにも遅く来たものは、本物かどうか分からなくなる。


 ユアンは顔を上げた。


「あの」


「はい」


「これ、本当に」


「本当に王立魔法学院からです」


 郵便屋の女は、淡々と言った。


「封緘、紋章、添付票、いずれも確認済みです。偽造でしたら、もう少し趣味のよい赤い判を押すでしょう」


「赤い判……」


 ユアンは封筒の端を見た。


 期限内配達不能。


 その文字が、合格通知の上に押されている。


 落ちたと言われた理由が、そこにあった。

 届かなかった理由も、そこにあった。


 ユアンは息を吸った。


 指先で封を切る。


 中から出てきたのは、厚手の通知書と、薄い確認書だった。


 文字が揺れる。


 王立魔法学院、入試課。

 繰り上げ合格。

 入学意思確認。

 期限、明日の日没。


 そこまで読んだところで、視界が滲んだ。


「泣くのは結構ですが」


 女が言った。


「受領確認書から離れてください。涙は紙に染みます」


「……すみません」


「謝罪は不要です。手紙に被害がなければ」


 ユアンは袖で目元を拭った。


 ロウが、横から通知書を覗き込んだ。

 いつも炭の粉がついている大きな手が、触れていいのか分からないように宙で止まっている。


「ユアン」


「叔父さん」


「読めるか」


「うん」


「何て書いてある」


 ユアンは喉を鳴らした。


「合格、だって」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥がぐらりと揺れた。


 落ちたわけではなかった。

 まだ、終わっていなかった。


 ロウは、ゆっくり息を吐いた。


「そうか」


 それだけだった。


 ただ、ロウの黒い指が、ほんの少し震えていた。


 周囲の村人たちは、誰もすぐには喋らなかった。

 さっきまで笑っていたダリオも、口を半開きにしたまま立っている。


 その沈黙は、ユアンが今まで聞いたどんな笑い声よりも大きいように感じた。


「……繰り上げってことは」


 ダリオがようやく声を出した。


「最初から合格じゃなかったってことだろ」


 女が、そこで初めてダリオを見た。


 灰色がかった目だった。

 冷たいというより、余計な温度がなかった。


「次点です」


「だから」


「次点の者に枠が回った。期限内に受領確認を戻せば、正式な合格者です」


 女は通知書を指さした。


「つまり、まだ落ちていません」


 ダリオは何か言おうとした。


 言葉は出なかった。


 女は、それ以上相手にしなかった。


「ユアン・ベル様」


「は、はい」


「受領確認書に署名を。入学する意思があるなら、今すぐ」


「今すぐ?」


「はい。期限があります」


 ユアンは確認書を見下ろした。


 入学を希望する。

 期限内に受領確認が戻らない場合、繰り上げ枠は次候補へ移る。


 文字は丁寧だった。

 冷たくもあった。


 ユアンは唇を噛んだ。


「僕が、ここに署名したら」


「はい」


「学院に行けるんですか」


「受領確認が期限内に学院入試課へ戻れば」


「戻らなかったら」


「次の候補者へ移ります」


 ユアンは、思わず確認書を握りかけた。


 女の手が、すっと伸びた。


「握らないでください。紙が痛みます」


「す、すみません」


「お気持ちは分かりませんが、紙の状態は分かります」


 ユアンは確認書を両手で持ち直した。


 ロウが小屋の方へ向かう。


「ペンを持ってくる」


「インクは」


「ある。たぶん」


「たぶんでは困ります」


 女が言った。


 ロウは振り返った。


「炭焼き小屋に上等なインクを期待するな」


「上等でなくて結構です。滲まないものを」


「探す」


 ロウは小屋へ入っていった。


 村人たちは、まだざわついている。


「本当に合格なのか」


「繰り上げって何だ」


「学院から来たんだろ、あれ」


「でも中央局の判が」


「配達不能って書いてあるぞ」


 その言葉に、女が少しだけ顔を上げた。


「配達不能ではありません」


 静かな声だった。


 だが、妙によく通った。


「配達困難なだけ、です」


 村人たちの声が、また小さくなる。


 ユアンは、その横顔を見た。


 誰なのだろう、と思った。


 中央局の外套ではない。

 村へ来る郵便魔女とも違う。

 それなのに、手紙を差し出す動きだけは、とても自然だった。


 まるで、この人の前では赤い判の方が間違っているみたいに見える。


 ロウが戻ってきた。


 古いペンと、小さなインク壺を持っている。

 インク壺の縁には、黒い乾きかけの跡がついていた。


 女はそれを受け取り、光にかざした。


「使えます」


「鑑定でもしてるのか」


「していました」


 ロウは少し黙った。


「そうか」


 女は確認書を板の上に置いた。


「こちらへ」


 ユアンは膝をついた。


 指が震えている。

 ペンを持つ手が定まらない。


 名前なら何度も書いた。

 試験の願書にも書いた。

 練習用の紙にも書いた。


 けれど、今書く名前は、そのどれより重かった。


 ユアン・ベル。


 最後の線が少しだけ曲がった。


「曲がった」


「読めます」


 女は確認書を取り上げ、インクの乾きを確かめた。


「問題ありません」


 ユアンは息を吐いた。


 その途端、膝から力が抜けそうになった。


 だが、女はもう確認書を折りたたんでいる。


 薄板に挟み、防水袋に入れ、さらに郵便鞄の内側へしまう。

 動きに迷いがない。


「待って」


 ユアンは立ち上がった。


「もう行くんですか」


「はい」


「でも、さっき来たばかりで」


「帰らなければなりません」


「どこへ」


「学院入試課へ」


 ユアンは目を見開いた。


「ローデン受付じゃなくて?」


「ローデン受付に寄る時間はありません。正式な受付時刻を残すには学院本館へ直接戻した方が早い」


「そんな」


 ユアンは空を見た。


 アスケルの上には、灰色の雲がかかり始めていた。

 さっきまで薄かった雲が、丘の向こうから厚く流れてきている。


 女も空を見上げる。


「予想より沈みが早いですね」


「沈み?」


「風路です」


 女は箒を手に取った。


「第三支線は、思ったよりも長く保ちません」


 ロウが眉をひそめた。


「来た道を戻るんじゃないのか」


「戻ります」


「危ないのか」


「危なくない道なら、中央局が止めていません」


 当たり前のように言われて、ロウは口を閉じた。


 ユアンは思わず前へ出た。


「だったら、無理しなくても」


 言った瞬間、自分の声が情けないほど小さいことに気づいた。


 無理しなくても。


 それは、つまり。


 間に合わなくてもいい、と言いかけたのと同じだった。


 女はユアンを見た。


「無理をするかどうかは、こちらで決めます」


「でも」


「あなたの仕事は、署名をすることでした」


 女は郵便鞄を押さえた。


「私の仕事は、渡されたものっを届けることです」


 ユアンは何も言えなかった。


 ロウが、低く尋ねた。


「名前を聞いていなかったな」


「クラリス・ヴェインです」


「中央局の人間か」


「元、です」


「元?」


「追放されました」


 村人たちがざわついた。


 ロウは少しだけ目を細める。


「追放された人間に、うちの甥の将来を預けろと?」


「はい」


「随分酷な話だ」


「同感です」


 クラリスは即答した。


「ですが、現時点でこの確認書を期限内に学院へ戻せる可能性があるのは、私だけです」


 ロウは黙った。


 ダリオが、ぼそりと言った。


「追放された魔女なんかに任せて大丈夫なのかよ」


 クラリスはそちらを見た。


「ご心配なく」


「は?」


「私、届けられなかったことがありませんので」


 ダリオの顔が赤くなった。


 何か言い返そうとしたが、また何も出なかった。


 ロウが、小さく息を吐いた。

 笑ったのかもしれない。


「クラリスさん」


 ユアンは言った。


 まだ声は震えていた。


「僕、行きたいです」


「でしょうね」


「学院に、行きたいです」


「そのように確認書へ署名されています」


「だから」


 ユアンは言葉を探した。


 お願いします、と言いたかった。

 でも、それだけでは足りない気がした。


 この人は、お願いされたから飛ぶのではない気がした。


 手紙があるから飛ぶのだ。


「それを、届けてください」


 クラリスは、少しだけ目を細めた。


「承りました」


 彼女は箒にまたがった。


 そのとき、ロウが小屋へ走って戻った。


「待て」


 クラリスは眉を上げる。


「期限は待ってくれませんが」


「いいから」


 ロウは布袋を持って戻ってきた。


 中には、固いパンと燻製肉が入っている。

 それをクラリスへ差し出した。


「道中で食え」


「賄賂でしたら受け取りません」


「炭焼きが追放魔女に渡す賄賂なんてあるか」


 クラリスは少し考えた。


 それから袋を受け取った。


「では、輸送中の燃料として受領します」


「人間は道具じゃないぞ」


「私からしたら、似たようなものです」


 ロウは、何とも言えない顔をした。


 ユアンは、少しだけ笑った。

 今度は、ほんの少しだけ本当に。


 クラリスは空を見た。


 雲はさらに低い。

 北側の風標の灯が、丘の向こうで淡く揺れている。


 行きにはまだ細く残っていた道が、帰りにはもう、同じ形をしていない。


 風路は、空に引かれた線ではない。

 生き物のように揺れ、沈み、ほどける。

 地図に残っているから飛べるわけではない。

 昨日通れたから、今日も通れるわけではない。


 そして、近道はない。


 本線へ戻る道も、学院へ向かう道も、すべて今ある風を読むしかない。


 クラリスは箒の柄を握り直した。


「ユアン・ベル様」


「はい」


「また、お会いしましょう」


 ユアンは息を呑んだ。


 それは、合格を信じている言葉だと、なんとなく理解できた。


 クラリスは、それ以上何も言わなかった。


 箒が浮く。


 村人たちが空を見上げる。

 ダリオも、ロウも、ユアンも。


 深緑の外套が、灰色の空へ上がっていく。


 上昇は低く、速くはない。

 だが、迷いがなかった。


 クラリス・ヴェインは、崩れかけた第三支線風路へ戻っていく。


 近道のない空を、間に合わせるために。

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