表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/9

笑われた少年

 アスケルは、煙の匂いがする村だった。


 丘陵の斜面に沿って、炭焼き小屋が点々と並んでいる。

 黒く焼けた薪。

 低い屋根。

 風を避けるために石を積んだ壁。


 冬になれば、村中の煙突から細い煙が上がる。

 春になっても、炭の匂いは土に残る。


 ユアン・ベルは、その匂いが嫌いではなかった。


 ただ、自分が一生その匂いの中にいるのだと決められるのは、少し苦しかった。


「ユアン」


 小屋の外から声がした。


 ユアンは、積みかけていた薪から顔を上げた。


 呼んだのは、叔父のロウだった。

 大きな手をした男で、いつも炭の粉で指先が黒い。

 ユアンの父が亡くなってから、彼を引き取った人だった。


「手が止まってるぞ」


「ごめん」


「謝る前に動け。炭は待ってくれない」


「うん」


 ユアンは薪を抱え直した。


 腕に力を入れる。

 乾いた薪は軽いはずなのに、今日はやけに重く感じた。


 ローデンから帰ってきて、まだ一日も経っていなかった。


 王立魔法学院の入学試験を受けたのは、二週間ほど前。

 試験のあと、ユアンはローデンに残った。

 合格通知が来るかもしれないからだ。


 アスケルからローデンまでは遠い。

 一度帰ってしまえば、通知を確かめに行くのも簡単ではない。


 だから、村の荷馬車に乗せてもらったあと、親戚の納屋の隅を借りて、毎日ローデン受付へ通った。


 朝に一度。

 夕方に一度。


 王立魔法学院から通知は来ていませんか。


 最初は、背筋を伸ばして聞けた。

 二日目も、まだ聞けた。

 三日目には、受付の人の顔を見るだけで答えが分かるようになった。


 来ていません。


 その言葉を、何度聞いたか分からない。


 同じころ受付に来ていた受験生たちには、少しずつ通知が届いた。


 合格通知。

 不合格通知。


 どちらであっても、終わりが来る。


 ユアンには、何も来なかった。


 何も来ないのは、いちばん困った。


 諦めることも、喜ぶことも、泣くこともできない。

 ただ、まだかもしれない、と思い続けるしかない。


 そのうち、受付で顔を合わせる少年たちが言った。


 通知が来ないなら、落ちたんだろ。


 ユアンは笑い返せなかった。


 三日前の朝、もう待っても無駄だと思って、アスケルへ帰った。


 荷馬車に揺られて、二日半。

 村へ戻ったのは、昨日の夕方だった。


 そして今日。


 村には、もう話が広がっていた。


 王立魔法学院から、通知は来なかったらしい。

 ユアンは、何も持たずに帰ってきたらしい。

 やっぱり、落ちたらしい。


 噂というものは、風路よりも雑で、風路よりも速い。


「おい、学院様」


 背後から声がした。


 ユアンは薪を抱えたまま振り向かなかった。


「学院様じゃないか。いや、違うか。落ちたんだっけ」


 声の主は、ダリオ・ハントだった。

 村長の息子で、ユアンより二つ年上。

 試験を受けたわけではない。

 受けるつもりもない。

 それなのに、落ちた者を笑うのは得意だった。


 ダリオの後ろには、村の子が二人いた。

 どちらも、笑っている。


「通知、来なかったんだろ?」


 ユアンは薪を置いた。


「来なかった」


「なら落ちたんだよ」


「そうかもしれない」


「そうかもしれない、じゃないだろ」


 ダリオはわざと大きな声を出した。


「落ちたんだよ。王立魔法学院に。炭焼きの子が、魔法なんて言うから」


 ロウが薪割り場の向こうで手を止めた。


 ユアンは、叔父の方を見ないようにした。


 見れば、もっと情けなくなる。


「まだ、不合格通知も来てない」


 ユアンは言った。


 声は小さかった。


 ダリオが鼻で笑う。


「合格してたら通知が来るだろ。不合格通知も来ないってことは、書く価値もなかったんじゃないのか」


 後ろの二人が笑った。


 ユアンは唇を噛んだ。


 言い返す言葉はいくつも浮かんだ。

 でも、どれも届かなかった。


 通知が来ていない。


 その事実だけで、全部負けている気がした。


「ダリオ」


 ロウの声がした。


 低い声だった。


「仕事の邪魔だ。帰れ」


「邪魔なんてしてませんよ」


「してる」


「本当のことを言ってるだけです」


 ダリオは肩をすくめた。


「ユアンも、そろそろ夢から覚めた方がいいと思って。炭焼きには炭焼きの仕事がありますから」


「帰れ」


 ロウがもう一度言った。


 今度は、かなり低かった。


 ダリオは少しだけ顔を引きつらせたが、すぐに笑ってごまかした。


「はいはい。じゃあな、学院様」


 彼らは笑いながら去っていった。


 ユアンは、置いた薪をまた持ち上げた。


 腕に力が入らない。


「ユアン」


 ロウが近づいてきた。


「気にするな」


「気にしてない」


「嘘をつくな。下手だぞ」


 ユアンは黙った。


 ロウは、しばらくユアンを見ていた。


 それから、地面に置かれた薪の束を片手で持ち上げた。


「今日はもういい」


「でも」


「いいと言った」


「仕事、残ってる」


「残ってる。だから明日やる」


 ユアンは首を横に振った。


「明日もあるなら、今日やらないと」


「そういうところだけ大人ぶるな」


 ロウは薪を小屋の脇に置いた。


「落ちたなら、落ちたでいい」


 ユアンの肩が、少し震えた。


 ロウは続けた。


「いいってのは、夢を諦めろって意味じゃない。生きてれば、次があるって意味だ」


「王立魔法学院は、年齢制限がある」


「なら、別の道を探す」


「簡単に言わないでよ」


 ユアンの声が、少しだけ荒くなった。


 自分でも驚いた。


 ロウは怒らなかった。


「ああ。簡単じゃない」


「分かってるなら」


「分かってるから、飯を食えと言ってる」


 ユアンは顔を上げた。


 ロウは腕を組んでいた。


「腹が減ったまま絶望するな。碌なことにならん」


「……何それ」


「俺の経験だ」


 ユアンは、笑うべきなのか分からなかった。


 結局、笑えなかった。


 小屋の奥へ戻ろうとしたとき、村の入口の方で犬が吠えた。


 一度。

 二度。


 それから、子どもの声がした。


「空だ!」


 ユアンは足を止めた。


 アスケルの空に、郵便魔女は来ない。


 少なくとも、ここしばらくは来ていない。


 第三支線風路が閉じられてから、中央局の便は丘の向こうで止まる。

 村へ来るのは、地上の荷馬車か、まとめて回される遅い便だけだ。


 だから、空から来る者がいるとすれば、それは迷った旅人か、無謀な魔女か、あるいは。


 ユアンは空を見上げた。


 丘の上、薄い雲の下。

 黒に近い深緑の外套が見えた。


 箒に乗った女が一人、低い風を切って降りてくる。


 速くはない。

 むしろ、ずいぶん慎重な飛び方だった。


 だが、その箒はまっすぐ村へ向かっていた。


 村の者たちが、次々と外に出てくる。


「郵便か?」


「中央局の外套じゃないぞ」


「誰だ、あれ」


 ダリオたちも戻ってきた。

 さっきまでの笑い顔のまま、空を見上げている。


 箒の女は、村の入口近くに降りた。


 着地の瞬間、外套の裾が風で大きく揺れる。

 片手には箒。

 腰には郵便鞄。


 女は周囲を一度見回し、村の傾いた標識を確認した。


 それから、迷わずこちらへ歩いてきた。


 ユアンは、動けなかった。


 女の靴が、炭の粉で黒くなった地面を踏む。


 ロウが前へ出た。


「あんたは」


「郵便屋です」


 女は淡々と言った。


 村の者たちがざわついた。


「郵便? 中央局はもう飛ばないって」


「はい」


 女は頷いた。


「ですので、私が来ました」


 ダリオが小さく笑った。


「何だよ、それ」


 女はそちらを見なかった。


 郵便鞄を開ける。

 中から、白い封筒を取り出した。


 厚手の紙。

 端に金の線。

 王立魔法学院の紋章。


 ユアンの喉が、動かなくなった。


 女は封筒の宛名を確認し、まっすぐに言った。


「ユアン・ベル様」


 ユアンは、返事をしようとした。


 声が出なかった。


 ロウが背中を軽く押した。


「ユアン」


「……はい」


 やっと声が出た。


 女は一歩近づき、封筒を両手で差し出した。


「王立魔法学院より、繰り上げ合格通知です」


 村のざわめきが、そこで切れた。


 ダリオの笑い声も、止まった。


 ユアンは封筒を見た。


 白い紙。

 金の線。

 学院の紋章。


 そして、端に押された赤い判。


 期限内配達不能。


 その赤い判の上に、女の指が静かに添えられていた。


「この手紙は、まだあなたを落としていません」


 女は言った。


「泣くのは結構ですが、受領確認書を書いてからにしてください。期限があります」


 ユアンは、封筒を受け取った。


 指が震えた。


 紙は、思っていたよりも重かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ