返された合格通知
配達不能印の押された封筒には、いくつか種類がある。
最初から諦めたように、紙の端がくたびれているもの。
何度も局を回され、角が潰れ、宛名の上に照会印ばかり増えているもの。
赤い判を押された瞬間に、自分の役目を終えたような顔をしているもの。
クラリス・ヴェインは、そういう封筒を見るたびに思う。
封筒が諦めるわけではない。
諦めるのは、たいてい人間の方である。
辺境町ローデンの外れ。
小さな私設郵便屋の仕分け棚には、赤い判の押された封筒が一通だけ置かれていた。
相談は増えた。
だが、依頼は増えていない。
料金を聞いて帰る者。
封筒を出す前に迷って帰る者。
中央局にもう一度聞いてみます、と言って帰る者。
店の看板を読む人は増えた。
帳簿の赤い数字も増えた。
たいへん不本意である。
配達困難郵便、承ります。
配達不能印の押されたものも、ご相談ください。
そう看板に書いたのは、もちろんクラリス自身だ。
だから、相談が来ることに文句を言う筋合いはない。
ないのだが、相談だけでは暖炉に火は入らない。
クラリスは帳簿を閉じた。
「慈善事業ではないのですが」
この言葉は、最近ほとんど挨拶になっている。
重ねて、不本意である。
増えたのは他にもある。
先日、旧ミルゼ村への婚礼通知を届けてから、通りで立ち止まる人も増えた。
看板を読む人も増えた。
扉の前まで来て、何も言わずに帰る人も増えた。
つまり、客になる一歩手前の人間ばかりが増えた。
大変結構。
できれば一歩、踏み込んでいただきたい。
暖炉にはまだ火がない。
茶葉の缶も相変わらず軽い。
ただ、破れた外套の裾だけは、町の仕立屋が半額で直してくれた。
理由を聞いたら、仕立屋はこう言った。
「うちの娘が、エマちゃんと友達でね」
評判とは、たまに裾を直す。
悪くない。
そのとき、扉の鈴が鳴った。
からん、と頼りない音。
クラリスは顔を上げる。
入ってきたのは、地方郵便受付の職員だった。
若い男で、名前はたしか、カミル・ロット。
中央局の制服ではなく、ローデン受付の茶色い上着を着ている。
腕には、革紐でまとめた返送予定の郵便束を抱えていた。
たいへん嫌な束である。
クラリスは目を細めた。
「ロットさん」
「お、お邪魔します」
「邪魔かどうかは、用件によります」
カミルは扉の前で立ち止まった。
どうやら、入ってすぐ後悔したらしい。
その判断力は悪くない。
ただし少し遅い。
「その束は」
「返送予定分です」
「私の店は、返送受付ではありません」
「知っています」
「では」
クラリスは、机の上を軽く指で叩いた。
「わざわざ返送予定の郵便を持って、追放された魔女の店へ来た理由をどうぞ」
カミルは息を吸い、束の一番上から一通の封筒を抜いた。
白い封筒だった。
厚手で、端に金の線が入っている。
表には、王立魔法学院の紋章。
その上に、中央局の赤い判が押されていた。
期限内配達不能。
最短支線風路閉鎖中。
返送予定。
クラリスは、少しだけ姿勢を正した。
婚姻の封筒に配達不能印が押されているのも趣味が悪かったが、合格通知に押されているのもなかなかよろしい。
よろしい、というのはもちろん、腹立たしいという意味である。
「王立魔法学院からですか」
「はい。入試課からの期限付き通知です」
「受取人は」
「ユアン・ベル。北西の炭焼き村、アスケルの少年です」
クラリスは封筒を手に取った。
封は開いていない。
当然だ。
郵便官が手紙の中身を見ることはない。
ただし、表書きと添付票で分かることはある。
王立魔法学院。
入試課。
繰り上げ合格。
受領確認期限、明日の日没。
クラリスは添付票を見下ろした。
「明日の日没……?」
「はい」
「今は」
「昼前です」
「通常便なら?」
「三日かかります」
「最短支線は?」
「閉鎖中です」
「閉鎖理由は?」
「アスケル丘陵を抜ける第三支線風路の風標が、先月の嵐で一基倒れました。中継塔も調整待ちです。中央局からは、復旧まで飛行禁止と通達が」
「実に整った配達不能ですね」
クラリスは封筒を机に置いた。
カミルは困った顔をした。
「整っている、のですか」
「はい。宛先はある。受取人もいる。手紙の意味も明確。期限も短い。ですが通常便では間に合わず、近道は閉鎖中」
クラリスは赤い判を指で軽く叩いた。
「中央局が判を押すには、たいへん都合がよろしい」
「……それで、返送予定になりました」
「でしょうね」
カミルは帽子を握りしめた。
「でも、その子は」
「お知り合いで?」
「直接は。ただ、試験のあと、ローデンに残って通知を待っていたんです。遠い村の子は、そうすることがありますから」
クラリスは顔を上げた。
「その子も?」
「はい。学院から通知は来ていませんか、と、毎日受付に来ていました。朝と夕方に」
カミルは視線を落とした。
「他の受験生には、少しずつ通知が届き始めていました。でも、ユアンには何も来なかった」
「それで?」
「受付で何度も顔を合わせていた子たちに、笑われていたそうです。通知が来ないなら、落ちたんだろう、と」
カミルは、封筒の端を見た。
「数日前に、もう待っても無駄だと言って、アスケルへ帰りました。今ごろは、村に着いているはずです」
店の中が、少し静かになった。
外では荷馬車の車輪が石畳を鳴らしている。
風路観測針が窓辺で小さく揺れている。
それらの音だけが、やけにはっきり聞こえた。
クラリスは封筒を見た。
落ちたと思われた少年。
返送されかけた通知。
期限は明日の日没。
王立魔法学院の繰り上げ合格通知。
繰り上げ合格とは、奇妙な手紙だ。
届けば道が開く。
届かなければ、なかったことになる。
不合格だった者が、期限付きで合格者になる。
ただし、間に合った場合に限り。
クラリスは、そういう手紙が嫌いではなかった。
急がなければ死ぬ手紙は、正直でよろしい。
「ロットさん」
「はい」
「この封筒は、あなたがここへ持ってきたのですか」
「はい」
「返送処理前に?」
「はい」
「中央局の規定では、よくありませんね?」
カミルの顔が青くなった。
「やっぱり、まずかったでしょうか?」
「まずいです」
「で、でも、旧ミルゼ村の件を聞いて。こちらなら、もしかしてと思って」
「たいへんまずいです」
クラリスは手袋をはめた。
「ですが、持ってきた判断は悪くありません」
カミルが顔を上げた。
「では」
「返すにはまだ、早いですね」
クラリスは封筒を持ち上げた。
「この手紙は、まだ少年を落としていません」
カミルの喉が、小さく動いた。
「届けられますか」
「確約はしません」
クラリスは壁の地図へ向かった。
新しい風路図。
その下に貼った古い支線図。
さらに、先月の嵐で閉鎖された区間を自分で書き足した紙片。
アスケルは、丘陵地帯の端にあった。
炭焼き小屋が点在し、冬には煙で空が鈍くなる土地だ。
本線風路から回れば三日。
馬車でも二日半。
だが第三支線風路を抜ければ、半日で行ける。
その第三支線が、今は閉じている。
地図上では。
クラリスは観測針を手に取った。
「第三支線の風標は一基だけ倒れたと?」
「はい。南側の風標です。北側二基はまだ灯っています」
「なら、完全閉鎖ではありませんね」
「中央局の通達では、閉鎖中です」
「中央局の通達は理解しています」
クラリスは窓を開けた。
冷たい風が入る。
観測針の先が、北西へわずかに傾いた。
「従うかどうかは別です」
カミルが、何か言いたそうな顔をした。
だが、ぐっと、飲み込んだようにも見えた。
たいへん賢明である。
クラリスは封筒を机に戻し、宛先票をもう一度確認した。
ユアン・ベル。
アスケル村、炭焼き小屋区、ベル家。
住所はある。
受取人もいる。
問題は、時間と空だけだ。
いつものことである。
「学院への受領確認は」
「通知と一緒に確認書が入っているはずです。本人の署名をもらって、明日の日没までに学院受付へ戻す必要があります」
「往復ですか」
「はい」
「たいへん格式ある嫌がらせですね」
「嫌がらせでは、ないと思いますが……」
「制度の顔をしている嫌がらせは、見分けがつきにくいものです」
クラリスは郵便鞄を開けた。
内側の平たい区画。
防水袋。
折れ防止の薄板。
繰り上げ合格通知は、そこに入れた。
「料金は」
カミルが慌てて言った。
「ローデン受付としては、正式に依頼できません。中央局の返送予定郵便を私が勝手に」
「つまり、払えない」
「……はい」
「大変ですね」
「すみません」
「謝罪で箒は飛びません」
カミルは肩を落とした。
クラリスは外套を取った。
「ですが、請求先はあります」
「え?」
「王立魔法学院です。期限付き通知を、通常便では間に合わない場所へ出したのは学院でしょう」
「学院に請求するんですか」
「届けば、ですけど」
クラリスは外套の留め具を締めた。
「届かなければ、いつも通り赤字です」
「いつも通り……」
「そこは気にしないでください。私が気にすることです」
カミルは、少しだけ笑いそうになった。が、笑わなかった。
たいへん惜しい。
クラリスは箒を手に取り、扉へ向かう。
「ロットさん」
「はい」
「この封筒のことは、あなたの受付記録にどう残しますか」
「ええと」
「返送予定郵便、私設郵便屋へ相談。配達可否確認中。そう書いてください」
「そんな記録、通りますか?」
「通らなければ、あなたも追放されます」
カミルの顔が、今度こそ青くなった。
クラリスは少し考えて、言い直した。
「冗談です」
「冗談に聞こえません」
「失礼。半分でした」
「半分」
「記録は必要です。記録がなければ、届いた後に困ります」
カミルは唇を引き結び、頷いた。
「分かりました。記録します」
「よろしい」
クラリスは扉を開けた。
外の空は晴れていた。
ただし、西の丘陵には低い雲がかかっている。
第三支線風路は、あの雲の下を抜ける。
倒れた風標。
調整前の中継塔。
期限は明日の日没。
そして、合格通知を待つ少年。
条件としては、悪くない。
クラリスは箒にまたがった。
「クラリスさん」
カミルが店の前で呼んだ。
「間に合いますか」
クラリスは少しだけ振り返る。
「間に合わない、と言うのは、中央局の仕事です」
「では、あなたの仕事は」
「間に合わせることです」
風が、足元に集まる。
クラリスは小さく息を吐いた。
「配達困難郵便、承りました」
箒が浮く。
店の看板が下に遠ざかる。
通りの人々が、何人か足を止めて空を見上げた。
クラリス・ヴェインは、北西へ向かった。
返された合格通知を、返さないために。




