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母からの返事

 リディアは、すぐには戻らなかった。


 家の奥で、戸棚を開ける音がする。

 箱を動かす音。

 古い引き出しが、少し渋そうに鳴る音。


 クラリスは扉の外に立ったまま、空を見上げた。


 雲が近い。

 さっきまで山の稜線に引っかかっていただけの灰色が、もう村の上まで降りてきている。


 風路は、帰りの方が細くなるかも。


 行きに使えた道が、帰りにも同じ顔をしているとは限らない。

 特に、山の風は気が短い。

 郵便魔女に対する礼儀というものを知らない。


「教育が必要ですね」


 クラリスは空に向かって言った。


 当然ながら、風は返事をしなかった。


 家の中から、リディアの声がした。


「郵便屋さん」


「はい」


「入っておくれ。外は冷える」


「結構です」


「返事を書くのに、少し手が震えるんだよ。机を押さえてくれないかい」


 クラリスは一拍置いた。


「それは郵便業務に含まれますか」


「知らないね」


 リディアは奥で笑った。


「でも、急いでいるんだろう」


 クラリスは扉の前で少しだけ迷い、それから家に入った。


 室内は狭く、しかし手入れが行き届いていた。

 炉には小さな火がある。

 窓辺には乾いた薬草。

 壁には古い家族絵が一枚。


 幼い少女が、若い母親の膝に座っている。

 少女の髪には、青いリボンが結ばれていた。


 その少女が、エマなのだろう。


 リディアは木の机の前に座っていた。

 机の上には、便箋と封筒。

 その横に、小さな木箱が置かれている。


「そこを押さえていておくれ」


 クラリスは言われた通り、便箋の端に指を置いた。


 リディアはゆっくりとペンを取る。


 文字は、少し震えていた。


 けれど、一文字ずつ、丁寧だった。


 クラリスは読まなかった。

 ただ、インクが乾く前に紙が動かないよう、机の端を押さえていた。


 郵便屋が手紙の中身に踏み込む必要はない。

 だが、手紙が書かれる時間を守る必要はある。


 炉の火が小さく鳴る。


 リディアは短い手紙を書き終えると、しばらくペンを握ったままでいた。


「怒っていると思うかい」


「どなたが」


「エマが」


「私には分かりません」


「郵便屋なのに」


「郵便屋だからです」


 クラリスは答えた。


「手紙を読む前の人の気持ちまでは、配達できません」


 リディアは小さく笑った。


「そうかい」


「はい」


「じゃあ、読んだ後に任せるしかないね」


 リディアは便箋を折り、封筒に入れた。


 それから、机の上の木箱を開ける。


 中に入っていたのは、小さな髪飾りだった。


 銀細工ではない。

 宝石もついていない。

 薄い青の布花を、古い金具に縫いつけたもの。


 高価な品ではなかった。


 ただ、丁寧に包まれていた。

 何度も出しては戻した跡があった。

 渡す日を待つものは、使われていなくても少しずつ古くなる。


「これは」


「エマが町へ行く日に渡すつもりだった」


 リディアは髪飾りを見下ろした。


「あの子は、朝からずっと強がっていてね。村を出るのは平気だって顔をしていた。だから私も、平気な顔をした」


 クラリスは黙って聞いていた。


「帰ってきたら渡そうと思ったんだよ。町で困ったら、帰っておいで、とも言えなかった。言えば、あの子の足を引っ張ると思った」


 リディアは髪飾りを、薄い布で包んだ。


「違うね、つまらない意地なんて張らずに、渡せばよかった」


 包みは、小さかった。

 郵便鞄に入る。

 重さもない。


 だが、軽い荷物ほど扱いに困ることがある。

 重さがないものは、落としたときの音も小さい。


 小さい音は、あとから大きく響く。


「婚礼の日につけるには、少し古いかもしれないね」


「布花は傷んでいません」


「見たのかい」


「郵便物の状態確認です」


 クラリスは淡々と言った。


「十分、使えます」


 リディアは、また少し笑った。


「じゃあ、お願いしようかね」


「承りました」


 クラリスは封筒と包みを受け取った。


 まず封筒。

 次に髪飾り。

 手紙と品を同じ防水袋に入れるか、一瞬だけ考える。


 手紙は紙。

 髪飾りは布と金具。

 雨に弱いのはどちらも同じ。

 だが金具が封筒を傷つける可能性がある。


 別々に包む。


 クラリスは郵便鞄から薄い保護布を出し、髪飾りを包み直した。

 封筒は内側の平たい区画へ。

 髪飾りはその隣、揺れの少ない場所へ。


 リディアが、その手つきをじっと見ていた。


「丁寧だね」


「雑に扱う理由がありませんので」


「中央の郵便も、昔はそうだったよ」


 クラリスは鞄の留め具を締めた。


「今も、丁寧な方はいます」


「そうかい」


「はい」


 クラリスは言った。


「ただ、少なくなりました」


 リディアは何も言わなかった。


 外で、風が戸を叩いた。


 一度。

 二度。


 リディアが窓の外を見る。


「荒れるね」


「はい」


「泊まっていくかい?」


「明日のほうがマシ、という保証もありませんので」


「そうだったね」


 リディアは頷いた。


「では、郵便屋さん」


「はい」


「あの子に、言っておくれ」


 クラリスは少しだけ眉を動かした。


「伝言を頼むくらいなら、手紙に書いてください」


「書いたよ」


「では、それで十分です」


「そうかい」


 リディアは、困ったような、嬉しそうな顔をした。


「本当に妙な郵便屋だ」


「よく言われます」


 クラリスは扉へ向かった。


 外に出る直前、リディアがもう一度呼んだ。


「クラリスさん」


 名前を呼ばれて、クラリスは振り返った。


 教えた覚えはない。

 だが、郵便鞄の内側にも名は書いてある。

 見えたのだろうか。


「エマに、ありがとうと」


 クラリスは返事をしなかった。


 リディアは、すぐに自分で気づいたように笑った。


「手紙に書いたよ」


「でしたら、私からは申し上げません」


「うん」


「その方が、きっと正確です」


 リディアは深く頷いた。


「気をつけてお行き」


「お気遣いなく」


「するよ」


「では、配達など頼まないでください」


 リディアが一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。


 その笑い声を背に、クラリスは外へ出た。


 風が冷たい。


 村の入口に立つ古い郵便受けが、かたかたと鳴っていた。

 取扱停止中の札も、同じように揺れている。


 停止中。


 クラリスはその札を見た。


 そして、何も言わずに箒へまたがった。


 郵便鞄を確かめる。

 封筒は無事。

 髪飾りも無事。


 よろしい。


 空へ上がる。


 行きよりも風は荒れていた。


 旧支線風路は、村を出たところでもう乱れている。

 細い流れが、雲の重さに押しつぶされかけていた。


 普通なら、村に泊まる。

 いや、普通ならそもそも来てすらいないか。


 クラリスは箒の柄を握り直した。


「普通でない者だけが、この扉を叩く」


 自分の店で思った言葉を、思い出す。


 では、普通でない郵便屋には、普通でない帰り道がふさわしい。


 まったく、趣味が悪い。


 風が斜めから来る。

 冷たい霧が視界を削る。

 山の尾根がすぐ近くにあるはずなのに、白く濁って見えない。


 クラリスは速度を落とした。


 急げば落ちる。

 遅すぎれば、風路が閉じるかもしれない。


 厄介である。


 彼女は左手を伸ばし、霧の中を探った。

 指先に、冷たい糸のような感触が触れる。


 旧風路の残りだ。


 行きより細い。

 行きより低い。

 行きより機嫌が悪い。


「たいへん結構」


 クラリスは言った。


「性格の悪い道は、嫌いではありません」


 箒を低く倒し、流れに乗る。


 風が強くなる。


 一基目の風標跡を越えたところで、雨が来た。


 細かい雨だった。

 針のように細く、肌に刺さる。

 郵便鞄の表面に、すぐ水滴が浮いた。


 クラリスは外套の内側へ鞄を抱え込む。


 代わりに、身体のバランスが崩れた。


 箒が右へ流される。

 岩壁が近い。


 クラリスは足で柄を押さえ、左肩から風を受けた。

 外套が大きく膨らむ。

 肩に痛みが走る。


 だが、鞄は濡れない。


「封筒優先」


 短く言って、彼女は旧風路の流れへ箒を戻した。


 雨はすぐに強くなった。


 行きで見えなかった二基目の風標跡。

 その焼け跡の上を通るころには、雲の中に雷の低い音が混ざっていた。


 これはよくない。


 風路は魔力の道だ。

 雷は、乱れた魔力を好む。

 古い支線風路に落ちれば、残っている細い流れごと裂ける。


 つまり、落ちる。


 実に分かりやすい危険である。

 分かりやすいだけで、好ましくはない。


 クラリスは観測針を取り出した。


 風の中で針が暴れる。

 北東。

 下。

 南。

 上。


 役に立たない。


「減点です」


 クラリスは針をしまった。


 道具が駄目なら、自分の目で読むしかない。


 目といっても、見えるわけではない。

 風路は光る線ではない。

 空気の重さ、箒の沈み方、頬を撫でる冷たさ、魔力が皮膚の奥を通る感覚。

 それらのわずかな違いを、拾う。


 クラリスにはそれができた。


 だから追放された。


 だから今、ここにいる。


 雷が鳴った。


 近い。


 クラリスは箒を落とした。

 落下ではない。降下だ。


 たぶん。


 旧風路の上層を捨て、山肌に近い低い流れへ入る。

 そこは乱れていたが、雷からは少し遠い。

 岩と木々の匂いが近づく。


 箒の穂先が枝をかすめた。

 枯れ葉が舞う。

 外套の裾が裂ける音がした。


 不本意である。


 袖は直したばかりだった。


 しかし、鞄は無事だ。

 ならば大きな問題ではない。


 山の斜面を抜けると、ローデンへ続く本線風路の灯が遠くに見えた。


 青白い風標の灯。

 整った流れ。

 中央局の管理する、安全な空。


 クラリスは、そこへ箒を向けた。


 旧支線風路から本線へ戻る瞬間、身体が軽くなる。

 太い流れに乗ると、箒が勝手に前へ出る。


 楽だ。


 腹立たしいほどに。


 整備された道は、やはり必要だった。

 中央局の仕事は、間違っていない。


 ただ、間違っていないものだけで届く手紙ばかりではない。


 クラリスはローデンの町へ降りた。


 雨は、町にも届き始めていた。


 店の前に、エマがいた。ずっと待っていたのだろうか。


 扉の軒下で、両手を握りしめて立っている。

 薄青の外套は雨で少し暗くなり、目元はまた赤くなっていた。


 今度は、泣いていたのだろう。


 クラリスは箒から降りた。


「封筒からは離れておいででしたか」


 エマがぽかんとした顔をした。


「え?」


「涙です」


 クラリスは郵便鞄を開けた。


「紙に染みますので」


 エマの顔が、くしゃりと歪んだ。


「母に、会えましたか」


「はい」


「母は、まだ」


「いらっしゃいました」


 クラリスは封筒を取り出した。


 リディアからの返事。

 濡れていない。

 角も折れていない。


「リディア・アウル様より、エマ・リース様へ」


 エマは、震える手で封筒を受け取った。


 その瞬間、彼女は膝から崩れそうになった。

 クラリスは一歩だけ近づく。


 支えようとしたわけではない。

 封筒が落ちると困るからだ。


 エマは何とか踏みとどまった。


「それと」


 クラリスは、もう一つの包みを出した。


「こちらもお預かりしています」


「これは」


「髪飾りだそうです。婚礼の日に、とのことです」


 エマの唇が震えた。


 包みを開ける。

 薄い青の布花が、雨の匂いのする軒下で小さく揺れた。


 エマは声を出さなかった。


 ただ、髪飾りを両手で包むように持った。


「母からですか」


「はい」


「元気そうでしたか」


「そのようです」


「私、帰らなかったのに」


「はい」


「手紙も、遅くなったのに」


「はい」


「怒って、いませんでしたか」


 クラリスは少し考えた。


 郵便屋が答えることではない。

 だが、リディアは手紙を書いた。

 ならば答えはそこにある。


「それは、読めば分かるのではないでしょうか」


 エマは封筒を見た。


 封を切る手が震えている。


 クラリスは、少し離れた。

 扉の横に立ち、雨の線を見ていた。


 手紙は、受取人のものだ。


 中身を読む声は、聞こえなかった。

 ただ、紙を開く音だけがした。


 しばらくして、エマが小さく息を呑んだ。


 それから、泣いた。


 今度は間違いなく泣いた。


 クラリスは、封筒が濡れていないことを確認した。


 よろしい。


「ありがとうございました」


 エマの声は、雨よりも細かった。


「母に知らせることができたのも、返事が来たことも……本当に」


「料金は」


 クラリスは言いかけて、やめた。


 今ではない。


 たいへん不本意だが、今ではない。


 エマが顔を上げる。


「はい。もちろん、お支払いします」


「戻ってからで結構です」


「もう、戻っています」


「では、落ち着いてからで結構です」


 エマは、泣きながら少し笑った。


「よろしくは、ないのでは」


「よろしくはありません」


 クラリスは扉を開けた。


「ですが、今は届いたものが先です」


 エマは髪飾りを胸に抱いた。


「母に、返事を書きます」


「明日以降をおすすめします」


「え?」


「北の山は、三日荒れます」


 クラリスは濡れた外套を見下ろした。


「本日二度目の配達は、私も遠慮したいので」


 エマは、今度こそ声を出して笑った。


 笑いながら、また泣いた。


 クラリスは店の中へ入り、郵便鞄を机の上に置いた。

 濡れた外套を脱ぎ、裂けた裾を見る。


 仕立屋に、また笑われる。


 不本意である。


 だが、仕分け棚の上に置かれた配達完了印を手に取ると、その不本意も少しだけ薄れた。


 クラリスは帳簿を開いた。


 赤字の行の下に、新しく一行を書く。


 エマ・リース様より、リディア・アウル様宛。

 婚礼通知。

 旧ミルゼ村。

 配達完了。


 それから、少しだけ迷って、備考欄に小さく書き足した。


 返事および髪飾り、受領済み。


 帳簿の赤字は、消えない。

 暖炉の火も、まだついていない。

 茶葉の缶も軽いままだ。


 けれど店の外で、エマが髪飾りを握りしめて泣いている。


 道の向こうでは、さっきまで看板をちらりと見て通り過ぎていた男が、足を止めていた。

 雨よけの帽子を押さえながら、店の文字を読んでいる。


 配達困難郵便、承ります。

 配達不能印の押されたものも、ご相談ください。


 男はしばらく迷い、それから胸元から一通の封筒を取り出した。


 赤い判が、そこに見えた。


 クラリスは窓越しにそれを見た。


「……慈善事業ではないのですが」


 そう言いながら、彼女は濡れていない手袋を探した。




 同じころ、中央局の配達不能判定課では、若い記録官が一枚の報告票を見下ろしていた。


 テオ・ランズは、羽根ペンの先をインク壺の縁で止めたまま、何度もその文面を読み直している。


 旧ミルゼ村宛、婚礼通知。

 宛先照合不能。

 認可風路なし。

 配達不能。


 そのはずだった。


 しかし、地方郵便受付から回ってきた照会票には、別の記載がある。


 受取人リディア・アウル、現地所在確認。

 返送なし。

 配達済み。


 テオは、喉の奥が少し乾くのを感じた。


 記録に誤りがあるのか。

 地方受付の記載ミスか。

 それとも、本当に届いたのか。


 誰が。


 彼は、半年前の査問室を思い出した。


 白い部屋。

 赤い配達不能印。

 外套を取り上げられても、声の揺れなかった女。


 郵便官は、そう書かれたものを棚に戻せるほど器用ではありません。


 テオは報告票を持って、席を立った。


 経路管理課の奥で、マルタ・キールが書類を読んでいる。


「キール課長」


「何ですか」


「旧ミルゼ村宛の婚礼通知について、地方受付から照会が上がっています」


「旧ミルゼ村?」


「はい。台帳上は、オルガ村へ統合済みです。支線風路は閉鎖中。判定は配達不能」


「ならば処理済みでしょう」


「そのはずですが」


 テオは報告票を差し出した。


「配達済みになっています」


 マルタの手が、そこで止まった。


 彼女はゆっくりと顔を上げる。


「誰が届けたのです」


「記録上は、中央局所属の郵便魔女ではありません」


「では誰ですか」


 テオは少しだけ息を吸った。


「私設郵便屋、クラリス・ヴェイン」


 マルタ・キールの表情は変わらなかった。


 ただ、報告票を受け取る指先だけが、わずかに強く紙を押さえた。


「……あの魔女ですか」


「はい」


「配達不能判定に、誤りはありません」


 マルタは言った。


 その声は、いつも通り冷静だった。


「旧ミルゼ村への認可風路は存在しません。中央局としては、その判定を維持します」


「ですが、手紙は届いています」


 テオは言ってしまってから、自分の声が少し強かったことに気づいた。


 マルタの目が、彼を見る。


「ランズ記録官」


「はい」


「一件の成功は、制度の正しさを否定しません」


「……承知しています」


「けれど」


 マルタは報告票に視線を落とした。


 短い沈黙があった。


「一件の成功は、無視するにも少し目立ちます」


 テオは、何も言えなかった。


 マルタは報告票を机の端へ置く。


「監察部へ写しを回してください。グライス監察官にも」


「はい」


「それと」


 マルタは、赤い判の押された欄を指で押さえた。


「クラリス・ヴェインの私設郵便屋について、以後の配達記録を集めなさい」


「調査、ですか?」


「記録です」


 マルタは淡々と言った。


「郵便は、記録されなければ制度になりません」


 テオは一礼し、報告票を受け取った。


 部屋を出る前に、もう一度だけ紙を見る。


 配達不能。

 配達済み。


 二つの文字が、同じ紙の上に並んでいた。


 テオは、半年前に止まった羽根ペンの感触を思い出した。


 そして、小さく息を吐く。


 あの魔女でなければ、届けられなかったのかもしれない。


 まだ声にはしなかった。


 だが、その考えは、記録官の胸の中に確かに残った。

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