風標の消えた村へ
町を出てすぐの空は、まだ飛びやすかった。
ローデンの上を通る本線風路は、中央局が管理している。
風標の灯は一定の間隔で並び、流れは太く、箒の穂先を置くだけで身体が前へ運ばれる。
郵便魔女にとって、よく整備された風路は石畳の大通りに似ている。
目を閉じていても進める。
もちろん、目を閉じて飛ぶ馬鹿はいない。
少なくとも、正式な訓練を受けた魔女には。
クラリスは箒の柄を軽く握り、北へ向かった。
左手には、ローデンの町並み。
右手には、冬枯れの畑。
遠くに見える山は、雲をかぶっている。
問題は、あの雲の下だ。
北方高地へ向かう本線風路から、旧ミルゼ村へ続く支線はもう中央局の地図に載っていない。
かつては小さな風標が三基あり、山の斜面に沿って、箒一つ分の細い流れを保っていた。
今は、ないことになっている。
ないことになった道を飛ぶのは、面倒だ。
まず、誰も整えていない。
次に、誰も助けに来ない。
最後に、落ちても中央局は困らない。
「実に合理的ですこと」
クラリスは小さく呟いた。
風が返事の代わりに、外套の裾を叩いた。
腰の郵便鞄に手を添える。
中には、エマから母へ宛てた婚礼の知らせが入っている。
封筒は動いていない。
湿りもない。
角も折れていない。
よろしい。
手紙に問題がないなら、あとは空の問題だ。
本線風路の流れが、北東へ大きく曲がる。
クラリスはそこで速度を落とした。
目の前には、中央局の風標が一基立っている。
空に浮かぶ鉄の灯台。
青白い火が、硝子の中で静かに揺れていた。
その下を通れば、本線に沿って安全に次の町まで行ける。
普通の郵便魔女なら、そうする。
クラリスは、風標の手前で箒を傾けた。
北へ。
地図から消された方へ。
その瞬間、箒の穂先が沈んだ。
足元の支えが、薄くなる。
本線風路から外れたせいだ。
太い流れに守られていた身体が、自分の重さを思い出す。
クラリスは左手を伸ばし、空を撫でるように指を動かした。
何も知らない者が見れば、ただ風を探っているだけに見えるだろう。
実際、半分はその通りだ。
風路は目に見える道ではない。
魔力が流れ、空気がわずかに歪み、箒の穂先がそれを拾う。
風標の灯があれば、その歪みは分かりやすい線になる。
灯がなければ、古い布のほつれを指先で探すようなものだ。
けれど、完全に消えたわけではない。
山の尾根に沿って、細い冷たさが残っている。
「ありましたね」
誰に聞かせるでもなく、クラリスは言った。
箒をその流れへ乗せる。
がくん、と柄が震えた。
古い風路に、箒が噛み合う。
正規の流れとは違う。滑らかではない。ところどころ途切れ、削れ、沈みかけている。
だが、通れないほどではなかった。
中央局の判定は、正確だった。
安全ではない。
そして、不完全だった。
不能ではない。
クラリスは速度を抑えたまま、山へ入った。
下には細い峠道が見える。
途中で崖崩れに削られ、荷馬車の轍は途切れていた。
地上から行けば、今日中には着かないだろう。
風が冷たくなる。
雲が近づく。
旧支線風路は、山肌に沿って曲がっていた。
かつては村へ生活物資や手紙を運ぶための小さな道だったはずだ。
今は、魔力の流れが痩せて、ところどころ骨のように白く感じる。
一基目の風標跡が見えた。
岩場の上に、折れた鉄柱が立っている。
硝子は割れ、灯はない。
根元には、古い保守札がぶら下がっていた。
中央局管理番号、北方支線三七。
点検停止。
再開未定。
「未定、ですか」
クラリスは風標跡の横を通り過ぎた。
「便利な言葉が多くて結構です」
その直後、横風が来た。
山の斜面から吹き上げた冷たい風が、旧風路の細い流れを押し曲げる。
箒の柄が跳ねた。
郵便鞄が腰に当たる。
クラリスは身体を低くし、膝で箒を押さえた。
右へ流されれば、岩壁。
左へ逃げれば、本来の風路を外れる。
下へ落ちれば、峠道まではかなりある。
どれも、あまり魅力的ではない。
「封筒優先」
クラリスは短く言った。
自分に言い聞かせたのではない。
身体の使い方を決めただけだ。
郵便鞄を抱える側を風下にする。
外套の裾を腕で押さえる。
箒の穂先を、横風の下へ差し込む。
風路は消えていない。
乱れているだけだ。
乱れの下に、細い流れがある。
そこへ箒を沈める。
落ちるのではない。
潜る。
身体が一瞬、鉛のように重くなった。
次の瞬間、箒が風を掴んだ。
クラリスは旧風路の下層に乗り直し、岩壁すれすれを抜けた。
頬に冷たい水滴が当たる。
雨ではない。雲の端だ。
まだ、間に合う。
二基目の風標跡は、見つからなかった。
あるはずの場所に、何もない。
岩肌に黒い焼け跡だけが残っている。
落雷か、魔力逆流か。
どちらにしても、中央局が閉鎖した理由の一つにはなる。
普通なら、ここで引き返す。
風標が二基失われた支線風路は、地図の上では道ではない。
飛ぶ者の勘に頼るしかない空を、郵便網とは呼ばない。
レオンハルトの声が、ふと頭の奥で響いた。
君の成功が、他の郵便魔女にとって死亡例になり得ることだ。
「ええ」
クラリスは、少し笑みを浮かべて答えた。
「ですから、他の方にはおすすめいたしません」
箒をさらに北へ向ける。
雲の切れ間に、山の尾根が見えた。
その向こうに、小さな平地がある。
古い地図では、そこにミルゼ村の名があった。
近づくにつれ、風路の気配はさらに細くなった。
ほとんど糸だ。
触れれば切れそうで、目を離せば見失いそうな、冷たい糸。
だが、糸は村へ続いていた。
クラリスは速度を落とし、尾根を越えた。
旧ミルゼ村は、そこにあった。
消えてなどいなかった。
家は少ない。
煙突から煙が上がっているのは、三軒だけ。
畑は半分ほど荒れ、村の入口に立つ標識は傾いている。
それでも、道はあった。
井戸もあった。
薪を積んだ小屋もあった。
ただ、中央局の台帳から名を消されただけだ。
クラリスは村の外れに降りた。
地面に足が触れた瞬間、膝に鈍い重さが来る。
細い旧風路を飛んだ後は、いつもこうだ。
身体の芯だけが、少し遅れて地上に戻ってくる。
クラリスはそれを無視した。
無視できる程度なら、問題ではない。
箒を肩に担ぎ、郵便鞄を確かめる。
封筒は無事だった。
よろしい。
村の中は静かだった。
中央局の郵便受けは、村の入口に残っていた。
赤い塗装は剥げ、投入口には薄い錆が浮いている。
その下に、小さな札が打ちつけられていた。
郵便取扱停止中。
停止中。
また便利な言葉だ。
クラリスは札を一瞥し、古い道を歩いた。
エマが言っていた家は、村の奥にあった。
屋根は低く、窓辺には乾いた薬草が吊るされている。
戸口の横には、小さな木箱が据えつけられていた。
郵便受けだ。
古いものだった。
雨に削られ、角が丸くなり、蓋の金具は何度も直されている。
それでも、きちんと閉まっていた。
郵便受けが生きている家は、まだ終わっていない。
クラリスは扉の前に立ち、軽く叩いた。
一度。
二度。
返事はない。
もう一度、少し強く叩く。
「郵便です」
家の中で、何かが落ちる音がした。
しばらくして、扉が細く開いた。
出てきたのは、白髪の女だった。
年は六十を過ぎているだろう。
肩に古いショールを掛け、片手に火かき棒を持っている。
クラリスは火かき棒を見た。
「用心深い方は嫌いではありません」
女は目を細めた。
「……誰だい」
「郵便屋です」
「郵便は、もう来ないよ」
「そのようですね」
クラリスは郵便鞄を開けた。
「ですので、私が来ました」
女の顔に、警戒と困惑が混ざる。
クラリスは封筒を取り出した。
雨にも雲にも触れなかった、薄桃色の封蝋。
二羽の小鳥の印。
「リディア・アウル様でいらっしゃいますか」
女の指が、火かき棒を握り直した。
「……そうだけど」
「では、お届けできますね」
クラリスは封筒を両手で差し出した。
「エマ・リース様より、婚礼のお知らせです」
リディアは、しばらく動かなかった。
火かき棒の先が、床に触れる。
かつん、と小さな音がした。
「エマが」
「はい」
「結婚するのかい」
「封筒の印を見る限り、そのようです。詳しくは中をお読みください」
リディアは封筒を受け取らなかった。
受け取らないのではない。
受け取るための手が、まだ動かないのだと分かった。
クラリスは急かさなかった。
郵便は、扉を叩くところまでは急いでよい。
けれど、受け取る手を急がせるものではない。
やがてリディアは、火かき棒を壁に立てかけた。
両手を、腰の前で一度こすり合わせる。
まるで土仕事の汚れを払うような仕草だった。
実際には、手は汚れていない。
それから、封筒を受け取った。
薄い紙が、白い指の間に収まる。
「……中央から、郵便はもう来ないと言われたが」
「はい」
「村の名がなくなったと」
「はい」
「風の道も、消えたと」
「たしかに風標は無くなっていましたね」
クラリスは言った。
「ですが、風路はまだ残っていました」
リディアは顔を上げた。
「じゃあ、ここはまだ、どこかにつながっていたのかい」
「少なくとも、今日のところは」
クラリスは答えた。
「明日以降は、保証いたしかねます」
リディアは、少しだけ笑った。
泣くよりも先に、笑った。
「妙な郵便屋だね」
「よく言われます」
「ありがたいね」
「それは、手紙を読んでからで結構です」
リディアは封蝋を見つめた。
二羽の小鳥。
町の者が婚礼の知らせに使う、ありふれた印。
それを、彼女は宝石でも見るように見ていた。
それから、封を切った。
紙の開く音が、静かな家の前に落ちる。
クラリスは視線を外した。
手紙の中身は、受取人のものだ。
郵便屋は、届けるまでは手紙を守る。
届けた後は、手紙から離れる。
ただ、リディアの指が震えたことだけは見えた。
風が村の道を抜ける。
雲が低くなっていた。
山はもうすぐ荒れる。
リディアは読み終えるまで、ずいぶん時間をかけた。
その間、クラリスは黙って待っていた。
やがて、リディアが小さく息を吐いた。
「四日後」
「はい」
「今夜から山が荒れるね」
「はい」
「歩いては、間に合わない」
「でしょうね」
リディアは手紙を胸に当てた。
「でも、返事は間に合うのかい」
クラリスは、リディアを見た。
白髪の女は、気丈に見えた。
ただ、背筋を伸ばしている。
古い村に一人残ったか弱い人間の顔ではなく、強い意志に満ち溢れた、母親の顔をしていた。
「内容と重さによります」
クラリスは言った。
「大きな荷物は無理です。帰りの風路は、さらに崩れそうですから」
「そんなに大げさなものじゃない」
「でしたら、間に合います」
リディアは頷いた。
「少し、待っておくれ」
そう言って、家の奥へ入っていった。




