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閉まっている店よりは

 ローデンの外れにある私設郵便屋は、以前より少しだけ店らしくなっていた。


 暖炉に火が入る日が増えた。


 茶葉の缶が軽くなるのも早くなった。


 仕分け棚には、配達済み控えが二枚入っている。


 旧ミルゼ村と、アスケル。


 二枚だけだ。


 それでも、空だった棚に紙が入ると、棚は空ではなくなる。


 看板も、前より見られるようになった。


 配達困難郵便、承ります。


 配達不能印の押されたものも、ご相談ください。


 通りがかった者が足を止め、首を傾げ、小声で何かを言う。


 それから、たいていは通り過ぎていく。


 クラリスには、それで構わなかった。


 看板は読むためにある。


 読んだ者すべてが扉を叩く必要はない。


 問題は、扉を叩く必要がある者ほど、クラリスが店にいない時に来ることだった。


 その日も、店の扉には札が下がっていた。


 配達中。


 御用の方は、日暮れ前後に再度お越しください。


 簡潔で、正確で、ひどく不親切な札である。


 午後の風は冷たかった。


 店の前の道は乾いている。


 郵便屋の扉は閉まっている。


 その閉まった扉の前で、老人が一人、封筒を持って立っていた。


 背の高い老人だった。


 肩は少し丸い。


 厚手の職人外套を着ている。


 袖口には、染料の跡が染みついていた。


 青と灰と、少しだけ深い紫。


 長年、水と布と染料を相手にしてきた手である。


 老人は看板を読み、札を読み、もう一度封筒を見下ろした。


 封筒には、赤い判が押されている。


 受領辞退。


 現地責任者確認済。


 老人はその判を、どうにも気に入らないものを見る顔で眺めていた。


「閉まっていますよ」


 声がした。


 老人は顔を上げる。


 店の横、古い雨樋の陰に、少女が立っていた。


 十代前半ほどだろうか。


 黒い髪を後ろでまとめ、目立たない服をきちんと着ている。


 手には、小さな帳面と鉛筆。


 靴の先には泥がついていた。


 ただし、封筒を見る目だけは、少し鋭かった。


「知っているよ」


 老人は言った。


「札にそう書いてある」


「日暮れ前後に再度お越しください、とも書いてあります」


「それも読んだ」


「では、日暮れ前後に来るといいです」


「帰ったら、また来なきゃならん」


「そうですね」


 少女は少し考えた。


 考える時間は短かった。


「依頼なら、預かれます」


 老人は眉を上げた。


「君は、この店の子かね」


「違います」


「では、なぜ預かる」


「閉まっている店よりは役に立ちます」


 老人は扉の札を見た。


 配達中。


 御用の方は、日暮れ前後に再度お越しください。


 風が吹き、札が板に当たる。


 乾いた音がした。


「……確かに」


 老人は小さく笑った。


「閉まっている店よりは、話を聞く人間の方が役に立つ」


「お名前を」


「ユルゲン・モルト。ブラン染織房の者だ」


「宛先は」


「リゼ・オルフェン。グレイン染織工房の住み込み見習い」


 少女は帳面を開いた。


 ページの端には、以前の荷運び仕事の計算が残っている。


 宿屋の買い出し表。


 古本屋の棚番号。


 小麦粉の重さ。


 郵便屋の依頼を書きつけるには、あまり整っていない。


 それでも、白い余白はあった。


 少女はそこに、ユルゲンの名前と宛先を書いた。


 字は小さく、少し右へ傾いている。


 あとで読みにくくなる字だった。


「差出人は、ブラン染織房でいいですか」


「正しくは、エレナ・ブラン。うちの親方だ」


「エレナ・ブラン親方」


 少女はそう書きつけた。


 行が狭い。


 もう窮屈だ。


 けれど読めないことはない。


「封筒を確認します」


「勝手に取らんのは感心だ」


「紙を破ると怒られます」


「誰に」


「古本屋の奥さんに」


 ユルゲンは封筒を差し出した。


 少女は両手で受け取る。


 封は切られていなかった。


 それなのに、受領辞退の判だけが押されている。


「本人が、断ったんですか」


「そういうことになって戻ってきた」


「違うんですか」


「分からない」


 ユルゲンの声は低かった。


「だが、これは開いてもいない」


 少女は封筒の口元を見た。


 たしかに、開いた跡はない。


 中身を読んでいない手紙に、断ったという判だけが押されている。


 それは、少し変だった。


 いや。


 かなり変だった。


「手紙の内容は」


「リゼを、うちの染織房で受け入れるという知らせだ」


「今の工房から移すんですか」


「本人が望めばな。エレナ親方は、あの子の布を見ている」


 ユルゲンは苦い顔をした。


「仕事がいいと言っていた。今の工房にいるより、うちで学んだ方が伸びるともな」


「本人は、それを知っているんですか」


「だから、手紙を出した」


 少女は封筒を見る。


 本人に知らせるための手紙が、本人に届かないまま、本人が断ったことになって戻ってきた。


 その赤い判が、急に腹立たしく見えた。


「中央局には」


「相談した。現地責任者の確認がある以上、有効だと言われた」


「だから、ここへ?」


「届けてくれる人を探して、な」


 少女は看板を見上げた。


 配達困難郵便、承ります。


 配達不能印の押されたものも、ご相談ください。


 受領辞退は、配達不能印ではない。


 けれど、赤い判は似ていた。


 もう終わった、と紙に言わせているように見える。


「明日の昼に、リゼの見習い契約が更新される」


 ユルゲンは言った。


「更新されれば、次に移れるのは一年後だ。エレナ親方は、無理に連れてくる気はない。あの子が本当に断ったのなら、それでいい」


 そこで一度、言葉が切れた。


「だが、断ったことにされたのなら」


 ユルゲンの声が少し沈む。


「それは、いけない」


 少女は封筒を持つ手に、少しだけ力を入れた。


 紙が曲がりそうになり、慌てて力を抜く。


「預かり票を書きます」


「書けるのかね」


「今、書いています」


 ユルゲンは少し笑った。


「強情だな」


「伝達漏れがあると、後で困ります」


「いい考えだ」


 少女は店の扉の横に置いてあった木箱を引き寄せた。


 もとは野菜か何かを入れていた箱らしい。


 底に古い藁くずが残っている。


 少女は慌てて払った。


 完全には取れない。


 少し考え、鞄から布を一枚出して底に敷く。


「それは?」


「保管用です。正式ではありませんが、何もしないよりはましです」


「それはそうだ」


 少女は封筒を木箱に置き、蓋を半分だけかぶせた。


 美しくはない。


 ただ、風では飛ばない。


「預かり賃をいただきます」


「店の子ではないのに、金を取るのか」


「だから、安くします」


「安くしても怒られるだろう」


「その時は、その時です」


 ユルゲンは銅貨を三枚出した。


 少女は受け取ったあと、すぐに困った。


 自分の財布に入れるのは違う。


 木箱の中に入れると、封筒と混ざる。


 結局、布の端を折り、その中へ銅貨を包んだ。


「君、名前は」


「ノエル・フィオレットです」


「では頼むよ、ノエル」


「はい」


 ユルゲンはうなずき、店の前から離れていった。


 その背中は、来た時より少しだけ軽く見えた。


 ノエルは木箱の横に座った。


 風が吹く。


 看板が揺れる。


 配達中の札が、かた、と鳴る。


 閉まっている店よりは役に立った。


 たぶん。


 ノエルは布に包んだ銅貨を見た。


 三枚。


 宿屋の残り物なら、二日分くらいにはなる。


 古本屋の奥さんに頼めば、欠けたパンもつけてもらえるかもしれない。


 だから、悪くない仕事をしたと思った。


 思ったあとで、木箱の中の封筒を見た。


 明日の昼、見習い契約の更新があり、一年後までそれを変えられない。


 さっきまで銅貨三枚ぶんだったものが、急に、知らない娘の一年分になった。


 ノエルは布包みを握り直した。


 少しだけ、指先が冷えた。


 ただの留守番ごっこでは済まないものを預かったのだと、ノエルにも少しだけ分かり始めていた。



 日が傾き始めた頃、空から箒の音がした。


 深緑の外套をまとった女が、店の前へ降りてくる。


 長い髪が、風で少し乱れていた。


 手には郵便鞄。


 顔には、疲労と不機嫌が薄く乗っている。


 クラリスは、自分の店の前に置かれた木箱を見た。


 その横に座るノエルを見た。


 最後に、木箱の中の封筒を見た。


「木箱が増えていますね」


 静かな声だった。


 静かすぎて、少し怖かった。


 ノエルは立ち上がった。


「ノエル・フィオレットです。ユルゲン・モルトさんから依頼を預かりました。ブラン染織房の方です」


「事情はあとで結構です。まず、封筒を」


「すみません」


「謝罪も後で。封筒を」


 ノエルは木箱から封筒を取り出し、両手で差し出した。


 クラリスは受け取った。


 赤い判を見た瞬間、顔から薄い疲れが消える。


 受領辞退。


 現地責任者確認済。


 封は切られていない。


 判の下に、受取人本人の署名もない。


 しばらく、風の音だけがした。


「これは、受領辞退ではありませんね」


 クラリスは言った。


 ノエルは、木箱の横で息を止めた。


「違うんですか」


「少なくとも、本人が辞退した証拠ではありません」


 クラリスの声は、さっきまでと少し違っていた。


 少女が勝手に依頼を預かったことを叱る声ではない。


 本人の口ではなく、赤い判が代わりに断っている。


 ノエルには、そんなふうに見えた。


 クラリスの顔つきが変わったのは、たぶん、そのせいだった。

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