内緒に、してください
クラリスさんは、エヴァさんから受け取った辞令を読んでいた。
そっと後ろからのぞき込む。
発令者の欄。レオンハルト。そこで、少し目が止まった。
長い話になるのかな、と思った。事情を聞いて、確かめて、それから決めるだろうか。
クラリスさんは、辞令を畳んで。
「承知しました」
短く言って、それで、終わりだった。
エヴァさんが、少し戸惑っているように見える。
「……以上、ですか?」
横で見ていて、ちょっと面白かった。
クラリスさんが、わたしを見た。
「ノエル。こちらのことを、お願いできますか」
「わたしが、ですか?」
エヴァさんも、わたしを見た。じぶんより、年上であるのは間違いないだろう。そんな人が、少し迷ったそぶりをみせてから、頭を下げた。
「……よろしくお願いします。先輩」
「せ、先輩!?」
……先輩。その一言は、悪い気はしなかった。
その日の午後、店を簡単に案内した。
エヴァさんは、真面目な人で、物覚えも早そう。
「ノエル先輩、これはどこですか」
「それは、こっちです」
「預かり札は、こちらで?」
「それは、三段目」
「ノエル先輩、これは」
「クラリスさんに渡さないようにしてください。勝手に持っていくので!」
奥から、声がした。
「勝手ではありません」
「勝手です! 何回それで数字が合わなくなったと思ってるんですか!」
エヴァさんが、わたしとクラリスさんを、順に見た。少し迷って、
「……先輩を、信じます」
「たいへんよろしい!」
「たいへん、不本意です」
クラリスさんが、後に続いてそう言った。聞かなかったことにした。
棚の高いところは、わたしには届かない。上の段は、エヴァさんに任せた。任せられる、というのが、少し、嬉しかった。
預かり札を、掛け直す。エヴァさんが次に困らないように、順番を、揃えておいた。
「先輩、これで合ってますか?」
「ええと、はい、合ってます!」
エヴァさんが、ほっとした顔をした。わたしも、少し、得意だった。
先輩、と何度も呼ばれた。教える相手がいるというのは、悪くなかった。
受付箱に、ごく普通の一通が入った。近くの村。現行風路。危ないところは、ないように思える。
クラリスさんが確かめて、エヴァさんへ渡した。
エヴァさんの手が、一瞬、止まった。
「……エヴァさん?」
「いえ。大丈夫です」
理由は、何となく想像がついた。クラリスさんも、少し迷っているようだった。
先に支度を始める。灯石を、鞄へ入れる。一つ。二つ。三つ。
「……多くないですか?」
「備えがあれば嬉しいな、という言葉があります」
「この距離で、ですか?」
「足りなくなってからでは、どうしようもできませんから」
鞄の留め具も、確かめた。緩んでいたら、途中で落とす。エヴァさんが、黙って受け取った。ちょっと満足した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
エヴァさんが飛んでいく。柄が浮いて、外套の裾が、風にあおられて、小さくなっていく。普通に、見送る。少し、安心した。クラリスさんも同じ意見のようだ。
エヴァさんは、普通に帰ってきた。
帳面を開く。帰投時刻。エヴァ・リュット。確認者、ノエル・フィンセント。
書いていると、エヴァさんが、何気なく言った。
「西側、少し流されましたね、すこし気を付けたほうがよさそうです」
クラリスさんが、顔を上げた。
「第二風標の辺り、でしょうか」
クラリスさんが風路図のほうへ歩いていき、エヴァさんもそれに続いた。
「はい。少し、上です」
そこから、二人の話が、勝手に進んでいった。
言葉は、短い。「あそこ」「上」「下」「押される」「抜ける」。手も動く。箒の傾き。風の入り。
その輪の中に、自分も混ざれるだろうか。
エヴァさんが、手のひらで、風の向きを作ってみせる。真似して、手を傾けた。
「こう、ですか?」
「あ、もう少し……こう、です」
エヴァさんが、わたしの手を直そうとして、途中で、止まった。
「……すみません。これ、手でやっても、分かりませんね」
「でしょうね」
帳面に、書こうとした。「第二風標、上部――」
その先が、書けなかった。
押される、と二人は言う。でも、どのくらい、どちらへ、が分からない。数字にも、言葉にも、ならない。
書きかけの行を、線で消した。
クラリスさんが、それに気づいた。
「……上から、風が来て」
言いかけて、止まった。手を、少し動かして、また止めた。
「言葉に、しにくいですね」
「はい」
この人でも、できないんだ。少し、ましな気がした。ほんの少し。
書けるところだけ、書いた。時刻。便名。宛先。飛んだ感じは、空欄のまま、残した。
次の便のことで、エヴァさんが、地図を開いた。
「クラリスさん。この入り方で、いいでしょうか」
「この辺りなら」
「ええ。ここから入れば」
二人だけで、進んでいく。指が、地図の上を、たどる。ここ、と、ここ。自分の知らない線を、なぞっている。
灯石を一つずつ、棚へ戻した。
一つだけ、少し、強く鳴った。
少しして、エヴァさんが、また来た。
「ノエル先輩、次は、何をすればいいですか」
いつもの、呼び方だった。
「……もう、分かるんじゃないですか」
「え?」
「だいたい、覚えたでしょう」
「はい。ありがとうございます」
エヴァさんは、褒められたと思ったらしい。
また、二人が、些細な空の話を始めた。何でもない、一言だった。
手の中で、灯石の箱が、少し、強く鳴った。
二人が、見た。
「ノエル?」
「……何でも、ありません」
クラリスさんが、まだ、こっちを見ている。
我慢の限界、だったんだと、思う。
「……わたし、いらないじゃないですか!」
エヴァさんが、目を見開いた。
「えっ」
「ご、ごめんなさい」
「エヴァさんじゃ、ないです!」
「はい!」
エヴァさんが、びくっとした。
自分でも、何を怒っているのか、うまく言えなかった。
「そうじゃ、なくて……!」
クラリスさんを見ても、続きが、出てこない。喉のところで、全部、絡まっていた。
「……もう、いいです!」
帳面を抱えて、受付台へ、戻った。
後ろで、エヴァさんが、何か言いかけた。
「あの、私――」
「エヴァさんは関係ありません!」
「……はい」
クラリスさんの声は、しなかった。
そのまま、夕食になった。
いつもなら、クラリスさんの皿へ、勝手に一つ足す。硬いものは、小さく切って、端へ寄せる。今日は、しなかった。
クラリスさんが、自分で鍋へ手を伸ばした。右手の、いちばん端の指が、うまく回らない。匙が傾いて、落ちかけた。
考えるより先に、手が出た。
「……貸してください」
匙を取る。硬い芋を、小さく切って、クラリスさんの椀へ入れた。いつもと、同じ手つきで。
入れてから、気づいた。
……怒っているのに。
「ありがとうございます」
「別に」
エヴァさんが、居心地が悪そうに、こちらを見ていた。何も、言えないでいる。
食べ終わると、エヴァさんが皿を下げるのを手伝ってくれようとした。
「あ、私が」
「……いいです」
つい、きつく言った。エヴァさんは、困ったようにしてから、静かに皿を置いた。
エヴァさんは、立ったまま、少し待って、それから、今日は失礼します。と言った。小さい声だった。
片付けをして、店を閉めた。
エヴァさんは、先に寮へ戻ったようだ。
二人に、なった。
クラリスさんは、昼間の話を、蒸し返さなかった。わたしも、何も言わなかった。
夜。クラリスさんが、戸を開けた。外へ、出ていく。
気づいていたけれど、ついていかなかった。
「ノエル」
返事を、しなかった。
「ノエル」
「……聞こえてます」
仕方なく、外へ出た。
夜空。風待ちの灯り。遠くの、風標。
クラリスさんの吐く息が、白い。雪を踏んだ跡が、一人分だけ、点いている。
昼間のことを言われる、と思って、勝手に、身構えた。何を言い返すか、頭の中で、少しだけ、用意した。
でも、クラリスさんは、何も言わなかった。
ただ、空を、見ていた。
わたしも、空を見た。星。ただの、星だ。昼間、二人が見ていたものは、ここには、ない。
足元から、冷えが、上がってくる。
言われるなら、早く言ってほしかった。何も言われないのが、いちばん、こわい。
しばらくして、手袋を、外した。片方だけ。
……なんで、手袋。こんなに、寒いのに。
しまってください、と、いつもなら言う。今日は、言えなかった。
それから、わたしの方へ、手を出した。手のひら。それだけ。
「……何ですか」
答えない。手も、下げない。白い息だけが、上がっていく。
迷った。昼間、いらないじゃないですか、と叫んだ相手が、今、こちらへ手を出している。
おそるおそる、手を乗せた。
クラリスさんの指が、閉じた。冷たかった。
その中に、途中までしか閉じない指が、一本ある。あの夜、わたしが巻いた指だ。
そこを、避けるように、握ろうとした。
クラリスさんの方が、その指ごと、握り返した。
そこで、世界が、変わった。
指の先から、何かが、入ってくるように感じる。
思わず、クラリスさんを、見た。
クラリスさんは、何も言わない。ただ、空を、見ている。
つられて、わたしも、空を見た。
この人がいつも感じているものが、繋いだ手を通して、流れ込んでくる。
風。方向。薄い場所。重い場所。遠くへ続く、流れ。頬に当たる冷たさの、奥のほう。
昼間、どうしても分からなかったものが、身体へ、入ってくる。押される。流される。ここなら、通れる。指の先から、じかに。
星が増えたんじゃない。道が、流れている。
風標から伸びる、光の流れ。現行風路は、はっきりしている。古い風路は、夜の奥に、細く残っている。途中で薄くなるもの。消えかけているもの。遠くへ、伸びていくもの。
風に揺れて、流れていく。
一筋。
また、一筋。
まるで流星だ、と思った。
でも、落ちない。地平から、地平へ。町から、町へ。風の中を、走っていく。
最初は、空に、見入った。
綺麗だった。それと同じくらい、訳が分からなくて、怖かった。
でも、途中で手が気になった。
これが見えているのは、おそらくこの手を繋いでいるからだ。
離せば、終わってしまうのだろうか。
そう思ったら、無意識に、握る手に力が入った。
クラリスさんも、握り返してくれる。
また一筋、風路が走った。
空を見る。それから、手を見る。また、空を見る。
握った手のひらに、脈が、あった。空の光より、それが、近い。
初めて見る景色なのに、繋いだ手の方が、同じくらい、気になる。
どっちを見ればいいのか、分からなくなった。
少しずつ、光が、薄れていった。
風路が、消える。いつもの夜空に、戻った。
試すように、一度、瞬いた。何も、見えない。
もう一度、強く、瞬いた。やっぱり、星だけだ。
自分の目には、戻らない。分かっていた。それでも、少しだけ、試した。
それから、繋いだ手を、見た。
まだ、繋がっている。
クラリスさんの、悴んだ手。自分の、冷えた手。
それでも、離さなかった。クラリスさんも、離さなかった。
しばらくして、言った。
「……ずるいです」
「内緒に、してください」
繋いだ指を、もう一度、握った。
クラリスさんもすぐに、握り返してくれた。
この景色を一生、自分は忘れられないと思う。忘れたく、ない。




