私にだから
その日も、未達便を追っていた。
照会室の机に綴りが積んである。病院へ移された受取人。転居先の分からない差出。名前は分かっても本人に行き着かない一通。行き先ごとに分けて、次の照会先を書く。
箒は持っていない。
窓の外で朝の便が上がっていく。その音には、まだ少し身体が固くなる。それでも手は動く。
マルタさんが来たのは二番鐘の少し前だった。
「エヴァさん。ちょっといいかしら?」
顔を上げる。また事故記録の照会だと思った。この人が来るのは、たいていそういうときだ。
「はい」
立って、綴りを一冊抱えようとした。
「それは置いたままで大丈夫よ」
手ぶらで来い、ということらしい。
監察官の部屋は前と同じだった。
窓は高いところに一つ。机が一つ。椅子が二つ。
ただ、机の上に書類の山はなかった。辞令が一枚。それだけ置いてある。
マルタさんは壁際に立った。
レオンハルトが目を上げた。銀縁の眼鏡。慰めも労いもない。
「エヴァ・リュット君」
「はい」
「君へ辞令を出す」
「……はい?」
「言うなれば、異動だ。ただちに準備をして合流してほしい」
「えっ、と……」
思わず、声が出た。何か、やってしまっただろうか。
「その、なんとか、ならないでしょうか」
表情を見ればわかる。私の言葉は、二人にはうまく伝わらなかったようだ。驚きと、焦りで、言葉がうまく出てこない。
「最近は、飛べるようにもなりました! お二人にはとても迷惑をかけたのは、理解しています。ですから……!」
そこまで言うと、ようやく合点がいったらしい。私の言葉を遮るように、マルタ課長が口をはさんだ。
「ごめんなさい、そういう意味じゃないの。先ずは、読んでもらった方が早いと思う」
辞令を覗き込む。配属先、風待ち郵便局。担当内容は中央局中継支局としての協力要請と、技術の提供を名目とされていた。
「……ど、ど、ええええ?」
全く理解が追いつかない。もう一度、読む。それでも、書かれている内容が頭に入ってこない。
「内容にある通り、君にはそちらへ出向いてもらいたい」
「待ってください! これはどういう……」
「私設郵便屋との繋がりを作り、配達業務を円滑にする。特段、珍しいことではないはずだが」
「いや、そうなんですけど!」
確かに、内容は理解できる。今回は郵便魔女が行っている郵便屋という類稀なケースだが、陸路での輸送などで、こういったケースは珍しくない。それでも、何故私が、と言う理由にはならない。
「わかっているなら結構。」
「いやいやいやいや! どうして私、なんでしょうか」
「面識があったろう」
誰と、とは言わなかったが、なんとなく、誰のことを刺しているのかはわかった。
「……お顔は知りませんよ?」
レオンハルトは眉ひとつ動かさない。
私は朝から照会票を書いていただけなのに、気づいたら、派遣の辞令を出されている。
辞令を二度見した。
「……これ、本物ですか」
「残念ながら」
マルタさんが横から言った。
「何が残念なんだ」
「いえ、何も」
レオンハルトが書類へ目を戻す。マルタさんは涼しい顔をしている。この人は査問室のあと、少しこうなった。
もう一度、辞令を見た。
さっきまで声を上げていたのに、急に、喉の奥が静かになった。
「……でも、私、一度――」
「まだ、それを言うのか」
顔を上げた。
レオンハルトはそれ以上、何も言わなかった。言われなくても分かっている。私があの日を、まだ自分で切れずにいる。それだけだと、この人は知っている。
聞きたいのは、飛んでいいか、ではなかった。うまく言えない。喉の奥で言葉がつかえた。
「……私、でいいんでしょうか」
郵便魔女の証になる鞄は、事故の日から、衣装箱の底で畳んだままにしてある。
レオンハルトは少し間を置いた。それから辞令の上へ目を落として、
「君にだから、任せたい。」
息を吸った。吸ってから、それがさっきより深く入ったことに気づいた。
それから、一度深く礼をして、
「エヴァ・リュット、内容承知しました」
そう伝えて、部屋を出た。
廊下でロットさんに会った。こちらに来ているのは、珍しい。書類を抱えて歩いている。私の手の辞令と、顔を、順に見た。
「リュットさん。それは……」
「配達に、戻ります」
ロットさんが固まった。
「……え」
「なんですか」
「いや、その……おめでとう、ございます?」
「なんで疑問形なんですか」
少し笑った。二人とも。
前にこの人に言ったことがある。まだ配達勤務には戻りません、と。あのとき、この人はそうですかと、寂しそうにしていた。
今日は、そうではなかった。
筆記台で一通書いた。
さっきまで、驚きっぱなしで、あれもこれも書かなければと思ったのに。いざ、一人になると、筆が進まなかった。
前は『生きています』しか書けなかった。
今日も、たいして変わらない。少し迷って、書けたのはこれだけ。
『仕事に戻ります』
まだ帰るとは書けない。いつ会えるとも書けない。でも嘘は書かなかった。
封をして宛名を書く。マレン・リュット。母の名だ。
鞄へ入れた。今度はロットさんに預けなかった。自分で持っていく。
女子寮の部屋。私の箒は壁に立てかけたままだった。事故の日から、そのままだ。
柄へ手を置く。
指の先に、あの日の感じが戻った。下へ引かれる。手が勝手に強くなる。
それでも壁から離した。
着陸場から発つ。
現行風路。灯は生きている。
高度を上げる。冬の終わりの風が指を刺した。身体が固くなる。あの日の空と重なりかける。
戻ろうと思えば戻れるのだと思う。だからこそ、前へ進んだ。
夕方の少し前。
雪の切れ間の下に、小さな屋根が見えた。
降りる。両足で地面に立った。ちゃんと着いた。
箒を抱えて戸口まで歩く。
鐘を鳴らした。
出てきたのは若い、というよりは幼い、女の子が一人。深緑の外套と、箒と、中央局の鞄を順に見て、それから目を戻した。何も言わない。
「……いらっしゃいませ」
奥から人が出てきた。
その顔は知らないが、声は知っている。
閉じた扉の向こうにいた私に、名前を名乗った女だ。
――エヴァ・リュット様へ、配達に参りました。
あのとき、そう言って現れた。
今度は私が、ここへ来た。この店から、届けるほうへ。
目が合う。
辞令を差し出した。長い挨拶はしなかった。この人にそれは要らない。
「エヴァ・リュットです」
一拍。
「本日付で、こちらへ派遣になりました」
クラリスが辞令を受け取った。
配属先を見る。それから、発令者の欄へ目を落とした。
レオンハルト。
その名前の上で、クラリスの目が止まった。




