終わりでは、ありません
夕方にはまだ、少し早い。
雪の切れ間の下に、店の屋根が見えた。昨日の夜、自分が出てきた場所だ。現行の風路を拾って戻ったので、帰りは行きほど危なげなく進めた。
店の前へ降りる。
箒を下ろした瞬間、脚に、思った以上に力が入らない。一度、壁へ手をついた。冷えた石が手のひらにじんと来る。
それから戸を開けた。
鐘が鳴る。
中に、二人いた。
ノエルが受付にいる。それはいい。けれどマルタも、まだいた。昨日、自分が出た後に帰るものと思っていた人が、外套も脱いで受付の内側に立っている。
なぜ、と思ったが聞くのは野暮、というものだろうか。確かに、残っている方が彼女らしい。
ノエルがこちらを見たまま止まった。相変わらず、取りつく島は、少なそうに見える。自分は、何をしてしまったのだろうか。配達中に考えないように努めてきたツケが、回ってきだろうか。
「ただいま、戻りました」
私がいつも通り声をかけても、ノエルは返事をしなかった。
うーむ、たいへん、まずいのかもしれない。
その代わりに、無言で受付台から出てきた。
まっすぐ私の箒を取る。いつもの壁へ立てかけようとして、途中で穂を見た。
氷を削り落とした跡。傷んだ金具。
そこで手が止まる。
「少し、氷が」
「見れば分かります」
言い終える前に切られた。今は、受け入れる他ないだろうか。
ノエルは箒を壁へ静かに立てかけると、それからこちらへ手を出した。
「鞄」
こちらも、黙って渡す。
ノエルはその場で中を確かめはじめた。
灯石。まだ残っている。二日分あった携行食は減っている。畳んだ包みも戻っている。それから、受領の控え。
控えには触らず、先に灯石を一つずつ出していく。
黙ってそれを見ていた。一つ、二つ、三つ。まだ出てくる。昨日は暗くて、数えなかった。こんなに入れたのか、と今さら思う。
「助かりました」
とだけ言った。感謝のつもりだ。
ノエルの手が一瞬止まる。それから、また灯石を出した。それきり、何も言わない。
何か、言い方を間違えただろうか。分からないから、こちらも言えることがない。
マルタはここまで口を挟まなかった。
ノエルが鞄から出した控えに、目を留めている。その視線に気づいたのだろうか、ノエルがそれを彼女に手渡した。
彼女は、それを一度、上から下まで読んでいるようだ。受領の時刻。第五鐘の前。届いている。読み終えているだろうに、すぐには手放さず、しばらくそのまま目を伏せていた。
紙の端を折りそうになって、指を緩めた。皺をつけたくなかったらしい。
私の、まだ濡れて凍った外套の裾へ、目をやる。それから、また控えへ。何か言おうとして、口が動きかけた。
「……そう」
「はい」
結局、それだけだった。
鞄を片づけていたノエルが、私の手に目を止めた。
手袋をまだしている。
「手」
「はい?」
「見せてください」
外した。まだ赤い。一本は動きが鈍い。曲げようとすると、遅れてついてくる。
ノエルの顔が変わった。何かをこらえるような、それでいて怒っているような。なぜこの子が、私の手一つでそんな顔をするのか、私には、分からない。
ノエルはその手を取った。指に触れる。少し顔をしかめたらしい。
「痛いですか」
「……少し」
報告は、正確に。ノエルにそう教えたのは、こちらだ。
触れた指をすぐには離さなかった。かといって、どうするでもない。しばらく待ったが、その手は動かなかった。
やがて手を離すと、湯を取りに立った。
戻ってきた椀に指を入れかけて――やめた。熱すぎたらしい。持ってきた本人が、それを持て余している。
「……気持ちだけでも」
と、私が言った。
ノエルは椀を置いた。今度は水で薄めて戻ってくる。布を持っている。手首まで巻こうとして、途中で止まった。
一本ずつ、触っていく。三本目で、手が止まった。
「……これ」
「はい」
「動かして」
動かす。ほとんど曲がらない。
「もう一回」
やってみる。結果は同じだった。
「……もういいです」
怒ったように言って、ノエルは布を取り直した。鈍い方へ、そっと当てる。強く巻いていいのか分からないらしく、緩い。ほどけそうなほど緩い。
「座ってください」
言われた通り座る。かなり乱暴な声だった。手つきだけはとても丁寧であるが。
「ノエル」
返事はない。
「何か、してしまった、でしょうか」
ノエルの手が止まった。
「なんでもありません」
「そう、ですか」
「はい」
嘘でしょう、とは言えなかった。言ったところで、たぶん答えない。ただ、思っていたより、ずっと酷いらしい。さて。どうしたものだろうか。
ノエルが鍋を火へ掛けた。
「食事は携帯されたものを……」
ノエルが振り返る。その形相に、言葉が詰まる。たいへん、よろしくなかったらしい。
「……いただきます」
ノエルは笑わなかった。それでも器は出した。
湯を使いながら、私は少し妙なことに気づいた。
火が小さくなって、マルタが薪を一本足した。太い方だ。
「それじゃなくて、細い方」
ノエルが、こちらを見もせずに言う。マルタは言われる前に、もう取り替えていた。
自分の使った茶器を、いつもの場所へ戻しかけて、一つ棚を間違える。ノエルが黙って、隣へずらした。
昨日まで、この二人はほとんど互いを知らない者同士に近かったはずだ。
「……随分、馴染まれましたね」
二人が同時にこちらを見た。
「馴染んでません」
「馴染んでないわよ」
ほとんど同時だった。
「そう、ですか」
何があったのかは聞かなかった。
鐘が鳴った。
三人とも、入口を見る。今度は、客だった。雪を払いながら入ってくる。手に、一通。
ノエルが反射で受付へ立った。私も、身体が先に立ちかける。
「座ってください」
押し戻された。
客は、肩の雪を払いながら入ってきた。年配の女の人だ。
「これ、お願いできますか」
一通を台へ置く。封の端に、雪が少し染みていた。
「昨日から降ってばっかりで。濡れてませんよね、これ」
ノエルが受け取って、表と裏を確かめる。
「大丈夫です。中までは、いってません」
「よかった。孫のとこなの」
ノエルは料金を受け取り、消印を押した。慣れた手だ。
「お預かりします」
客が、もう一度雪を気にしながら出ていった。また鐘。
届いた一通を、ノエルが仕分け棚の前へ持っていく。いつもなら、この時刻の便は私が地区ごとに分ける。手を伸ばした。
封の角をつまめない。鈍い指が紙の縁を二度、滑った。
ノエルが黙って、それを取った。
宛名を一度見る。棚の上段へ。次の一通は隣。迷わない。私が座ったままでいるあいだに、一通ずつ、いつもの場所へ収まっていく。
私は手を膝へ戻した。座って、それを見ていた。
匙を持ち直そうとして、取り落とした。
床で、乾いた音がした。
マルタとノエルの手が同時に伸びる。二つの手が匙の上でぶつかった。マルタが先に拾う。ノエルへ渡そうとして、ノエルはもう新しい匙を出していた。
行き場をなくした古い匙を、マルタは少しのあいだ持て余していた。それから、黙って流しへ運ぶ。ノエルは、新しい匙を、私の左手の側へ置いた。
誰も、それについては何も言わなかった。
ノエルが受付帳を持ってきた。私の帰投を書く。いつものように。
帰投時刻。クラリス・ヴェイン。確認者、ノエル・フィンセント。
ペン先が紙へ少し強く当たった。それだけだった。
私が帰ったので、マルタもようやく立った。外套を着る。
「お帰りですか」
「ええ」
マルタは出る前に、私の巻かれた手を一度見た。それから、ノエルを見る。
何か言うのかと思った。
「じゃあね」
ノエルは少し遅れて、
「……お気をつけて」
昨日、この二人のあいだに何があったのだろうことは、想像に難くない、が。どこか蚊帳の外にいるように感じてしまう。
鐘が鳴る。戸が閉まる。
二人だけになった。
ノエルはまた鍋を見ている。私は椅子。
少し沈黙があった。
何か言おうと名前を読んでも、
「喋らないでください」
「はい」
どうやら、今日はこのまま待つしかないようである。
「食べてください」
「はい」
冷えた身体に汁物がしみる。鈍い指では匙が持てないので、左で持った。ノエルはそれには何も言わなかった。ただ、私の椀の位置を、動く手の側へ少しずらした。
食べ終わる頃、ノエルが鞄へ戻した灯石を見ていた。それから壁の箒の、傷んだ穂を。
「遅いです」
時計を見た。まだ約束した日のうちだ。
ノエルは、こちらを見ない。もう掻き回すもののない鍋を、まだ掻き回している。空いた器を、少し強く、台へ置いた。
「すみません」
まだ今日です、と言いかけたが、たぶん、可愛い弟子が言いたいのは、そういう事ではないのだろう。
ノエルが器を取った。流しへ持っていく。
その途中で止まった。振り返らない。
「……おかえりなさい」
私もすぐには返せなかった。
それから、言った。
「ええ。ただいま、戻りました」




