理由など、必要ありません
旧支線へ入る最後の現役風標を抜けた。
振り返れば、風待ちの灯りもローデンの灯りも、もう夜の底へ沈んでいる。前には標のない闇。冬のあいだ、誰も使わない路だ。それでも風の残り方は読める。使われていないことと、消えていることは違う。
箒の穂へ雪が当たる。まだ大きい。頬にもぶつかっては溶ける。この程度なら、たいへん結構な夜である。飛べる夜だ。
鞄を押さえ直す。中で灯石が、こつ、と鳴った。一つではない。二つ、三つ、余分に触れ合う音がする。
――「少し、多いのでは」
自分がそう言ったとき、あの子は顔も上げなかった。知りません、そんなこと。まだ怒っているのだろう。たぶん、今も。
少し、困る。けれど箒の上でできることはない。飛ぶだけだ。
風が変わった。
高度を上げていく。頬に当たる雪が細かくなる。粒が鋭くなる。手袋の甲へ白いものが残った。払う。少しして、また、つく。
箒から片手を一瞬だけ離す。穂先を見た。
薄く、白い。
それだけでいい。考えることは何もない。やることがあるだけだ。
箒がほんの少し左へ取られた。
体重を右へ。戻る。また左へ。今度は少し早い。穂の片側に氷が乗りはじめている。
高度を落とす。雪を受ける面が変わるように、風上へ身体を向け直す。手袋の指を一度握る。
まだ、動く。まだ飛べる。
けれど、飛べることと、このまま飛び続けることは、同じではない。氷は落としておいた方がいい。今落とさなければ、旧支線のいちばん荒いところで落とす羽目になる。
少し先に、使われなくなった小さな張り出しが見えた。昔の風標の管理台だろう。
そこへ降りる。
降りた足の下で雪が深く沈んだ。踏み固められた覚えのない雪だ。長いこと、誰もここへは降りていない。
半分だけ残った風除けの板。錆びて動かなくなった固定具。雪に埋もれた足場の縁へ箒を立てかけた。
縁の石に、細かな傷がいくつも走っている。硬いもので氷を叩き落とした跡だ。古い。
自分が、初めてでは、ないらしい。
壁の残りへ肩を預けた。それから箒を確かめる。
降りた瞬間から分かっていたが、いつもより重い。穂の片側。軸。金具。白く、厚い。
手袋をしたまま、大きいものを落としていく。硬い塊が足場の雪へ、ぼたぼたと落ちた。
思ったより厚い。落としても、また下から出てくる。手間がかかる。
こうしている間も第五鐘は近づく。止まらなければ、この氷は落とせない。落とさなければ抜けられない。抜けられなければ間に合わない。降りたのは正しい。正しいが、ただでは、ない。
手を速めた。
細かいところは、片手だけ手袋を外す。冷たい。金具へ触れた指が一瞬張りつきかける。すぐ離す。たいへん、行儀の悪い金具である。
灯石を一つ出した。温めるためではない。手元を見るためだ。
明かりの中で鞄の底を覗く。灯石はまだいくつも残っている。数えていないが、多い。帰りの分にしては多すぎる。指の力の入った、乱暴な詰め方だった。
誰もいない張り出しで、小さく言った。
「……助けられた、でしょうか」
あの子には聞こえない。それでも、これは返事だ。
氷を落とし終える。
すぐ飛ぼうとして、鞄の中の包みが手に当たった。携行食だ。これも、あの子が押し込んだ。
紐の結び目がいつもと違う。固く、二重に締めてある。ほどくのに少し手間取った。中身も多い。一日で戻るといったのに、二日分はある。
立ったまま硬い保存食を囓る。味はしない。冷えて、口の中でなかなか砕けない。それでも、ここで入れておいた方がこの先手が持つ。
包みは畳んで鞄へ戻した。
長居はしない。氷は落とした。行く。
箒が浮く。ここから風が荒い。
雪ではない。細かな氷の粒が混じる。前へ進むほど箒が重くなる。
一度、沈んだ。
強く引き上げない。少し落として速度を戻す。持ち上げようとすれば失速する。落とせば、また流れに戻れる。
横風。身体が傾いた。片手が一瞬滑る。握り直す。指の感覚を確かめる。
まだ、動く。
視界が一度ほとんど白くなった。上も下も分からない。
目を閉じても同じだ。だから箒に預ける。穂が拾う風のわずかな偏りだけを、手のひらで読む。右が重い。まだ氷が残っている。それを勘定に入れて身体を置く。
どれくらいそうしていただろうか。凍てつく寒さがほんの少しの時間を、長く感じさせたように思う。
ふいに、粒が途切れた。前が見えた。
息を吸っていなかったことに、そこで気づく。
指が一本、途中までしか曲がらない。手袋の中でかじかんでいる。握れるうちに握っておく。
胸の奥が、一度、縮んだ。
鞄が身体へ当たる。中には四人の連名陳述書と、マルタの提出書。
また、前を見た。
東がわずかに明るくなってきた。
夜が薄くなる。雪の向こうに、灯りではなく標が見えた。目的地側の現役風標だ。
旧支線を抜けた。
まだ、朝である。間に合ったには違いないが、どれくらい余裕があるのかまでは、分からない。
風の質が変わる。箒が急に軽くなった気がする。
そこで、はじめて、私も少し息を吐いた。
まだ、終わっていない。
届け先に指定された施設に着いた。
朝だ。建物の中は暖かい。外にいた身体には暖かすぎるくらいだ。
私は雪と氷にまみれている。凍った外套の裾が暖気で溶けて、足元へ水を落としはじめた。石の床に溜まりができていく。
受付へ行く。
職員が顔を上げ、私の格好を見て、それから床の溜まりを見て、少し固まった。こういう客の捌き方を教わっていないのだろう。
「郵便です」
それだけ言った。
職員が包みを受け取る。両手が少し濡れた。
宛先。進退審議の、案件。差出人の名。中央局の受付印はない。普通の正規便でないことは、表を見れば分かる。
「これは……」
職員が言葉を探している。私の顔と包みとを、交互に見た。
「お預かり、いただけますか」
「……少々、お待ちください」
包みを持って奥へ消えた。
待つ。
壁際の椅子へ腰を下ろす。ここへ来て、はじめて座った。凍った裾から、まだ水が落ちる。
扉の向こうで足音が行き来している。一人ではない。誰かが誰かを呼んだらしい。低い声。何を言っているかは分からない。この包みのことであることだけは、何となく分かる。
手袋を外す。指が赤い。さっき途中までしか曲がらなかった一本は、まだ戻りきらない。動かそうとすると、遅れてついてくる。
震えていた。
空では止めた。止めなければ握れなかったからだ。着いてしまえば、止める理由がない。
震える手を膝の間へ挟んだ。暖かい室内が、かえって、それを引き出してくる。
扉を見る。まだ開かない。
開いたのは、しばらくしてからだ。
出てきたのは別の人だった。審議側の書記だろうか。若くはない。手にあの包みを持っている。
立った。膝の間の手が離れて、また少し震えた。
書記は受付の机でマルタの提出書を開いた。連名の陳述書は封を切らずに脇へ置いてある。指で提出書の行を追う。途中で一度戻って、読み直した。
「差出人は、マルタ・キール」
「はい」
「あなたは」
「風待ち郵便局所属、クラリス・ヴェインです」
それ以上は言わない。書記が顔を上げた。
「……これは、正規の経路を通ったものではありません、ね?」
知っている。
「受領は、できます。ただ、これがどのように扱われるかについては、お約束できかねますが」
脇に、封を切っていない陳述書が置かれている。表書きだけが見えた。――進退審議の件、陳述書在中。中に誰が何を書いたかは、外からは分からない。
包みを書記の側へそっと寄せた。
「それで、構いません。こちらまでが、私の仕事です」
書記が私を見た。それから包みを見る。壁の時計。まだ第五鐘には間がある。締切の前だ。
書記は、抽斗から受領の帳面を出した。
「……受領します」
署名。受領の時刻。印。
それを確かめた。
判が押される。
小さな音がした。
そこまで来て、ようやく、届いた。
膝から力が少し抜けた。座らずに立っていられる。今はそれだけのことが、たいへん、ありがたい。
受領の控えを受け取り、鞄へしまった。
連名の陳述書は封を切られないまま、向こう側へ残る。四人の言葉が、ようやく、読むべき人たちのいる場所へ入った。あとは、あちらの仕事だ。
帰ろうとすると、はじめの職員が私の凍った外套を見た。
「……お気をつけて」
「ありがとうございます」
戻る、ではない。帰る。
外へ出た。朝の空だ。雪はまだ降っているが、夜ほどではない。
箒に戻った薄氷を落とす。
空を見る。
来た方角――旧支線の側はまだ暗い。細かい氷が風に乗って走っている。反対の側は明るい。距離はあるが、現役の風標が点々と並んでいる。
箒の向きを旧支線とは反対へ向けた。
箒へ跨がる。
鞄の中で灯石が鳴った。一つ、多い。いや、もっと多い。あの子が押し込んだ分だ。
――「……絶対、ですから」。
間に合うように、飛ばなければ。
あの子の、待っている方へ。




