飛べない私には
汁物の器が空になった頃、クラリスが、椅子から立った。
冷えた体は、温まったのだろうか。さっきまでかじかんで赤かった手が、留め具を危なげなく外していく。乾かしていた外套を、肩から羽織り、手袋をはめて、壁の箒を、取る。
その一連を、黙って見ていた。
中央局にいた頃、何度も見た覚えがある。この女は飛ぶ前になると、いつも少ない口数が更に減る。愛想が悪い、というよりは、頭の中が、もう既に空にあるといった方が適切なように思う。声をかけても、上の空の返事しか返ってこない。だから、彼女に用があるなら支度に入る前に済ませておけ、と、あの頃は言われたものだった。
鞄を、持ち上げる。一度、軽く揺すって、中身の位置と、重さを、確かめる。留め具を、指で、押さえる。
昔と、同じだ。
この女が、頼まれて嫌々飛ぶような女でないことは、知っている。知っていたからこそ、私はここまで持ってきた。都合のいい人間、そう思われるのは承知の上で、私は今、ここに座っている。
それでも、箒の穂が、壁から離れる、その音がしたとき。膝の上で組んでいた指に、勝手に、力が入った。
店番の女の子は、ずっと不機嫌そうに見える。眉間にしわを寄せ口元を尖らせ、時折何かをつぶやいているように少し動く。
帰りの分の灯石を、鞄へ入れる。一つ。二つ。それから、もう一つ。
クラリスが、それを見た。
「少し、多いのでは」
ノエルと呼ばれた子は、顔を上げず、クラリスを見ることもなく、準備を続けていく。
「知りません! そんなこと!」
クラリスが、困っているように見える。あの子のあんな顔、初めて見たかもしれない。
「……受け取っておきます」
ノエルは、携行食の包みも、押し込む。クラリスが、何か言おうと口を開きかけると、その前に、
「良いから少しでも休んでてください!」
と、被せた。
クラリスは、何も、聞き返さず、根負けしたように、何も話さなくなった。
外套の胸元の留め具が、一つ、甘い。ノエルは、無言で、それを締め直した。その手つきはとても丁寧だ。顔は相変わらず、険しいままだが。
クラリスが戸を、開ける。
雪。夜の底から、白いものが、絶え間なく落ちてくる。冷えが、いっぺんに、室内へ入ってきた。
クラリスが、箒と共に出ていった。二人とも、戸口まで、ついていった。
クラリスが箒へ跨がって、こちらを見る。
「では」
店番の女の子は、そっぽを向いたまま、何も言わなかった。
クラリスが、少し待った。急かしはしない。ただ、待った。
ようやく、口を開く。
「それで」
クラリスが、鞄へ目をやる。
「はい」
「いつ頃、戻ってこれそうですか」
「明日中には、必ず」
その、たった二往復を、私は、横で聞いていた。相変わらずだと思った彼女に見えた変化に、少しだけ驚いた。
クラリスの箒が、ふわりと、浮く。
そのときになって、ノエルが、
「……絶対、ですから」
クラリスは、一度だけ、振り返った。それから、小さく、頷く。
冬の夜、凍てつく風の中へ、出ていった。
白い帳の向こうへ、灯りが一つ、遠ざかって、消える。見えなくなっても、ノエルは、しばらく、そこに立っていた。私も、ただクラリスが消えていった跡を、何となく眺めていた。
店番の子が先に、店へ戻った。
戸を閉める。鐘が鳴り、鍵を掛けた。掛け方が少し、強い。
あの子は、クラリスの使った器を持って、奥へ行く。水の音。皿が一枚、流しの底で、少し大きな音を立てた。割れてはいないだろうか。
受付へ、戻る。けれど、座れなかった。何をすればいいのか、分からない。ここは、私の局ではない。帳面のつけ方も、照会の手順も、知らない。手が、余っている。
奥から、ノエルの声がした。
皿を洗いながら、こちらを見ずに立つ、年頃の女の子の姿が、そこにはあった。
「……中央局の魔女は、落とせないから」
ああ、その通りだ。だから、それ以上は、許してもらえないだろうか。
ノエルは、皿を見たまま続ける。
「クラリスさんは、中央局の魔女じゃ、ないから」
言葉が、途中で、切れた。
その先が途切れてくれたのは、正直、ありがたいと思ってしまう。だが、意に反して喉の奥が、詰まる。詰まったそばから否定のほうが、先に出た。
「そんなつもりで、持ってきたんじゃない!」
ノエルが、振り返る。
「じゃあ、どういうつもりで……!」
「私だって……わからないわよ! 捨てられなくて! 納得できなくて!」
声が、ぶつかった。
「あの人が、勝手に……。勝手に全て終わらせようとしてるのを。黙って、見てろっていうの……?」
私は何をやっているのだろうか。相手はまだ子供だというのに。情けなくて、悔しくて。もう、わけがわからなくて。
それでも、ノエルは、引かなかった。
「だからって……。だからって、こんなの、あんまりです! クラリスさんを利用して!」
「利用したわけじゃない! お願いしに来ただけ、じゃない……!」
「同じじゃないですか」
「違うわよ!」
昔から知っているぶんだけ、言葉が、勝手に出た。
「あの子は、嫌なら受けない。きちんと仕事は選ぶのよ?」
「そんなの、知ってます!」
即座に、返ってきた。
「知ってるから、腹が立つんです!!」
ノエルが、さっきまでクラリスが座っていた椅子を、見た。空いた盆が、そのまま、残っている。
「帰ってきたばっかりなのに!!」
私は、止まった。
「さっきまで、そこにいたんです。ご飯食べて、手を、温めて」
声が、強くなる。
「やっと、帰ってきたのに……!」
「分かってるわよ」
「分かってない!!」
ノエルが、いちばん痛いところを、突いてきた。
「クラリスさんが行くって、知ってたんでしょう」
私は、その剣幕に押され、少し黙った。ほんの、少しだけ。それでも。もう、こちらも引けないところまで、来てしまった。
「知ってたわよ」
言った。
「知ってたから、持ってきたのよ」
ノエルの顔が、ついに、崩れた。こちらを侮蔑する色が、はっきりと浮かんでいる。
「最ッ低……!」
「そうね」
後悔は、している。それでも、選んだことまで、嘘にはできない。私はそれを選んでしまったのだから。何よりも大事な譲れないものが、ある。
「それでも……。諦められなかったのよ……。」
言い合いの途中で、ノエルの声が、突然、別の方向へ、折れた。
「私、何にも、分からなかった」
何のことだろうか。
「さっき。二人で、勝手に、分かった顔して」
今は口をはさむべきではないことだけは、茹で上がった今の自分でも理解できた。
「着氷が出る、難関風路って。それだけで、二人とも、分かって」
ノエルの声が、震えた。
「私は、何が、難しいのかも、分からなかった」
勢いのまま喋っていた声が、そこだけ、落ちた。
「……だって、私、飛べない……から……!」
声に嗚咽が混じり、か細くなっていき、ついには泣き声の中に埋もれてしまった。
何も言うことが出来ない。
ノエルは、一度、口を閉じて、泣き声を抑えようとしているのだろうか。それでも、泣き声も、こちらを刺すための言葉も、止まらなかった。
「箒に氷がついたら、どんなふうになるのかも、わからない……!」
飛行時のバランスが崩れ、姿勢制御が難しくなる。郵便魔女の墜落例で最も多いのがこれだ。
「手が冷えたら、どんな影響が出るのかも……!」
箒を掴む握力が無くなれば、それも墜落の原因の一つになる。
「まだ飛べるのか、もう、飛んじゃ駄目なのかも……!」
墜落に直結するのだから、言うまでもないことだろう。
一つずつ、自分が知らないものを、並べていく。郵便魔女にとっては、どれも常識と言って差し支えないものだ。
「飛んだこと、ないから」
もう、私を責める声ではなかった。ノエルが、膝の上で、片手を、握った。爪の跡が、つきそうなほど。
私も、まだ、昂っていた。だから、慰める前に、口が、動いてしまった。
「だったら、聞けばよかったでしょう」
その瞬間、ノエルが、顔を上げた。
「聞いたら、飛べるようになるんですか!?」
私は、止まった。
「教えてもらって、全部、覚えたら。私も、クラリスさんのところまで、行けるんですか!? クラリスさんの代わりに、あなたの持ってきたものを届けられるんですか……!?」
理解、してしまった。
「箒に氷がついてるって分かったら、私が、助けに行けるんですか……!?」
理解してしまったから、返せなかった。
「できないでしょう!!!」
ノエルが、怒鳴った。
「私、飛べないんだもん……」
ノエルが、灯石の箱のところへ、行った。
残った数を、数えはじめる。一つ。二つ。三つ。最後まで、数えて、また、最初へ戻る。
「さっきも、数えてたでしょう」
言うと、
「知ってます」
強かった。それでも、また、数える。
少しして、声が、落ちた。
「でも、これしか、できないんです」
私は、黙った。
「灯石、入れて。ご飯、持たせて。帳面、書いて」
そこで、止まった。
数えかけた灯石から、手を、離す。戸を、見た。それから、さっきまで箒のあった壁の、空いたところを、見た。
私でも、行けるかわからない。その言葉が、喉まで、出て、止まった。
さっき、着氷、と聞いたとき私は黙って頷けた。ノエルは、頷けなかった。
何か、励ましを、と思って――やめた。
代わりに、出たのは、これだけだった。
「……腹が立つものね」
ノエルは、まだ、尖っていた。
「何が、ですか」
「何もできないのがよ」
ノエルは、返事をしてくれなかった。随分と、嫌われてしまった。
暖炉の火が、少し、弱くなっていた。
ノエルが薪を取りに立とうとする。私が先に立ち、聞いた。
「どこ」
「……下です」
「これ?」
「その、隣のやつ……です」
薪を、取る。袖に、煤が、ついた。気づいたが、払わなかった。暖炉へ、くべる。
薪の端が、赤くなる。ぱち、と一度、爆ぜた。二人とも、しばらく、何も、言わなかった。
屋根から、雪の塊が、滑り落ちた。
ノエルが、入口を、見た。私も、見た。違う。
しばらくして、風が、戸を鳴らした。今度は、私のほうが、先に振り返っていた。ノエルも、つられて、見る。違う。
どちらも、それについては、何も言わなかった。
時計を、見る。クラリスが出てから、まだ、それほど経っていない。帰りを気にするには、早すぎる。ノエルも、それは、分かっている。だから、「遅い」とは、言わない。
ノエルが、自分の手を、見ていた。箒を握ったことのない手だ。指を、一度、曲げて、開く。それから、また、窓を見た。
夜が、深くなってから。ノエルが、ふいに、言った。
「昔も、こうだったんですか」
ああいう人でしたかとは、聞かなかった。それでも、何を聞かれたかは、分かった。
少し、間を置いて、
「もっと、酷かったわよ」
ノエルが、初めて、少しだけ、顔を上げた。
大きな話は、しなかった。一つだけ。中央局にいた頃、ずぶ濡れで戻ってきたクラリスに、先に着替えろ、と言ったのに、あの女は、預かった封書を、こちらへ差し出して、
「こちらが、先です」
と、譲らなかった。それだけの、話だ。
「……クラリスさんらしいですね」
ノエルが、言った。
「でしょう」
ほんの一瞬だけ、二人の怒りの向きが、同じ方を向いた。笑いには、しなかった。
怒り疲れたのか、ノエルが、机で、うとうとし始めた。
毛布を、肩へ掛けてやる。ノエルが、すぐ、目を開けた。
「寝てません」
「寝てたわよ」
「寝てません」
「はいはい」
「子供扱い、しないでください」
まだ、喧嘩腰だった。それでも、毛布は、外さなかった。
しばらくして、私のほうが、椅子で、うとうとしていたらしい。肩に、別の毛布が、掛かっていた。ノエルは、何も、言わなかった。私も、言わなかった。
窓が、少しずつ、白くなっていく。
クラリスは、いない。帰投の予定には、まだ早い。異常では、ない。それでも、二人とも、ろくに眠れなかった。鏡がなくても分かる。私の髪も、店へ来たときほど、整ってはいないだろう。
ノエルが、湯を、沸かした。茶器を、二つ、出す。
もう、「飲みますか」とは、聞かなかった。私の前にも、一つ、置く。
「どうも」
それだけ言って、飲んだ。
入口の鐘が、鳴った。
二人とも、同時に、立った。
――違う。朝便の、郵便魔女だった。
ノエルが、一瞬だけ、黙る。それから、すぐに、店番へ戻った。郵便を、受け取る。いつもの、仕事の声で。朝便の魔女が、去っていく。また、鐘。静かに、なる。
私は、もう一度、座った。ノエルは、届いた郵便を、行き先ごとに、分けはじめる。
しばらく仕分けを続けてから、ノエルが、ふいに、言った。
「帰ってきたら、怒ります」
私は、茶器を持ったまま、
「……そうね」
「すごく、怒ります」
今度は、私も、
「私もよ」
ノエルが、こちらを見た。
一拍、置いて、
「あの馬鹿に」
ノエルは、笑わなかった。
「私は、クラリスさんに、です」
「そう」
封書を、一通、分ける。もう、一通。
それから、
「だから、帰ってきてもらわないと、困ります」
私は、返事を、しなかった。




