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相変わらず、ね

 その晩は、少し遅くなった。


 店の灯りが、雪の向こうに見えたときには、正直、ほっとした。夜の風は、癖が読みにくい。無理に急いで、いいことはあまり、ない。


 戸を押すと、鐘が鳴る。


 中は、暖かい。外套の肩から、雪が、ぱらぱらと落ちる。箒を、いつもの場所へ立てかけた。穂の先で、溶けかけた雪が、ひとつ、床へ落ちた。


「遅かったですね、何か、ありました?」


 帳面を開いたまま、ノエルが言う。店じまいの途中だったろうか。暖炉の上の鍋から、湯気が立っている。片方の脇に、盆が一つ。わたしの分だ。手を付けずに、温かいところへ、寄せてある。


「ええ。少し、風路の機嫌が優れなかったようで」


 手袋を外す。指が、かじかんでいる。暖炉のほうへ、寄ろうとして――そこで、気づいた。


 受付の椅子に、客がいる。


 こんな時刻に。しかも、見覚えのある顔だった。


 中央局にいた頃から、顔も、声も知っている。仕事で言葉を交わしたことも、一度や二度ではない。ただ、最後に向かい合ったのは、査問室だった。あのとき、自分の外套を受け取った人でも、ある。特別、親しいわけでも、溝があるわけでも、ない。


 彼女たちの仕事と、私の仕事がぶつかった。ただ、それだけのことだった。


 さて。そんな人が、今、施設郵便屋の受付に、背を伸ばして、座っている。膝の上で、両手を、きちんと重ねて。落ち着かないのだろうか。黒いウェーブのかかった髪をゆっくりと、かき上げた。たいへん品のある、艶っぽい佇まいである。ここでは、少し、浮いているが。


「お久しぶりです」


 こちらから声をかけると、少し遅れて、


「……久しぶり、ね。ほんと」


 と、返ってきた。声が、あのときより、硬い。昔のことには、どちらも触れなかった。触れて、どうなるものでもない。


「クラリスさんに、直接お話したほうが良いかと思いまして、待っていただいたんですが……」


 ノエルが、そう言って、受付台のほうを、目で示した。それから、小声で付け足す。


「……届けていただきたいものがある、とは仰ったんですが、それきり、だんまりでして……。」


 ノエルは少し、心配するような、不安を抱えているような、そんな表情を浮かべているように見える。


 本当に。優秀な弟子を持つと、苦労が絶えない。


 台の上に、封書が一通、置いてある。


 彼女は徐に立ち上がり、椅子が少し、鳴る。さっきノエルへ言ったのであろう言葉を、今度は、私へ、正面から向けた。


「……届けて欲しいものが、あるの」


 表に、宛名。レオンハルト監察官の名前がある。その脇に、小さく、文書の種別が添えてあった。進退審議の件、陳述書在中、と。差出人側で、書き添えたものらしい。


 用途は、表で分かる。それから、裏を返して、差出人を確かめた。連名。レナ。テア。グレタ。ソフィ。


 封蝋は、割れていない。指で押した縁が、そのまま、固まっている。


「……なんとなく、理解は出来ました」


「ええ、おそらく、想像通り、だと思うわ」


 宛名は、監察官。差出人は、四人。封は、閉じたまま。それが、なぜ、本人の手元を離れて、こんな時刻に、ここへ出てくるのか。宛名の人物に面識があるからこそ、理解できる。ただ、不可解なのは。


「なぜ、こちらに」


 その問いに、彼女は答えなかった。代わりに、黙ったまま、こちらの手元を見ている。


 つられて、目を移す。届いたのに、開けていない。届いた先の人間が、開けていない。そして今、差出人でも受取人でもない女の手から、雪の夜に、自分の手元にやってきた。


「……受取人は、こちらを受領されたんでしょうか」


「そう、ね」


「受け取っておきながら、封を切ることは、しなかった」


 少し、間があった。マルタの指が、膝の上で、一度、握られた。


「処分しろ、と、だけ」


 なるほど、と思う。それで、事情の輪郭が、はっきりと定まった。


 封書を、持つ手に少しだけ、力が入る。裏の四つの名前を、上へ向けたまま、卓へ置き直す。


「本人が、そう選んだのなら、仕方がないことではありませんか」


 受け取ったものを、どうするか。それは本人が決めるべきことであると、常々そう思ってきた。郵便魔女にできることは、選べるようになるように、手紙を届けるまでだ。


「相変わらず、ね。本人がきめたんだから、仕方ない。ええ、本当にその通りよ、そうするのが正しい。そんなことは、わかってる」


 彼女は思い切り、右手を振り上げ、そのまま、封書の置かれたテーブルへ叩きつける。鈍い音が、大きくなり、棚の整理をしていたノエルが驚いて、何かを落としたのが見えた。


 そんなことは知ったことではない、と言わんばかりに、彼女はまくし立てるように、続ける。


「仕方ない、では納得が出来ない。彼には、まだ、やらなきゃいけないことが……」


 改めて、彼女を真っ直ぐ見つめる。その瞳は怒りに燃えている。今にも何かが零れ落ちしまいそうなほど、真っ赤に充血している。


 ……たいへん、よろしくない。


 言葉が続かず、彼女は、勢いよく首を振った。悔しそうに見えた。すべてを理解した上で、ここまで一人でやってきたのだろう。


「これが届かなければ、私たちは、また、何も守れなくなる……!」


 そう、思ってしまう、と、言った。宛先が監察官で、差出人が四人で、この時期であれば、用は察しがつく。けれど、それは推察であって、事実ではない。


 加えて、これを「届ける」という依頼は、そのままでは、成立しない。この封書は、もう、宛先へ届いてしまっているからだ。


「この封書を、どちらへ」


 彼女は、初めて、宛先を口にした。レオンハルトの、最終審議の場。その名を、よどみなく言った。ずっと、頭の中にあったのだろう。


「では、あなたから一通、書いてください」


 一瞬、驚いたように見えた。


 それ以上は、言わない。規定の講義など、かつての上官には、不要である。


 彼女は、しばらく、封書を見ていた。それから、小さく、うなずいた。


 ノエルが、奥から、紙と、筆と、インクを出してきた。受付台の、封書の隣へ、並べる。


 マルタが、座る。四人の封書は、横に置いたまま。手は、伸ばさない。読まない。


 新しい紙へ、書きはじめた。


 最初の数行は、速かった。宛名。日付。差出人が誰であるか。この人は、書類を書き慣れている。手が、迷わない。


 途中で、止まった。


 筆先が、紙の上で、少し、浮いている。何を書くか、ではなく、書いていいのか、で止まっているのだろう。


 インクが、筆の先でふくらんで、ひとつ、紙へ落ちそうになる。彼女は筆を一度、インク壺の縁で切った。それから書いた。ひと文字ずつ、確かめるように。


 書いてしまうと、少し、楽になったように見えた。次の数行は、また、速い。


 この人が紙を扱う手は昔と、変わらない。迷いのない、事務の手だ。その同じ手が今、中央で処分されるはずだったものを、自分の名前で、外へ出そうとしている。


 変わりましたね、とは、言わない。言うことでもない。


 最後に、名前を書く手が、一度だけ、止まった。いちばん長く、そこで止まった。


 マルタ・キール。


 書いてしまえば、この一通は、四人の話でも、レオンハルトの話でもなくなる。この人自身が、紙の上へ入る。それでも、書いた。署名の下の線まで、きちんと引いた。


 筆を、置く。指の先に、インクが、少し、ついていた。


 ノエルが、新しい包み紙を広げて、書き上がった提出書と、四人の未開封の封書を、一つに、まとめて収めた。四人が封じた言葉は、誰も読まないまま、審議先へ向かうことになる。そこへ、マルタの一通だけが、加わる。


 これで、ようやく、届けられる郵便になった。


「期限は」


「明日の第五鐘まで」


「間に合う道に、心当たりは」


 マルタが、少し、黙った。答えは、すぐに出たらしい。それでも、口にするまでには、間があった。


「あります」


「どちらでしょう」


「冬は、使わない支線……」


 少し、間があって、


「着氷が出る、難関風路」


 それだけ、言った。経路の話は、そこで、終わりにした。着氷が出る難関風路。それだけで、郵便魔女には十分である。


 外套に、まだ雪が残っている。外を見ると、止む気配はない。ノエルの、帳面をめくる手が、止まった。


「当然、彼もこの道に心当たりが」


「間に合うことも、分かっているようだったわね」


「それでも、彼は」


「ええ、その通り」


 少しして、付け足した。声が、低くなった。


「誰も、出さない、と」


 ――なるほど。


 四人の名前を、見る。この四人を、まだ飛べるうちに帰した人が、今度は、自分の番になって、誰も出さないと決めた。自分が残るために、誰かを冬の道へ出すくらいなら、残らなくていい、と。


 息を、一つ、吐いた。


「……相変わらず、ですね」


 それ以上は、言わなかった。人には帰れと言い、危ないなら止まれと言い、自分のことだけは、いつも、いちばん軽く捨てる。


 そういう人だと、知っている。査問室で、たった一人、私の言い分を、咎めたのもその信念が故に、である。


 そして、この人が今、腹を立てている理由も、たぶん、分かる。


「だから、お願い……」


 マルタの声が、少しだけ、堰を切った。膝の上の手が、ほどけて、封書のほうへ、向きかけて、止まる。


「四人から来たものだと、分かっていたのに。一日、開けなくて。何度も、手に取って。それでも、開けなくて。……最後には、処分しろって。私に。自分のことだけ、勝手に決めて」


 言葉が、途中で、乱れた。あの美しい佇まいをしていた人の、言葉とは思えない。


「そう、ですね」


 静かに同意すると、彼女は少し、驚いた顔をした。庇うと思っていたのか、たしなめると思っていたのか。何か言いかけて、口を、閉じた。この男のことでだけは、なぜか、話が通じてしまう。


 それでも、まだ、言い切っていないことがある。この人は、そういう順番で話す。腹の立つことを先に出して、いちばん言いにくいことを、最後に残す。


 もう一度、彼女は、口を開いた。


「……ただ」


 こちらを、まっすぐ、見る。


「彼本人は、望んでいない。これが、届くのを」


「はい」


「私は、それに、従わず、これを持ってきた」


 言葉にしてしまうまでに、ずいぶん、時間がかかった。もう、引き返せない、そう理解していても尚、避けた言葉を。


 彼女はそれを、こちらが断る理由だと思っている。本人が望んでいない。しかも、自分は命令に背いている。あの査問室で、私に何を言ったか。


 この聡明な人が、忘れているはずもない。同じ人が、今は、規定の外へ持ち出した手紙を前に、こちらの返事を、待っている。断られても仕方がない、という顔で。


 目を、別々の筆跡で書かれた名前へ滑らせた。


 レナ。テア。グレタ。ソフィ。


「届けない理由には、なりません」


 四つの名前が、封の向こうにある。


 要らないと言ったのは、レオンハルトだ。この四人では、ない。


 それに――これは、マルタには言わないけれど。


 あの人は、査問のとき、わたしを中央局の持ち物のようには、扱わなかった。判定は判定として下しても、命令だけは、私個人へは、向けなかった。


 あの一点を、こちらは、まだ覚えている。その人が、今度は自分を捨てようとしているからといって、こちらには、そのまま捨ててやる義理は、ない。


 もっとも、届けたい理由は、こちらの勝手だ。口に出すことでもない。


 それから、ノエルは、温めておいた盆を、わたしの前へ、置いた。少し、音が、強い。匙の向きを、こちらへ、直してから、目も合わせずに、鍋のほうへ、戻っていった。


「先に、食べてください」


「はい」


 素直に、座る。マルタが、少し、意外そうに、こちらを見た。すぐにでも発つと思っていたらしい。届けたい。けれど、今すぐ、雪の中へ飛び出すわけでもない。食べて、指を戻して、濡れた外套を乾かして、箒の具合を見る。少し休んでからでも、遅くはない。


 汁物を、一口。出来立てではないが、それでも、まだ温かい。かじかんでいた指の先に、少しずつ、感覚が、戻ってくる。


「いつ、出るんですか」


 ノエルが、受付帳を、引き寄せながら、訊いた。


「食べ終わったら、少し休んで。それから」


 ノエルの手が、止まった。


「今夜ですか」


「はい」


 ノエルが、嫌な顔をした。隠しもしない。


 夜の着氷路が荒いのは、知っている。それでも、今、出れば、期限まで、余裕が残る。夜だからやめる、という理由より、そちらのほうが、大きい。それだけのことだ。


 ノエルは、飛ぶな、とは言わなかった。言っても、聞かないと知っている。ただ、受付帳の出発の欄へ、今夜、と書いた。今夜、の字が、少し、濃い。


 マルタは、まだ、受付にいた。


 用は、済んでいる。帰ればいい。一度、膝の上の鞄を、持ち上げた。立ちかけて――そのまま、また、膝へ戻す。腰は、椅子から、浮かなかった。


「……私も、ここにいて、いいですか」


 ノエルが、一瞬、彼女を見た。それから、こちらを見て、また、彼女へ、向き直った。


「どうぞ」


 それだけ、言った。


 ノエルの筆が、受付帳の、依頼人の欄で、止まった。


「お名前を」


「……マルタ・キールです」


 ノエルが、書く。マルタ・キール。彼女は、その字を、少しのあいだ、見ていた。自分の名前が、届ける側の帳面に載る。中央局の判の下では、なく。


 汁物の残りを飲み干した。匙を置く。指は、もう動く。


 ノエルが、立ち上がった。棚から、帰りの分の灯石を、出しはじめる。あまり、嬉しくなさそうな手つきで。それでも、出す。今夜、自分が飛ぶための、支度を。


「……中央局の魔女は落とせないからって」


ノエルが小さく呟いた声は、誰の耳にも、届かない。

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